第15話 桶狭間の地、首チョンパとなった同僚
俺たち木下組の精鋭……数名と、目付の簗田政綱、そして俺、堀尾茂助の一行は、尾張の南東、国境付近の丘陵地帯を歩いていた。
雨は小康状態だが、地面はぬかるみ、草鞋が重い。
「……あー、足痛い。もう帰りませんか?」
俺は露骨に不満を垂れた。
緊張感など皆無だ。俺の中では、これは「上司の趣味のハイキングに付き合わされている休日」くらいの感覚だった。
今川軍がどうとか言っているが、どうせまだ遠くにいる。歴史上、信長は勝つはず。だから俺がここで必死になる必要はない。安全圏から高みの見物を決め込むつもりだった。
「静かにしろ。……敵の斥候が入り込んでいる可能性がある」
簗田が鋭い声で制した。彼はさっきから、森の木々の揺れや鳥の声に過敏に反応している。プロの仕事だ。
俺は鼻をほじりながら、周囲を見渡した。
山と森。そして湿地。
現代ならニュータウンや公園になっているあたりだろうか。
ふと、ある谷間が目に入った。
周囲を低い山に囲まれた、細長い窪地だ。
「……簗田様。あそこ、なんて場所ですか?」
「あそこか。地元の者は『桶狭間』と呼んでいる」
オケハザマ。
俺の脳裏に、微かな既視感が走った。
聞いたことがある。確か、歴史の授業で……いや、ゲームだったか?
有名な場所だ。でも、何があった場所だっけ?
セキガハラ?だったか?いや、オケハザマも記憶にある……。
思い出せない。俺の歴史知識なんてその程度だ。
「……へぇ。いい場所ですね」
俺は率直な感想を漏らした。
「いい場所?」
「ええ。あそこなら日陰も多い。水場も近そうだ。……俺があの大軍の指揮官なら、絶対にあそこで弁当を食いますね。誰にも見られずに昼寝ができそうです」
俺の「サボり勘」がそう告げていた。
行軍で疲れた時、ああいう「守られた空間」を見つけるとホッとするのだ。パーキングエリアみたいなものだ。
簗田が、ハッとした顔で谷間を見つめた。
「……なるほど。義元公は輿に乗って移動していると聞く。炎天下の街道よりも、人目を避けて休息できるあの谷間を選ぶ可能性が高いか」
簗田がメモを取り出し、猛烈な勢いで地形をスケッチし始めた。
「谷間の入り口、出口、そして退路……。貴公の言う通りだ。あそこは、大軍が休息するには絶好だが、同時に一度入れば出にくい『袋の鼠』にもなり得る地形……」
簗田の目がギラギラしている。
俺は肩をすくめた。なんか勝手に深読みして評価してくれているが、俺はただ「あそこでサボりたい」と言っただけだ。
「よし、もう少し近づいて確認するぞ」
簗田が茂みをかき分けて進み出した。
俺たちはその後ろを、音を立てないように(俺は単に服を汚したくないから慎重に)ついて行った。
少し開けた場所に出た。
谷間を見下ろせる崖の上だ。
ここなら、谷底の様子がよく見える。
「……誰もいませんね。やっぱり帰りましょうよ」
俺が欠伸を噛み殺した、その時だった。
ガサッ。
藪が揺れた。
風じゃない。生き物の動きだ。
「……伏せろ!」
簗田が俺の頭を強引に地面に押し付けた。
泥の味がした。文句を言おうと顔を上げた俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
谷底の茂みから、黒装束の男が転がり出てきたのだ。
織田家の素破だ。俺たちよりも先に、情報収集に入っていた先行部隊の一人だろう。
彼は必死に走っていた。片足を引きずっている。
「……逃がすな!」
すぐ後ろから、数人の男たちが追いかけてきた。
立派な具足を着けた、今川軍の兵士たちだ。
速い。
あっという間に素破に追いつき、背後から槍を突き出した。
ズブッ。
鈍い音が、崖の上の俺たちにも聞こえた気がした。
素破が前のめりに倒れた。
背中から槍の穂先が突き出している。
「……ぁ」
俺は声を失った。
映画やドラマのワンシーンじゃない。スローモーションでもない。
あまりにも呆気ない、現実の「死」だ。
「ふん、織田のネズミか。しぶとい野郎だ」
今川兵の一人が、倒れた素破の髪を掴んで引き起こした。
素破はまだ息があった。何かを言おうとして、口から血を吐いた。
「……命乞いか? 無駄だ」
兵士が腰の太刀を抜いた。
そして、笑いながら――。
ザンッ。
振り下ろされた刃が、素破の首に食い込んだ。
一度では落ちない。
兵士は、まるで薪を割るように、二度、三度と刃を叩きつけた。
グチャ。ゴリッ。
骨が砕ける音。肉が裂ける音。
そして、首が胴体から離れ、赤い血が噴水のように吹き上がった。
「――ッ!?」
俺は、自分の口を両手で必死に塞いだ。
悲鳴が出るのを防ぐためではない。胃の中身が逆流してくるのを防ぐためだ。
凄惨だった。
首のない死体が、泥の中でピクピクと痙攣している。
今川兵たちは、その首を拾い上げ、「いい手柄になった」と笑い合っている。
誰かが、死体を足蹴にして、谷川の方へ転がした。ボロ雑巾のように扱われる「元・人間」。
俺の全身から、血の気が引いていくのが分かった。
震えが止まらない。歯がカチカチと鳴る。
怖い。
怖い怖い怖い。
俺は今まで、戦国時代をナメていた。
どこかで「自分だけは助かる」「主人公補正がある」と思っていた。
だが、現実は違った。
あそこで肉塊になっている彼も、数時間前までは生きていて、家族がいて、明日を夢見ていたはずだ。
それが、たった一度の不運で、ゴミのように処理される。
これが、戦争だ。
俺がこれから参加しようとしているイベントの正体だ。
隣を見ると、藤吉郎も青ざめた顔で震えていた。
簗田だけが、冷徹な目で敵の人数と装備を確認しているが、その額には脂汗が浮いている。
「……引くぞ」
簗田が、音もなく俺の耳元で囁いた。
「敵の警戒網は予想以上に厳しい。……これ以上は危険だ」
俺たちは、泥の上を這うようにして、来た道を戻り始めた。
俺の足は生まれたての小鹿のように震え、まともに地面を蹴ることができなかった。
何度も転びそうになりながら、這うようにして進む。
頭の中には、あの光景が焼き付いて離れない。
噴き出す血。笑う兵士。転がる首。
俺は、自分が「現代」という安全な温室から来た、ひ弱な生き物であることを痛感させられた。
ここは地獄だ。
ルールも人権もない、暴力だけが支配する世界だ。
森を抜け、安全圏まで戻った時、俺は道端に蹲り、胃液を吐いた。
酸っぱい味が口に広がる。
「……茂助、大丈夫か」
藤吉郎が背中をさすってくれるが、俺は答えられなかった。
無理だ。
戦うなんて無理だ。
あんな連中と槍を合わせる? 絶対に嫌だ。
俺は死にたくない。あんな肉塊になりたくない。
俺の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
「鬼の茂助」という仮面が剥がれ落ち、その下から「ただのビビリな現代人」が顔を出した。
逃げよう。
一刻も早く、この狂った場所から逃げ出さなければ。
俺の頭の中は、それ一色に染まっていた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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