第19話 炎天下の蒸し風呂、偏頭痛という名の天気予報
佐々隊ほか三百の決死隊が、今川の大軍に放り込まれ跡形もなく消滅して、戦場には奇妙な静寂が訪れていた。
そして、暑い。
死ぬほど暑い。
「……あ、あ、あ……」
俺は、善照寺砦の裏手の雑木林で、白目を剥いて倒れそうになっていた。
五月の日差しが、雨上がりの湿った地面を照らしつけ、猛烈な湿気を生み出している。天然のサウナ状態だ。
だが、俺にとっての地獄は、自らが招いた装備にあった。
(……脱ぎたい。今すぐ脱ぎたい)
俺の鎧の下には、防弾チョッキ代わりの藁や布がギチギチに詰め込まれている。
以前、俺が考案した「緩衝材システム」だ。簗田様には意味がないと言われたが、お守りのように装備している。
だが、この高温多湿な状況下では、それはただの断熱材であり保温材だった。
体温が逃げない。
汗が藁に吸われて蒸発せず、鎧の中で蒸し風呂状態になっている。
「も、茂助様……顔色が真っ赤ですぞ」
部下の弥七が心配そうに覗き込んでくる。彼らも暑そうだが、俺ほど厚着ではない。
「……修羅の形相だ」
「友の死を目の当たりにし、怒りで血が沸騰しているのだ」
違う。熱中症だ。
体温調整機能がバグり始めている。視界がチカチカする。
俺は水を飲みたかったが、水筒の中身はとっくに空だった。
砦の柵の隙間から、眼下の敵陣が見える。
今川軍は、佐々隊を殲滅したことで完全に勝利を確信したらしい。進軍を止め、広い場所で休息に入っていた。
兜を脱ぎ、鎧を寛げ、握り飯を食っている。
「……いいなあ」
俺はよだれを垂らしそうになった。
彼らが食べているのは、白い握り飯だ。中には梅干しとか入っているかもしれない。
俺の懐にあるのは、真っ黒に焦げた味噌味の兵糧だけだ。
「美味そうだなあ……。水も冷たそうだなあ……」
俺のうわ言のような呟きを、隣に来ていた藤吉郎が聞いた。
「……茂助。てめえ、あんな大軍を前にして、『美味そうだ』だと?」
藤吉郎が戦慄している。
「敵を……食う気か? 貴様の目には、あの二万五千がただの餌に見えているのか?」
違います。弁当が羨ましいだけです。
だが、熱中症で思考能力が低下している俺は、訂正する気力もなかった。ただ、恨めしそうに敵を見つめ続けることしかできない。その目が、周囲には飢えた猛獣の眼光として映っていた。
その時だった。
ズキン。
俺のこめかみに、鋭い痛みが走った。
杭を打ち込まれたような激痛。
「……あっ、ぐ……!」
俺は頭を抱えてうずくまった。
来た。
いつものやつだ。
現代にいた頃から、俺は「気象病」持ちだった。気圧が急激に変化すると、血管が膨張して神経を圧迫し、重度の偏頭痛を引き起こすのだ。
特に、台風やゲリラ豪雨の前には、立っていられないほどの痛みが襲う。
「どうした茂助!」
藤吉郎が俺の体を支える。
俺は痛みに耐えながら、空を見上げた。
今はまだ晴れている。太陽も出ている。
だが、俺の頭痛センサーは、非常警報を鳴らし続けている。
気圧が、急激に下がっている。
とんでもない低気圧の塊が、すぐそこまで来ている。
「……来る。……ヤバいのが、来る」
俺は呻いた。
頭が割れそうだ。薬局へ行って鎮痛剤を買いたい。ロキ〇ニンをくれ。
「来る? 何がだ? 敵の増援か?」
藤吉郎が聞き返す。
俺は首を振った。
「違う……もっと、デカいのが……頭が、割れる……」
痛みに耐えかねて、俺は地面に頭を押し付けた。
その様子を、背後からじっと観察している男がいた。
簗田政綱だ。
彼は俺の様子と、そして西の空の彼方に湧き上がりつつある、どす黒い雲を見比べた。
「……なるほど」
簗田が低い声で独りごちた。
「古来より、動物や感覚の鋭い者は、天変地異を肌で感じると言う。……この男、感じ取っているのか」
簗田は俺の襟首を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「茂助。答えろ。……いつ、降る?」
俺は涙目で答えた。
「……もう、すぐです。……今までにないくらい、酷いやつが……」
俺の経験則だ。この痛みのレベルは、ただの夕立じゃない。バケツをひっくり返したような豪雨と、雷だ。
早く屋根の下に入らないと、ずぶ濡れになる。
簗田は頷くと、弾かれたように立ち上がった。
そして、信長がいる本陣の幕舎へと走っていった。
***
「お館様! 機は熟しました!」
簗田の声が、張り詰めた幕舎に響いた。
信長は床几に座り、じっと一点を見つめていた。その周囲では、家老たちが「やはり撤退すべきだ」「いや籠城だ」と不毛な議論を続けている。
「……簗田か。何事だ」
「天が動きます。……間もなく、豪雨が参ります」
簗田の言葉に、重臣たちが「何を馬鹿な」「今は晴れているぞ」と笑った。
だが、信長の目だけが鋭く光った。
「根拠は」
「鬼の茂助が、苦しんでおります」
「なに?」
「あの男、野生の獣のように天候の変化を察知し、頭痛に悶絶しております。『ヤバいのが来る』と。……奴の予言、今までは全て的中しております」
信長は立ち上がった。
そして、幕舎の外に出て、西の空を睨んだ。
遠くの空が、鉛色に染まり始めている。生暖かい風が、急に冷たい突風へと変わった。
ザワッ……。
木々がざわめく。
鳥たちが騒がしく飛び去っていく。
「……来るな」
信長は確信した。
以前、俺が適当に言った「雨が降る」という発言。それが今、現実の事象として証明されようとしている。
「皆の者、聞けぇッ!!」
信長が抜刀した。
その声は、雷鳴よりも鋭く、全軍の鼓膜を震わせた。
「敵は今、勝利に酔い、暑さにだれて休息しておる! そこへ天が嵐をもたらす! これぞ天佑!」
信長の殺気が膨れ上がる。
「雨音は我らの足音を消し、雷鳴は我らの叫びを隠す! 狙うは今川義元の首ただ一つ! 敵本陣へ突っ込むぞ!」
ウォーッ!!
兵士たちの雄叫びが上がった。
今まで停滞していた空気が、一瞬にして「殺気」へと変わる。
***
その頃、俺は。
頭を抱えてうずくまっていた。
「……痛い、痛い、痛い」
頭痛がピークに達している。
もう戦とかどうでもいい。静かな部屋で寝かせてくれ。冷えピタを貼ってくれ。
「茂助ェ! 立てェ!」
藤吉郎が走ってきた。その顔は、興奮で真っ赤だ。
「お館様がご決断された! 全軍、中島砦へ移動だ! そこから敵本陣へ奇襲をかける!」
「……は?」
俺は耳を疑った。
中島砦?
そこは、今の善照寺砦よりもさらに敵に近い、低地にある小さな砦だ。
しかも、そこに行くには、敵の目の前を横切らなければならない。
「無理です! 自殺行為です! 敵に見つかって袋叩きにされます!」
「だから『雨』なんだよ!」
藤吉郎が俺の腕を引っ張り上げた。
「お前が予言した通り、嵐が来る! その嵐に紛れて移動するんだ! てめえの頭痛が、作戦の合図になったんだよ!」
ふざけるな。
俺の体調不良を利用して、命がけの作戦を立てるな。
俺は抵抗しようとしたが、熱中症と偏頭痛で力が入らない。
ポツリ。
大粒の雨が、俺の額に落ちた。
ゴロゴロゴロ……ッ!
ドォォォォォン!!!
直後、空が裂けるような雷鳴と共に、視界を白く染めるほどの豪雨が降り出した。
バケツをひっくり返したなんて生易しいものではない。滝だ。
一寸先も見えないほどの雨の壁。
「今だ! 行くぞ!」
信長の号令。
俺は藤吉郎に引きずられ、泥濘の中へと放り出された。
冷たい。
さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、雨が体温を奪っていく。
鎧の藁が、瞬く間に水を吸い、鉛のように重くなる。
「重い! 動けねえ!」
俺は身体を引きずりながら、泥の中を走った。いや、溺れるように進んだ。
視界ゼロ。
音も聞こえない。
ただ、前の人間の背中だけを頼りに、死地へと向かう。
俺の偏頭痛は、雨が降り出したことで少し和らいでいた。
だが、その代わりに訪れたのは、もっと直接的な死の予感だ。
中島砦へ。
そしてその先にある、桶狭間へ。
俺の「サボり勘」と「体調不良」が導き出したルートを、三千の軍勢が、一つの生き物のように進んでいく。
もう引き返せない。
俺の人生最大の博打が、この豪雨の中で幕を開けた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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