第21話 泥の特攻、阿鼻叫喚の最前線
世界が、茶色い回転木馬だった。
天、地、泥、空。
視界が洗濯機の中のように高速で回転し、俺の平衡感覚は完全に破壊された。
俺は、走っているのではない。完全に落ちているのだ。
水を吸って膨れ上がった鎧下の藁束は、乾燥時の何倍もの体感重量と化していた。それが重力の加速を受け、制御不能の砲弾となって泥の斜面を滑落していく。
「ぶぐッ、がっ!?」
呼吸ができない。
藁が水分で膨張し、鎧という鉄の殻の内側で、俺の胸郭を万力のように締め上げているのだ。息を吸おうとしても、肺が広がらない。
止まれない。
ブレーキなどない。仮にあったとしても、背後からは殺気立った三千の織田軍が雪崩となって押し寄せてくる。立ち止まれば即座に踏み潰され、泥の一部になるだけだ。
俺は、ブレーキの壊れたダンプカーと化して、そのまま今川軍の陣幕へと突っ込んだ。
ドガァッ!!
鈍く、重い衝撃音が脳髄を揺らした。
俺の背中が、陣幕を支える太い丸太の杭に激突したのだ。
メリメリッという木の裂ける音と共に、杭がへし折れる。
「かはッ……!」
肺の中に残っていたわずかな空気が、すべて強制排出された。
視界が白く明滅する。
俺は泥水の中に無様に転がり、ピクリとも動けなくなった。
痛い。全身がバラバラになったように痛い。
顔を上げる。
そこは、日常の延長線上にあるはずの昼食の時間だった。
数秒前まで、雨上がりの爽やかな空気の中で休息を取っていたであろう今川兵たち。
彼らは、箸を止め、椀を持ち、口を開けたまま凍りついていた。
その視線の先に、俺がいた。
距離、わずか数メートル。
目が合った瞬間、最前列にいた足軽が、裏返った悲鳴を上げた。
「ば、化け物ぉぉぉ!?」
無理もない。
今の俺は、全身が粘土のような泥に覆われ、鎧の隙間からは湿った藁を内臓のように垂れ流し、泥汚れの中で白目だけがギョロリと動いている。
この世の終わりのような形相で、空から降ってきた泥人形。
それが俺だった。
「ひぃッ! く、来るな!」
しかも、ただでさえこの巨体だ。敵兵の一人が、恐怖に耐えきれず錯乱した。
持っていた長槍を構え、闇雲に突き出してくる。
殺される。
俺は悲鳴を上げて身をよじろうとした。だが、泥に足を取られ、重すぎる藁鎧に動きを封じられている。
回避不能。
ズンッ!
重い衝撃が、俺の左脇腹を襲った。
「ぎっ……!」
激痛。肋骨が悲鳴を上げる。
だが――突き抜ける感触がない。
槍の穂先は、俺の皮膚に達する前に止まっていた。
鎧の下に詰め込んだ、分厚く圧縮された濡れ藁の層。
だが、刺さってはいる。
繊維が複雑に絡み合い、槍先をガッチリと咥え込んで離さない。
「ぬ、抜けない!?」
敵兵が顔を引きつらせ、必死に槍を引く。
ググッ、と俺の体が持っていかれる。
「や、やめろ! 引っ張るな!」
俺は反射的に、自分に刺さった槍の柄を両手で掴んだ。
敵兵がさらに引く。俺も引く。
泥沼の綱引き。
「離せぇぇぇ! この化け物めぇ!」
敵兵が半泣きで叫ぶ。
パニックになった俺は、思考力を失っていた。ただ痛いのは嫌だという本能だけで、槍を掴んだまま、全体重をかけて前へ倒れ込んだ。
ドォン!
俺の体重は、水を含んだ藁の重さも加えて百キロを超えている。
泥に足を取られた敵兵の上に、その質量爆弾が直撃した。
敵兵が「ぐえっ」と蛙のような声を上げて潰れ、そのまま泥の中に沈んで気絶した。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
槍が抜けない。
脇腹から長い棒が生えたまま、俺は芋虫のように這いずった。
周囲で、爆発的な怒号が上がった。
「ひぃッ、槍が効かんぞ!」
「刺しても死なん! 倒しても起き上がってくる!」
「泥の亡者だ! 山の神の祟りだぁ!」
恐怖は伝染する。
一人の悲鳴が、十人の動揺を生み、それが百人のパニックへと拡大していく。
逃げ惑う今川兵たち。
その背中を、俺の後ろから雪崩れ込んできた織田の軍勢が、イナゴの大群のように食い破っていく。
「茂助様に続けぇ!」
「見ろ、茂助様が敵の槍を腹で受け止め、敵兵を圧殺したぞ!」
「不死身だ! 鬼の茂助だ!」
背後から聞こえる、木下組の狂喜の声。
違う。俺はただ、槍が抜けなくて泣きながら転がっているだけだ。
だが、俺が偶然作った穴から、殺意の塊となった織田兵が次々と敵陣へ浸透していく。
目の前で血飛沫が舞う。首が飛ぶ。
地獄絵図。
鉄の臭いと、泥の臭いが混じり合った、戦場特有の悪臭が鼻を突く。
俺はただ、この殺し合いの渦から抜け出したくて、必死に手足を動かした。
(向こうへ……人がいない向こうへ!)
だが、進めば進むほど、なぜか敵の密度が濃くなる。
皮肉にも、俺が逃げようとする方向は、敵兵が必死に守ろうとする場所、本陣だったのだ。
ズズ……ズズ……。
俺が進むたびに、敵兵が「化け物が来る!」と叫んで道を空ける。
まるでモーゼの十戒だ。
俺という異物を起点にして、鉄壁だったはずの今川の防衛ラインが、音を立てて崩壊していく。
限界だった。
手足が鉛のように重い。喉が焼けるように渇いている。
胃袋が、恐怖による収縮を超えて、強烈な飢餓感を訴え始めた。
そういえば、いつからか何も食っていない。
人間、死ぬ直前になると、理屈抜きでエネルギーを欲するらしい。
「……なんか、食わせろ……」
俺は朦朧とした意識で、泥の上をまさぐった。
その時だった。
目の前に、ひっくり返った漆塗りの箱が落ちていた。
中からこぼれ出ているのは、泥にまみれたむすびと、焼き魚、そして黄色い沢庵。
おそらく、敵のお偉いさんがパニックになって放り出した高級な昼食だ。
今の俺には、それが黄金の山に見えた。
(……食わなきゃ)
本能が叫んだ。
戦況などどうでもいい。衛生観念など犬に食わせろ。
今はカロリーだ。カロリーがなければ、あと一メートルも動けない。
俺は獣のように這い寄り、泥のついた手で握り飯を掴み取った。
ジャリッ。
砂の音。
構うものか。
俺はそれを、口の中に押し込んだ。
味などしない。ただの燃料補給だ。
焼き魚の骨が歯茎に刺さるのも無視して、俺は咀嚼し、喉に詰まらせながら飲み込んだ。
胃袋に物が落ちると、少しだけ視界がクリアになった気がした。
ふぅーっ、と長く息を吐く。
顔を上げると、そこは戦場の中心だった。
激しい乱戦の中、そこだけがエアポケットのように人が寄り付かない場所。
倒れた旗指物、逃げ惑う足軽、追いすがる織田兵。
その混沌の真ん中に、一つの希望が鎮座していた。
立派な朱塗りの輿。
屋根がある。壁がある。
そして何より、外界と隔絶された個室の形をしている。
俺の朦朧とした直感が、電流のように告げた。
(……あそこだ)
あの中に入れば、矢も雨も防げる。
この地獄のような開放空間で、唯一のプライベートスペースがあそこにある。ネットカフェの個室ブースのような、安らぎの空間。
中に誰がいるか、などと考える余裕はなかった。
ただ、あの箱の中に逃げ込んで、扉を閉めて、膝を抱えて震えていたい。
それだけが、今の俺に残された唯一の生存戦略だった。
俺は口の端についた米粒を、泥だらけの手の甲で乱暴に拭った。
そして、獲物を見つけた肉食獣のような血走った目で、その安全地帯をロックオンした。
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