第20話 豪雨の進軍、泥濘のデスマーチ
視界が、白一色に塗りつぶされていた。
呼吸をするたびに、大量の水飛沫が気管に入り込む。
「ご、ぼッ……はぁ、はぁ……!」
俺は、砦を出てすぐの山道で、陸に居ながらにして溺れるような感覚に陥っていた。
豪雨だ。
バケツをひっくり返したなどという生易しいものではない。空の底が完全に抜け、巨大な滝壺の中に放り込まれたかのようだ。叩きつける雨粒が痛い。顔を上げれば目を開けていられないほどの水圧が襲いかかる。
足元は最悪だった。
普段なら何でもない山道が、今は褐色の濁流と化している。一歩踏み出すたびに、草鞋が泥の底なし沼に吸い込まれ、それを引き抜くのに倍の体力を削られる。
さらに悪いことに、俺の装備は異常な状態だった。
防具代わりに鎧の下に詰め込んだ、大量の「藁」。
乾燥していた時は、「これで矢が刺さっても痛くないぞ、天才的なアイデアだ」と自画自賛していた軽くて温かい緩衝材が、今は豪雨を限界まで吸い込み、鉛のような重りとなって俺の肩に食い込んでいた。
重い。あまりにも重い。
まるで濡れた布団を全身に巻き付けてマラソンをしているようだ。吸水した藁は膨張し、胸郭を圧迫して呼吸すら妨げる。
(脱ぎたい……! 簗田様の言うとおりだった……!)
だが、止まることは許されない。
背後からは、殺気立った数千の織田兵が続いているのだ。俺が足を止めれば、後ろの兵がつっかえ、将棋倒しになり、そのまま泥の中に踏み潰されて死ぬだろう。
進むも地獄、止まるも地獄。これが、桶狭間への行軍だった。
「遅れるな! 走れぇッ!」
後方から、雷鳴にも負けない怒号が飛んできた。
森なんとかって人だ。
鬼のような形相で、遅れそうになる足軽の尻を槍の柄で叩きながら叱咤している。彼はこの豪雨の中でも全く体幹がブレず、泥を跳ね飛ばしながら戦車のように進軍していた。
「うぅ……無理です、もう無理……」
俺は泣き言を漏らしながら、四つん這いになった。
二本足で立つことすら困難なのだ。泥の坂道で何度も滑り落ちそうになり、そのたびに地面の草や木の根にしがみつく。爪の間に泥が入り込み、指先が裂けるように痛い。
「……茂助! こっちだ!」
先導する簗田政綱が、森の切れ目を指差した。
地元の地形を知り尽くした彼が選んだのは、正規の街道ではなく、獣道に近い山中のルートだった。
本来なら平地を進むべきだが、俺が直前に「森の中を行きましょう」と進言したのだ。
理由は単純。「雨風を凌ぎたい」という甘えと、「街道で敵に見つかって蜂の巣にされるのは嫌だ」という臆病さからだ。木陰に入れば少しは雨も弱まるだろう、そんな安直な考えだった。
だが、その選択すらも、今は俺を苦しめていた。
森の中は、闇だった。
昼間だというのに、厚い雨雲と鬱蒼とした木々に遮られ、視界はほとんど効かない。
バキッ、ベキッ。
顔に濡れた枝が鞭のように叩きつけられる。足元の木の根が、罠のように足をさらう。
「ひぃっ!」
俺は派手に転んだ。
顔面から泥水に突っ込む。口の中にジャリッとした砂と腐葉土の味が広がる。
「げほっ、おぇ……ッ」
吐き出そうとするが、泥が喉に張り付いて取れない。
もう嫌だ。帰りたい。パソコンの前でコーラを飲んでいたい。
なんで俺は、こんな泥まみれの山奥で、窒息しそうになりながら這いつくばっているんだ。
恐怖と疲労で涙が滲む。だが、その涙も雨と泥に混じって誰にも気づかれない。
必死に顔を上げた時、近くを行軍していた兵士たちの視線を感じた。
彼らは、泥にまみれて這いずり回る俺を見て、息を呑んでいた。
「……見ろ、茂助様を」
一人の足軽が、震える声で隣の男に耳打ちした。
「泥に塗れることを厭わず、獣のように地を這って進んでおられる……」
「ああ……敵に気配を悟らせぬための、究極の低姿勢か……!」
「この豪雨の中、身を挺して一番危険な先頭を進むとは。……これが、覚悟というものか」
違う。
腰が抜けて立てないだけだ。鎧が重すぎて起き上がれないだけだ。
だが、雷鳴と豪雨が俺の「ひいぃぃ!」という悲鳴をかき消し、泥だらけで目を剥いた必死の形相だけが、「鬼気迫る闘志」として周囲に伝染していく。
「茂助様に続け! 遅れるな!」
「俺たちも這って進むぞ! 頭を上げるな!」
兵士たちが次々と四つん這いになり始めた。
異様な光景だった。数千の軍勢が、まるで巨大な蛇のように、泥の中を無言で這い進んでいく。
その先頭にいる俺は、ただの「栓」だった。俺が止まれば、後ろから押し寄せる圧力で圧死する。だから、泣きながら手を前に出すしかなかった。
一時間ほど歩いただろうか。あるいは永遠にも感じられる時間。
感覚が麻痺し、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなった頃。
不意に、視界が開けた。
「……止まれ」
信長の、低く、しかしよく通る声が響いた。
俺たちは、小高い丘の稜線に出ていた。
眼下には、窪地になった谷間――桶狭間が広がっている。
そこには、信じられない光景があった。
そして、その瞬間。
奇跡が起きた。
今まで世界を叩き潰す勢いで降っていた雨が、嘘のようにピタリと止んだのだ。
ゴオォォ……という風の音が消え、急激な静寂が訪れる。
サーッ……と雲が切れ、西日が差し込んだ。
その光がスポットライトのように照らし出したのは、谷底に密集する今川軍の本陣だった。
数千、いや何人いるかはわかんない。
谷間を埋め尽くすような軍勢。だが、そこに「戦」の空気は微塵もなかった。
彼らは皆、具足を緩め、木陰で雨宿りをしたり、濡れた服を乾かしたりしている。酒を酌み交わす者、昼寝をする者、武装を解いてリラックスしている者。
完全な油断。
この嵐の中、敵が山を越えてくるとは夢にも思っていない、無防備な背中の群れ。
あまりの無警戒ぶりに、俺は恐怖よりも先に、呆気にとられた。
(マジかよ……。本当に、誰も気づいてないのか……?)
ゲームなら索敵範囲に入った瞬間に敵が赤く表示されて襲ってくるはずだ。だが、現実は違った。彼らにとって、この豪雨は「休戦の合図」でしかなかったのだ。
「……いた」
俺の隣で、信長が呟いた。
その声には、熱狂と冷静さが同居していた。
チャキッ。
信長が愛刀を抜いた。その金属音が、雨上がりの澄んだ空気にやけにクリアに響いた。
「……見よ。天は我らに、敵の喉元を晒してくれた」
信長の声は、歓喜に震えていた。
俺の隣に立つ彼の横顔は、雨に濡れて青白く光っていたが、その瞳だけが燃えるような殺気を宿していた。
「熱田の神は、我らを見放さなかったぞ……!」
背後の兵士たちが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえるようだった。
極限状態の行軍、疲労、絶望。それらが、目の前の「無防備な敵」を見た瞬間、強烈な「殺意」と「希望」へと反転していくのが肌で分かった。
空気が張り詰める。今にも弾けそうな風船のように。
俺は、ガチガチと歯を鳴らしながら、その光景を見ていた。
怖い。
多い。多すぎる。
確かに敵は油断している。だが、腐っても一万以上の大軍だ。あんな数の暴力の中に、わずか三千にも満たない俺たちが突っ込んで、本当に勝てるのか?
失敗すれば、なぶり殺しだ。
(……嫌だ。戦いたくない)
俺は反射的に、後ろへ下がろうとした。
少しでも安全な後ろの方へ。
だが。
「うぐっ……」
背中に、硬い壁が当たった。
振り返ると、そこには森なんとか様の鋼のような肉体があった。
いや、それだけではない。木下藤吉郎、そして殺気立った数千の織田兵たちが、今にも飛び掛からんばかりの姿勢で密集している。
下がれない。
物理的に隙間がない。
俺は、最前列の信長のすぐ脇、断崖の縁という特等席に取り残されていた。
「茂助、邪魔だ。どけ」
「は、はい! 今すぐ下がります、一番後ろまで下がりますから!」
俺は必死に脇へ退こうとした。
だが、水を吸った「藁鎧」が重すぎて、思うように動けない。足元の泥がヌルヌルと滑る。
その時だった。
「狙うは今川義元の首ただ一つ!!」
信長が、裂帛の気合いと共に扇子を振り下ろした。
「かかれぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
ドォォォォン!!
号令と同時だった。
後ろに控えていた数千の軍勢が、抑圧から解放されたダムの水のように一気に爆発した。
ものすごい圧力が、最前列の俺に襲いかかる。
「ちょ、待っ……押すな! 押すなよ!」
俺の悲鳴は誰にも届かない。
ドンッ、と背中に衝撃が走った。藤吉郎の手だ。
「行け、茂助ぇぇぇ!!」
「うわぁぁぁぁ!?」
俺の足が崖の縁を踏み外した。体が宙に浮く。
俺は泥の斜面へ、頭からダイブした。
重い藁鎧が加速装置となり、俺は制御不能の砲弾となって転がり落ちていく。
止まれない。止まったら、後ろから雪崩のように駆け下りてくる味方に踏み潰されてミンチになる。
(死ぬ! 死ぬぅぅぅ!)
俺は手足をバタつかせ、泥まみれの塊となって敵陣へ突っ込んでいった。
後方で、誰かが叫んだのが聞こえた。
「見ろ! 茂助様だ!」
「号令と共に、誰よりも早く敵陣へ飛び込まれたぞ!」
「命知らずの特攻だ! 続けぇぇぇ!!」
違う。突き飛ばされただけだ。
だが、そんな訂正をする暇もなく、俺は歴史的な奇襲攻撃の、最初の「着弾」として敵陣のど真ん中へ叩き込まれたのだった。
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