第18話 善照寺砦、自動旗振り機と人間の森
心臓が破裂しそうだった。
肺が焼けるように熱く、喉の奥から鉄の味がする。
「はぁ、はぁ、ぐぇ、っ……!」
俺は、死に物狂いで走っていた。
場所は、熱田神宮から南へ向かう街道。
俺の前には、馬に乗った織田信長がいる。俺は、その馬のすぐ横を、全力疾走させられていた。
「遅いぞ茂助! 鬼ならば馬に追いついてみせよ!」
信長が馬上から鞭を振るう。
無理だ。生物としてのスペックが違う。サラブレッドよりは小さいとは言え、馬は馬だぞ。
だが、止まれば後ろから続く軍勢に踏み潰される。俺は「死にたくない」という一心だけで、限界を超えた足を動かし続けていた。
全財産をぶちまけ、勝手に祭り上げられた俺は、あろうことか信長の親衛隊のようなポジションで、先頭集団を走らされているるのだ。
「見ろ! 茂助様だ!」
「お館様の馬と並走しているぞ!」
「なんて顔だ……やはり鬼神の化身!」
後ろの足軽たちが勝手なことを言っている。
違う。俺の顔を見ろ。これは闘志に燃える顔じゃない。酸素欠乏で白目を剥いている顔だ。
***
俺たちは、最前線の拠点である善照寺砦に到着した。
砦といっても、急ごしらえの柵と櫓があるだけの、小さな寺だ。
そこに、信長率いる本隊と、先に到着していた佐久間なんとかとかいう奴の部隊が合流した。狭い境内に、数千の兵がひしめき合う。汗と泥と、男たちの体臭で窒息しそうだ。
「……ぜぇ、はぁ……し、死ぬ……」
俺は地面に大の字に倒れ込んだ。
もう一歩も動けない。現代なら救急車レベルの疲労困憊だ。
だが、休んでいる暇はなかった。
「見ろ! あれが今川軍だ!」
誰かが叫んだ。
俺は重い頭を持ち上げ、砦の柵の隙間から外を覗いた。
その瞬間、俺の心臓は再び凍りついた。
見える。
砦の下、広大な平野と丘陵地帯を埋め尽くす、無数の「点」。
あれ全部、敵だ。
二万五千とも四万とも言われる大軍が、波のようにうねりながら、こちらへ向かって布陣している。
対する我々は、精々三千から四千。
視覚的な絶望感が半端ではない。あれは軍隊じゃない。津波だ。
「……勝てるわけねえだろ」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
ゲームの画面で見れば「敵戦力25000 vs 自軍3000」というただの数字だ。だが、現実の視界に広がる「暴力の海」は、人間の生存本能を根底から否定してくる。
「お館様! 敵の先鋒が動き出しました! この砦を取り囲む気です!」
伝令が悲鳴を上げる。
砦の中はパニック寸前だった。
数が違いすぎる。包囲されたら、兵糧攻めにするまでもなく、すり潰されて終わりだ。
「……騒ぐな」
信長が床几に座り、扇子をパチリと鳴らした。
その顔には、焦りの色はなかった。むしろ、獲物を前にした猛獣のように、瞳孔が開いている。
「敵に、こちらの数を悟らせるな。……我らは少数だが、ここには伏兵がいると思わせるのだ」
信長は周囲を見渡し、俺に目を止めた。
「茂助! 貴様、以前『穴掘り』で敵を欺いたそうだな」
「は、はい……」
「よいか。今すぐこの砦の周りの森を、兵で埋め尽くせ。敵に『森の中に大軍が潜んでいる』と思わせるのだ!」
無茶振りだ。
兵で埋め尽くせと言われても、兵隊のコピー機なんて持っていない。
だが、やらなければ「無能」として斬られる。
「は、はい! やります! 藤吉郎様、木下組を貸してください!」
俺は藤吉郎と弥七たち二十人を引き連れ、砦の外周にある雑木林へと入った。
***
林の中は、蒸し暑かった。
湿気と気温の上昇。鎧の中に熱がこもり、意識が朦朧とする。
「茂助様、どうしますか? 兵を散開させて、大声を上げさせますか?」
弥七が提案してくる。
だが、俺は首を横に振った。
疲れる。
そんなことをしたら、ただでさえ少ない体力が尽きてしまう。
それに、敵に見つかるリスクが高すぎる。大声を出せば、居場所がバレて矢を撃ち込まれるかもしれない。
俺の望みは一つ。「楽をして、安全に、仕事をしたフリをする」ことだ。
「……いや、声は出すな。動くな」
俺は周りの木々を見上げた。
鬱蒼と茂る木々。
そして、手元にある予備の旗指物や、陣幕の布切れ。
「……これだ」
俺の脳裏に、現代の「工事現場の人形」や「畑の案山子」が浮かんだ。
人間が立っている必要はない。人間がいるように見えればいいんだ。
「全員、持っている旗や布を貸せ! あと、着てない着物とか、蓑とか、とにかく布っぽいものを全部だ!」
俺は部下たちに命じた。
そして、集めた布や旗を、木々の枝に結びつけ始めた。
ただ結ぶだけじゃない。風が吹いた時に、あたかも人が振っているかのように見えるよう、枝のしなりを利用して固定する。
「いいか、人形に鎧を着せろ! 兜を枝に引っ掛けろ! 遠くから見れば、林の中に兵士が立っているように見えるはずだ!」
俺たちは、一心不乱に工作を行った。
木下組の二十人は、もともと手先が器用な農民上がりだ。俺の適当な指示を、驚くべき精度で実現していく。
あっという間に、雑木林の中には、何百本もの旗が翻り、無数の「人影」が立ち並ぶ異様な光景が出現した。
「……よし。これなら、なんとか見えるだろ」
俺は満足げに頷いた。
これを人間がやろうとしたら、重い旗を持って何時間も立ち続けなければならない。ブラック労働だ。
だが、木に縛り付けてしまえば、あとは風が仕事をしてくれる。
「で、俺たちはどうするんですか?」
弥七が聞いた。手には武器を持っている。
「決まってるだろ。……隠れるんだよ」
俺はスコップを取り出した。
あの技術の出番だ。
「旗の根元に穴を掘れ! そして潜れ! 敵が『あそこには兵がいる』と思って矢を射かけてきても、地面の下なら当たらない! 完璧な安全地帯だ!」
俺たちは、せっせとタコツボを掘り、その中に芋虫のように潜り込んだ。
頭上には、風に揺れる旗と、鎧を着せられた木々。
これぞ、茂助様秘伝の「案山子&引きこもり陣形」だ。
***
砦から、その様子を見ていた信長と家臣たちは、息を呑んだ。
「……見ろ。森が波打っておる」
遠目に見ると、雑木林全体が、無数の旗と兵士で埋め尽くされているように見えたのだ。
風が吹くたびに、旗が一斉にざわめき、鎧を着た木々が揺れる。その不規則な動きは、軍勢が今にも飛び出そうと身構えているようにしか見えない。
「数にして、五百……いや、千はいるか?」
「木下組は二十名のはず。……いつの間に、これほどの兵を伏せていたのだ?」
「しかも、気配がない。……殺気を完全に消して、森と一体化しておる」
当たり前だ。
人は地面の下で寝ているのだから、殺気などあるはずがない。
「……ククッ」
信長が喉を鳴らした。
「面白い。……虚を実に見せ、実を虚に隠す。孫子の兵法か、それともあの男独自の『鬼』の知恵か」
信長は、揺れる森を見つめながら、ニヤリと笑った。
「敵は、あの森を警戒してうかつには近づけまい。……時間を稼げるぞ」
***
一方、敵の今川軍。
善照寺砦を取り囲もうとしていた先鋒部隊は、足を止めていた。
「おい、あの森を見ろ」
「旗の数が尋常じゃないぞ。……伏兵か?」
「不気味だ。……微動だにせず、こちらの様子を窺っている」
今川の兵たちは、ざわめき立った。
もしあそこから一斉に攻撃されたら、横腹を突かれることになる。
彼らは慎重になり、進軍の速度を緩めた。
「謎の大軍」への警戒が、彼らの足を止めたのだ。
その頃、俺は。
穴の中で、爆睡していた。
「……ムニャ。」
上空では、俺の着ていた陣羽織を着せられた木が、風に揺れてパタパタと音を立てている。
それが、敵兵には「鬼の茂助が、仁王立ちでこちらを睨んでいる」ように見えているとは、夢にも思わずに。
だが。
この平和な時間も、長くは続かなかった。
ドォォォォォン……!
地面を揺らすような音が、俺の眠りを妨げた。
雷ではない。
法螺貝と、太鼓の音だ。それも、味方のものだ。
「……ん? なんだ?」
俺は穴から顔を出した。
砦の方を見ると、織田勢の旗印が大きく動いていた。
そして、一隊の騎馬武者が、砦の門を開けて飛び出していくのが見えた。
「……出撃?」
俺は目を疑った。
この圧倒的不利な状況で、籠城ではなく、打って出る?
数は三百ほど。
「おい、自殺行為だろ……!」
俺は青ざめた。
彼らは、今川の大軍の正面に向かって、猛然と突撃を開始していた。
それは、勇気ある突撃というよりは、玉砕覚悟の「捨て石」の作戦に見えた。
「茂助様! 佐々様たちが!」
弥七が穴から飛び出してきた。
俺たちは、森の陰からその光景を見守ることしかできなかった。
多勢に無勢。
三百の決死隊は、瞬く間に今川の波に飲み込まれていく。
遠くからでも分かる。
人が、ゴミのように吹き飛ばされ、槍に貫かれ、馬に踏み潰されていく様が。
「……あ、あ……」
俺の胃が痙攣した。
模擬戦で競い合った相手だ。
佐々隊の連中。風船を割って笑い合った顔が、今は血まみれになって転がっている。
ゲームじゃない。
これは、現実の殺し合いだ。
人が死ぬ。簡単に、無慈悲に、あっけなく死ぬ。
俺は、穴の縁に手をついて、胃の中身をぶち撒けた。
酸っぱい胃液と共に、さっき食べたものが出てくる。
「……おえぇっ! げほっ、はぁ……」
涙と鼻水が止まらない。
怖い。悲しい。悔しい。そして何より、気持ち悪い。
この吐き気が、恐怖によるものなのか、それとも人間としての拒絶反応なのか、自分でも分からなかった。
「……茂助様」
弥七が、俺の背中をさすりながら、涙声で言った。
「茂助様も……悔しいんですね。あんなに仲が悪かった佐々隊のために、そこまで……」
彼らの目にも、涙と、そして燃えるような怒りの炎が宿り始めていた。
「仇を……討ちましょう」
誰かが呟いた。
やめてくれ。俺はただ、ただ怖いんだ。
だが、俺の情けない嘔吐が、結果として木下組の結束を、狂気じみたレベルへと高めてしまった。
目の前で繰り広げられる殺戮劇。
佐々・千秋隊の全滅。
それは、桶狭間の戦いにおける「捨て石」の役割だった。彼らの死が、今川軍を油断させ、驕りを生むための、残酷な布石。
俺は泥にまみれた顔を上げた。
空は、今にも泣き出しそうなほど黒く、低く垂れ込めていた。
蒸し暑さがピークに達する。
俺の頭痛が、ガンガンと警鐘を鳴らし始めた。
来る。
低気圧が来る。雨だ。
この血なまぐさい空気を洗い流すような、巨大な嵐が近づいている。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




