第14話 春のピクニック、あるいは嵐の前のハイキング
夏が近づき、風は生暖かく湿気を孕んでいた。
世間では「今川軍が攻めてくる」と大騒ぎして軍隊の配置を進めているみたいだが、俺の心は、どこか他人事だった。
「……ふあぁ。のどかだなあ」
俺は長屋の軒先で、大あくびをした。
周りの足軽たちは「今川軍は四万だ」「いや五万だ」と青ざめているが、俺にはピンとこない。
なぜなら、俺は現代人だからだ。歴史の授業は寝ていたが、それでも「織田信長が天下統一する?」ことくらいは知っている。
つまり、ここで信長が負けて死ぬことはない。歴史という名のネタバレを知っている俺にとって、この戦争は「結果の決まった出来レース」なのだ。
「茂助様、余裕ですね。怖くないんですか?」
弥七が震える手で握り飯を食っている。
「怖くねえよ。所詮、昔の戦争だろ? 向こうの兵士だって、どうせ栄養失調のチビばっかりさ。ちゃんと訓練してる俺達に勝てるわけないって」
俺は適当なことを言った。
実際、俺の体格は当時の日本人離れしている。一対一なら負ける気がしない(戦う気はないが……)。
今川? 知らない名前だ。どうせ信長の踏み台にされるモブ大名だろう。楽勝だ、楽勝。
そんな俺の平和ボケした頭に、冷や水を浴びせる男が現れた。
「……茂助。面を貸せ」
簗田政綱だ。
いつの間にか背後に立っていた。相変わらず気配がない。隣には、武装した藤吉郎もいる。
「簗田様? またスパイ探しですか?」
「いや、外だ。……敵の主力が、どの道を通って進軍をするのか。その最終確認を行う」
俺はダルそうに腰を上げた。
まあ、長屋で湿気た煎餅布団に座っているよりは、外の空気を吸うほうがマシか。
藤吉郎が「気合入れろよ!」と鼻息を荒くしているが、俺は布袋におやつを詰めることで頭がいっぱいだった。
***
清洲城を出て南東へ。
俺、藤吉郎、簗田、そして数名の精鋭……もとい、ただの雑兵どもは、雨上がりの山中を歩いていた。目的地は、沓掛城から大高城へ抜けるルートの中間地点だ。
道中、俺は終始リラックスしていた。
鳥が鳴いている。緑が綺麗だ。マイナスイオンを感じる。
現代では味わえない、本物の大自然だ。これでコンビニがあれば最高なのだが。
「……おい茂助! たるんでるぞ! 敵地に近いんだ!」
藤吉郎が小声で怒鳴ってくる。
「大丈夫ですよ。敵なんていませんって。ほら、こんなに静かじゃないですか」
俺はヘラヘラと笑いながら、道端の湧き水に近寄った。
「簗田様、ちょっと休憩しましょうよ。ここの水、美味そうですよ」
「……偵察中に油断しすぎだ」
「水分補給は大事です。それに、ここ、風通しが良くて気持ちいいですよ。お弁当にするなら絶好の場所です」
俺がもっともらしい顔で言うと、簗田は周囲を見渡し、ハッとした顔をした。
「……なるほど。水場があり、かつ高台で見晴らしが良い。……大軍を休ませるには適した場所か。敵の行軍ルートを予測するために、休息地点を押さえるとは……。やはり目の付け所が違う」
簗田が手帳を取り出し、熱心にメモを取り始めた。
俺は肩をすくめた。いや、ただ俺が休みたいだけなんですけど。
しばらく歩くと、道が二手に分かれていた。
右は鬱蒼とした森の中へ続く獣道。左は比較的開けた平坦な道だ。
「……どちらを行くか」
簗田が迷った。
隠密行動なら、身を隠せる森(右)がセオリーだろう。藤吉郎も右に行こうとしている。
だが、俺は嫌だった。
森の中は暗いし、蜘蛛の巣がありそうだ。何より、昨日の雨で地面がグチャグチャにぬかるんでいる。
「左に行きましょう」
俺は即答した。
「なぜだ? 身を隠す場所が少ないぞ」
「いや、右の道は……空気がジメッとしてます。たぶん、虫が多いです。蚊に刺されたくないです」
「虫……?」
「それに、あの草の生え方……地面がぬかるんでますよ。汚れるのは精神衛生上よくないです。歩きやすい乾いた道を行きましょう」
俺は現代っ子全開の理由を並べ立てた。汚れるのは嫌だ。疲れるのも嫌だ。
だが、簗田の解釈は違った。
「……そうか。足跡だ」
簗田が鋭い目で俺を見た。
「ぬかるんだ道を行けば、足跡が残る。敵の斥候にこちらの通過を悟られる恐れがある。……あえて乾いた地面を選び、痕跡を消す気か。……見事な配慮だ」
簗田の誤解パラメータがまた上がった。
藤吉郎も「さすが茂助、深ぇな……」と感心している。
俺は何も言わず、乾いた道をスタスタと歩いた。ただ楽がしたいだけなのに、なんでこうなるんだ。
さらに数時間歩き、俺たちは尾張と三河の国境近くまでやってきた。
木々の隙間から、遠くの山の上に城郭の影が見える。
「……見ろ。あれが沓掛城だ」
簗田が指差した。
目を凝らすと、城の周りに無数の旗指物が立っているのが見える。蟻のように人が動いているのも分かる。
「へぇ、結構入ってますね」
「ああ。人の出入りが激しい。……おそらく、本隊の受け入れ準備は整っている。二万五千の大軍が、あそこに集結しつつあるのだ」
簗田の声に緊張が走る。藤吉郎もゴクリと喉を鳴らした。
だが、俺にはまだ実感が湧かなかった。
遠くの景色だ。映画のセットみたいだ。
二万五千とか言われても、甲子園の観客席も埋まんないよ。 人が少し多いなー、くらいの感想しかない。
「まあ、こっちはこっちで楽しくやりましょうよ。ね、簗田様」
俺は懐から、兵糧を取り出した。
「腹が減っては戦はできぬ、って言いますし」
簗田は呆れたように俺を見たが、ふっと口元を緩めた。
「……敵の大軍を前にして、握り飯を食う余裕があるとはな。貴公のその太い肝っ玉、羨ましくもある」
違うんです。
俺は現実逃避してるだけなんです。
目の前の光景が「現実」だと認めたくないから、食事に逃げてるだけなんです。
ボリボリと硬い飯をかじりながら、俺は思った。
今のところ、ただのピクニックだ。
敵にも会わないし、景色もいいし、上司からの評価も上がった。
なんだ、戦国時代の偵察なんて、チョロいもんじゃないか。
俺は、この時の自分の浅はかさを、数時間後に呪うことになる。
この森の奥に、地獄の入り口が口を開けて待っていることなど、微塵も気づかずに。
「よし、食ったら行くぞ。……もう少し奥まで入り込む」
簗田が立ち上がった。
俺たちは、さらに深く、国境の森へと足を踏み入れた。
そこには、歴史に名を残す「あの場所」が静かに横たわっていた。
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