第17話 夜半の逃亡、熱田神宮の賽銭テロ
闇の中を、俺は走っていた。
息が切れる。泥が跳ねて着物を汚すが、構っていられない。逃げるんだ。あの血生臭い場所から。狂った主君から。そして、明日確実に訪れるであろう「死」から。
「……はぁ、はぁ、っ、痛ぇ……」
俺は、暗い森の中で木の根に躓き、無様に転がった。今、時刻は丑三つ時(午前二時頃)を過ぎたあたりだろうか。
清洲城の長屋を抜け出し、北へ向かっているつもりだった。岩倉の実家……いや、もっと遠く、どっかほ山奥へでも逃げ込むつもりだった。
だが、俺は重大なことを忘れていた。俺は極度の方向音痴だ。現代ならスマホの地図アプリがあるが、ここにはない。月明かりもない漆黒の闇の中、俺は自分がどこに向かっているのか、完全に分からなくなっていた。
「……どこだよ、ここ」
森を抜けると、整備された広い街道に出た。北へ向かう道にしては、やけに立派だ。それに、なんとなく潮の香りがする気がする。
少し先に、巨大な鳥居のシルエットが見えた。その奥には、鬱蒼とした森に囲まれた社殿が鎮座している。神社だ。それも、田舎の祠とはレベルが違う、威厳のある神社だ。
「……とりあえず、隠れよう」
俺はふらつく足で鳥居をくぐった。神域なら、追手も簡単には踏み込んでこないだろう。賽銭箱の陰で朝まで隠れて、明るくなってから道を探そう。俺は社殿の縁の下に潜り込み、膝を抱えた。
静かだ。虫の声しかしない。
俺は懐から、全財産の入った巾着袋を取り出した。藤吉郎から巻き上げたオセロの賭け金、犬千代からもらった口止め料、そして親父殿から貰った小遣い。合わせて数貫。これが俺の命綱だ。これさえあれば、どこかの村でひっそりと暮らせるかもしれない。
「……神様、お願いします」
俺は巾着を握りしめ、震えながら祈った。
「勝たせてくれなんて言いません。ただ、俺を見逃してください。戦国時代なんて無理です。クーラーの効いた部屋でコーラが飲みたいんです。ネット〇リックスが見たいんです」
情けない祈りを捧げていると。
ドドドドド……。
遠くから、地響きのような音が聞こえてきた。
蹄の音だ。それも、一頭や二頭じゃない。急速に近づいてくる。
「……追手か!? いや、今川がきたのか!?」
俺は息を止めた。バレたのか? 脱走兵として処刑しに来たのか?
蹄の音は鳥居の前で止まり、ジャリジャリと参道を踏みしめる音が近づいてきた。
「……開門ッ!」
裂帛の気合と共に、男の声が響いた。聞いたことのある声だ。
俺は恐る恐る、縁の下から顔を覗かせた。
松明の灯り。そこに立っていたのは、数騎の騎馬武者だった。
その先頭。金色の前立てがついた兜を被り、鬼気迫る表情で馬を降りた男。
「……の、信長様……!?」
俺は心臓が止まるかと思った。
信長様だ。なぜここにいる? 城にいたはずじゃ?
いや、待てよ。ここはどこだ? 大きな神社。立派な参道。
……もしかして、熱田神宮か?
俺は顔面蒼白になった。
やってしまった。俺は北へ逃げたつもりが、真逆の南――つまり、戦場の方角へ向かって走っていたのだ。方向音痴にも程がある。敵から逃げるつもりが、敵に向かって全力疾走していたなんて。
「大宮司はいるか! 戦勝祈願を行う!」
信長が叫ぶと、奥から神主たちが慌てて出てきた。信長は本堂へと大股で進んでいく。
俺はパニックになった。縁の下にいるのがバレたら、「待ち伏せしていた刺客」と勘違いされて殺される。かといって、今出て行けば「脱走兵」として殺される。
詰んだ。どっちに転んでも死刑だ。
そうこうしているうちに、後続の部隊が続々と到着し始めた。
馬廻り衆、そして……見知った顔、木下藤吉郎。彼らは汗だくで、息を切らしながら境内に雪崩れ込んできた。
「はぁ、はぁ……お館様、速すぎます……!」
「置いていかれるかと思ったぞ……」
どうやら信長は、居ても立っても居られず、軍勢が整う前に少数の供回りだけで城を飛び出してきたらしい。
しばらくさると境内は、数百の兵士で埋め尽くされた。俺の隠れている社殿の周りも、武装した男たちで一杯だ。
――見つかる。絶対にバレる。
足音がすぐそこまで来ている。誰かが縁の下を覗き込んだら終わりだ。
俺は恐怖のあまり、握りしめていた巾着袋を、さらに強く握り込んだ。手汗で滑る。震えが止まらない。
「……よし、祈願を始める!」
信長が拝殿の前に立ち、柏手を打った。
パン! パン!
静寂。
数百の兵が固唾を飲んで見守る中、張り詰めた空気が支配する。信長の背中からは、神をも脅すような殺気が立ち上っている。
「我に力を! 今川を討ち、天下に覇を唱える力を!」
信長の祈りが、朗々と響く。
俺も祈った。
神様、助けて。俺はただの一般人です。ここから消してください。
その、極限の緊張と静寂の瞬間だった。
俺の手から、汗で滑った巾着袋が、するりと抜け落ちた。
あっ。
思った時には遅かった。巾着の口は、走っている間に緩んでいたらしい。袋は板の間に落ち、中に入っていた永楽銭が、弾け飛んだ。
ジャラジャラジャラジャラジャラッ!!!!
静まり返った境内に、小銭をぶち撒ける盛大な音が響き渡った。
それはもう、爆音のように聞こえた。神聖な儀式の最中に、パチンコ玉を床にばら撒いたような音だ。
「!?」
「な、なんだ!?」
「敵襲か!?」
兵士たちが一斉に武器を構える。
俺は頭を抱えた。終わった。人生終了。不敬罪、騒乱罪、脱走罪のハッピーセットだ。
だが、音の出処は、信長が祈っている拝殿のすぐ横、賽銭箱の裏あたりだ。
「……誰だ」
信長が振り返った。その目が、俺の隠れている場所を射抜く。
もう誤魔化せない。
俺は覚悟を決めた。どうせ殺されるなら、せめて命乞いをしてから死のう。「間違えました」と叫んで死のう。
俺は縁の下から這い出した。
泥まみれの顔。引きつった表情。そして、周囲に散らばる大量の銭。
「……茂助?」
最後列にいた藤吉郎が、素っ頓狂な声を上げた。
「お前、なんでここに……!?」
周囲の視線が俺に集中する。
信長が、スタスタと俺に歩み寄ってきた。
殺される。
俺は土下座した。額を地面にめり込ませた。
「も、申し訳ございません!! 逃げようと……いえ、その、あわわ……!」
言葉にならない。信長の視線が、俺の周りに散らばる銭に注がれた。そして、俺の泥だらけの姿を見た。
「……貴様、いつからここにいた」
信長の声は低かった。
「わしが到着するよりも早く、一番にここへ駆けつけ……そして、隠れておったのか?」
え?
「……先回りしていたのか」
信長が、勝手に納得し始めた。
「我ら主力よりも先に熱田に入り、敵の動向を警戒しつつ、わしの到着を待っていた。……そうであろう?」
違います。方向音痴で迷い込んだだけです。敵がいる南に向かうわけないじゃないですか。
「そして、この銭だ」
信長が一枚の永楽銭を拾い上げた。
「これだけの銭、貴様のような者にとっては全財産であろう。……それを惜しげもなく、神前に撒き散らすとは」
いや、手が滑っただけです。回収したいです。今すぐ拾い集めてポケットに入れたいです。それは俺の老後の資金なんです。
「見事な覚悟だ!」
信長が叫んだ。
「聞け! 皆の者! この男は、己の命のみならず、全財産を投げ打って勝利を祈願したのだ!」
おおおおお!
兵士たちがどよめいた。
「すげえ……あいつ、全財産を!」
「神への捧げ物か!」
「まさに吉兆の音だ! 銭の音は、勝利の凱歌だ!」
違う。ただの落とした音だ。
だが、信長の演出と、極限状態にある兵士たちの興奮が、俺のドジを神聖な儀式へと変換していく。集団心理とは恐ろしいものだ。
「茂助! 貴様のその覚悟、神も受け取ったに違いない!」
信長は俺の肩を掴み、強引に立たせた。
「貴様の撒いた銭の音、わしの耳には『勝鬨』に聞こえたぞ!」
「は、はい……!」
俺は引きつった笑顔で答えるしかなかった。否定すれば空気が凍る。肯定すれば金がなくなる。どっちも地獄だが、命があるだけマシか。
「勝てるぞ! 我らは勝てる!」
ワァァァァァァ!
熱田神宮が揺れるほどの歓声が上がった。
俺は呆然としていた。足元には、俺の生活費が散らばっている。誰も拾わせてくれない。神への捧げ物になってしまったからだ。賽銭箱に入れるどころか、地面にばら撒いて奉納完了扱いだ。
「……茂助、てめえ……」
藤吉郎が涙目で俺を見た。
「俺はてめえが逃げたと思ってたよ。だが、まさか一人で先駆けをして、こんな願掛けをしていたとは……。疑ってすまねえ! 俺たちは木下組の誇りだ!」
藤吉郎まで感動している。部下の弥七に至っては号泣している。
待ってくれ。俺は一文無しになっただけだ。逃走資金を失っただけだ。
「行くぞ! 茂助、貴様はわしの馬の横を走れ!」
信長が馬上の人となった。
俺は最前列、信長のすぐ脇という、最も目立つポジションを指定された。
「え、あ、はい……」
逃げ場は完全に塞がれた。
全財産を失い、退路を断たれ、勘違いの英雄として最前線に立たされた俺。
夜明けが近い。
白み始めた空の下、さらに集まった数千の軍勢が動き出す。
目指すは桶狭間。
俺が「昼寝に最適だ」と予言してしまった、あの場所へ。
俺は泣きながら走り出した。
金返せよ、神様。
せめてご利益として、俺の命だけは助けてくれよ。
こうして、俺の人生で一番長い一日が、最悪のテンションの中で幕を開けたのだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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