第16話 敗走の報告、凍りつく清洲城
息ができない。
肺が焼け付くようだ。
俺は、泥に足を取られながら、必死に走っていた。
「はぁ、はぁ、っ……!」
後ろを振り返る余裕なんてない。
森の奥から、あの今川兵たちの笑い声が追いかけてくるような気がした。
まぶたの裏には、さっき見た光景が焼き付いて離れない。
首のない死体。赤い噴水。泥に転がる生首。
(死ぬ。捕まったら死ぬ)
頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。
数時間前までのハイキング気分なんて、跡形もなく消え失せていた。
俺は今まで、自分が安全な観客席にいると思っていた。歴史というシナリオがあるから、自分だけは助かると。
だが、違った。俺は観客じゃない。舞台の上で、一番最初に殺される村人Aだったんだ。
「……茂助、しっかりしろ!」
藤吉郎が俺の腕を引いた。彼も顔面蒼白だ。
簗田政綱は殿を警戒しながら、無言で先を急いでいる。その背中からは、プロの緊張感が漂っていた。
***
どうやって清洲城まで戻ったのか、記憶が曖昧だ。
気づけば、日はとっぷりと暮れていた。
城門をくぐった瞬間、俺はその場にへたり込んだ。膝が笑って力が一向に入らない。
「……報告に行くぞ」
簗田が冷たく言った。休む暇はないらしい。
俺たちは泥だらけのまま、評定の間へと通された。
広間には、重苦しい空気が充満していた。
柴田勝家ら重臣たちが、深刻な顔で並んでいる。
その中央、一段高い場所に、織田信長が座っていた。
以前、鉄砲をぶっ放した時のような狂気はない。ただ、不気味なほど静かだ。
「……戻りました」
簗田が平伏する。俺と藤吉郎も、それに倣って額を床につけた。
「申せ」
信長の短い言葉。感情が読めない。
「はっ。……敵の先遣隊は、既に沓掛城周辺の山林を完全に制圧しております。我らの放った素破も討たれたようです」
簗田の報告に、重臣たちがざわめいた。
「完全にだと?」「それほどまでに警戒が厳重か」
「敵の動きから推察するに……義元本隊は、近日中にでも沓掛に到着し、その後は大高城を目指すものと思われます」
簗田は懐から、血と泥で汚れた手帳を取り出した。
「その際、敵が休息を取るとすれば……ここ。国境付近の窪地、『桶狭間』周辺である可能性が高いかと」
「……桶狭間、か」
信長がポツリと呟いた。
その目が、ギロリと俺に向けられた。
「茂助。貴様も見たか」
いきなり話を振られた。俺はビクリと震えた。
「は、はい……! 見ました……!」
「どうであった」
「し、死んでました……首が、こう、ポーンと……」
俺は錯乱して、素破が殺された時の様子を口走ってしまった。
信長は眉をひそめたが、怒鳴りはしなかった。
「……敵の数は」
「わ、分かりません……でも、うじゃうじゃいました。あんなの勝てません。無理です」
俺は正直な感想、泣き言を吐き出した。
重臣たちが「なんと情けない」「これだから」と呆れた顔をする。
だが、信長だけは、じっと俺を見ていた。
「……そうか。大儀であった」
それだけだった。
信長は立ち上がり、奥へと去ろうとした。
「お、お館様!」
柴田勝家が叫んだ。
「ご下知を! 籠城なさるのですか、それとも野戦にて迎え撃つのですか! 敵はもう目の前ですぞ!」
家臣たちの視線が信長に集中する。
誰もが、明確な指示を求めていた。「戦え」とも「守れ」とも言われない生殺しの状態が、一番怖いからだ。
だが、信長は背中を向けたまま、欠伸混じりに言った。
「……夜も遅い。寝る」
「は?」
全員が耳を疑った。
敵が攻めてくるというのに。素破が殺されたというのに。
寝る?
「運は天にあり。……騒ぐな」
信長は襖を閉め、姿を消した。
残された家臣たちは、呆然とした後、パニックに近い騒ぎになった。
「正気か!? まだ軍議も終わっておらんぞ!」
「お館様は、戦を投げ出されたのか!?」
「終わりだ……織田家は終わりだ……」
絶望が伝染していく。
俺は、その光景をぼんやりと見ていた。
ああ、やっぱりダメだ。
歴史の教科書では「信長は天才」とか書かれているが、実際に見るとただの変人だ。いや、現実逃避しているだけかもしれない。
二万五千の大軍を前にして、心が折れちまったんだ。
俺の中で、何かが決定的に冷めていった。
ここにいたら、死ぬ。
確実に、無意味に、死ぬ。
***
夜。
木下組の長屋に戻った俺は、隅の方で小さくなっていた。
周りの足軽たちは、不安を紛らわせるために武器を磨いたり、家族への遺言めいたことを話し合ったりしている。
「茂助様、どうでしたか? お館様はなんと?」
弥七が縋るような目で聞いてきた。
俺は首を横に振った。
「……寝るってさ」
「へ?」
「作戦なんてないんだよ。見捨てられたんだ、俺たちは」
俺の言葉に、弥七の顔から血の気が引いた。
長屋の空気が、どんよりと淀む。
俺は、自分の荷物をまとめた。
着替えの手ぬぐい。
隠しておいた小銭の入った巾着。
「……茂助様? 何を……」
弥七が不審そうに俺を見る。
俺は、震える手で弥七の肩を掴んだ。
「弥七。……お前も、逃げたほうがいいぞ」
「えっ」
「こんなの、犬死にだ。俺は嫌だ。あんな風に首を斬られて、泥の中で腐るのは御免だ」
俺は吐き捨てるように言った。
カッコつけてる場合じゃない。なりふり構っていられるか。
俺は「鬼」じゃない。ただの現代っ子だ。平和と安全と、コンビニが恋しいだけの一般市民だ。
「で、でも……逃げたら、一族郎党、処罰されますよ……」
「知るかよ! 俺に一族なんていねえ!」
俺はこの世界に一人ぼっちだ。
岩倉の親父には悪いが、赤の他人のために命を捨てる義理はない。
「……ごめんな。俺は行く」
俺は弥七の手を振り払い、長屋の戸に手をかけた。
外は静かだ。
雨上がりの夜空に、月が出ている。
俺は草履を履き、音を立てないように外に出た。
藤吉郎はいなかった。多分、他の武将たちと対策を練っているのだろう。
振り返らなかった。
ここで振り返ったら、弥七たちの顔を見て、決心が鈍る気がしたからだ。
俺は走った。
清洲城の裏門へ。そこを抜けて、北へ。
戦場とは逆方向へ。
どこでもいい。戦のない場所へ。
足音が、夜の静寂に響く。
俺の心臓の音みたいだ。
逃げる。逃げる。逃げる。
それは、現代社会でも俺が得意としてきたことだ。
嫌なことから目を逸らし、責任から逃げ出し、安全な殻に閉じこもる。
それが俺の生存戦略だ。
戦国時代だろうが何だろうが、俺は俺の流儀で生き延びてやる。
俺は城門の番人が居眠りしている隙を突いて、城外へと躍り出た。
夜風が頬を打つ。
自由だ。
これで、あの死の恐怖から解放される。
俺は闇雲に走り続けた。
だが、極度の方向音痴である俺は、自分がどちらに向かっているのか、正確には分かっていなかった。
「……とりあえず、城から離れればいいんだ」
俺は自分に言い聞かせ、暗闇の中をひた走った。
その足が、皮肉にも歴史の表舞台の方角へと向かっていることなど、知る由もなかった。
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