第10話 元旦の憂鬱、三つの名前で迎える新年
戦国の世に舞い降りて、初めての新年がやってきた。長屋の板の間は相変わらず極寒だが、いつもより静かだった。
「ふぁ~……」
部屋の隅にある小さな囲炉裏からは、頼りない煙が立ち上るばかりだ。火力の弱い残り火が、かろうじて空気を乾燥させているに過ぎない。
俺は身体に巻きつけた蓑を解きながら、大あくびをした。寒さのせいで、目覚めても頭が働かない。
布団? そんなものはない。俺の寝床は藁と薄い敷物だけだ。
正月だというのに、俺たちの長屋には何の飾りもない。門松もなければ、鏡餅もない。あるのは、数日前の猪鍋の残りの脂が染み付いた鍋釜だけだ。腹は減るが、寒いせいで起き上がるのも億劫である。
「茂助様、あけましておめでとうございます」
弥七が、昨夜の残りの味噌汁を啜りながら挨拶してきた。
「ああ、弥七も。……おめでとう。正月休みは、いつから?」
「はて? 休みなどあるんでしょうか?」
俺が聞くと、弥七はきょとんとした顔をした。そうか。この時代、ブラック企業に「年末年始休暇」なんて概念はないんだ。
ガラッ。戸が開き、藤吉郎が入ってきた。
「おい、てめえら! 整列!」
藤吉郎は珍しく小綺麗な着物を着ていたが、その目は銭勘定でギラギラしている。
「いいか、今日から三日間、『休暇』だ!」
「おおっ!」
足軽たちが歓声を上げる。
「ただし、帰る場所がねえ奴は、長屋で大人しくしてろ。……そして、茂助!」
「は、はい、茂助です!」
俺は身を固くした。
「てめえは実家に行け。堀尾家は城下にも屋敷がある。ちゃんと挨拶に行って、体裁を整えろ! お前はもうただの小太郎じゃねえ。堀尾茂助吉晴だ。武士の作法を忘れるなよ!」
「茂助」と「吉晴」。戦国時代で新しく増えた、二つの名前。
正直なところ、俺は自分の名前が二つあるとか三つあるとか、そんなことで深く悩んだりしない。
そんなことで悩んでたら、現代でニートなんかやってない。
めんどくさいが、これが俺の現実なのだ。
俺は、藤吉郎に押し付けられた小汚い着物に着替えた。普段の戦闘服よりはマシだが、それでも高級武士の着物ではない。着慣れないせいか、妙に体が締め付けられるような気がした。
ただ、嫌なのは、俺のことを誰も知らない実家に帰ることだ。
***
岩倉の堀尾屋敷。門には、一応、松の枝が飾られていた。
俺は緊張しながら、父・泰晴の前に正座した。
床の間には見事な掛け軸がかかっているが、それどころではない。正座のしすぎで、足の感覚がすでに消えかけている。
「……吉晴。戻ったか」
泰晴は、俺の顔を見ずに言った。俺は覚えた通りの挨拶を吐き出した。
「し、新年、おめでとうございます。父上におかれましては、恙なく新年をお迎えのことと存じます」
「うむ」
泰晴は鼻先で頷いた。場が重い。現代の正月なら、「お餅食べた?」「お年玉ないの?」くらいで済むのに。
相変わらずこのむさ苦しい家は、親父様とお手伝いさんみたいなのしかいないのか。
「木下殿の下で、相変わらず精が出ているようだな」
「は、はい。この吉晴、日々しょーじんしております。先日も猪を……」
「ああ、聞いた。猪を組み伏せたと。……そして、柴田の兵を突き飛ばしたこともな」
泰晴は初めて俺の顔を見た。その目は、少しだけ誇らしげだった。
「お前は以前の小太郎ではない。その図体、そしてその強運。……名実ともに堀尾吉晴となりつつある。家臣たちも、ようやくお前を当主の息子として認め始めたようだ」
俺は複雑な気分になった。
「しかし、身なりを整えよ」
泰晴が、俺の汚れた袴を見て、厳しい目を向けた。
「あの猿につられて、お前の作法は荒々しくなりすぎた。武士は、戦場以外では慎み深くあるものだ。正月くらいは、足軽の臭いを消してこい」
俺は内心で反論した。
毎日泥の中で訓練してるんだから、足軽の臭いなんて簡単に消せるわけねえだろ!
ファブリーズとかないんだぞ!
「それに、吉晴」
泰晴は声を潜めた。
「今年は戦になる。確実に今川が動く」
空気が凍りついた。
「戦が始まれば、お前のその『鬼』の強さを、信長様は必ずや最前線で試す。……何が起きても、堀尾の名を残すことだけを考えろ」
それは、息子への愛情ではなく、家を守るための厳命だった。俺は背中に重い責任を感じた。
「わ、わかりました。この吉晴、必ずや……生きて帰ります」
泰晴は頷き、懐から永楽銭を数枚取り出した。
「これで、猿殿への手土産でも買うがいい。……決して贅沢をするな。この冬、米が厳しい家臣も多い。そのことを忘れぬよう」
新年の挨拶は、重い訓示と、生々しい「金策の命令」で終わった。
一秒でも早くここを出たかった。武士の作法なんて、戦場じゃ何の役にも立たない。腹を満たし、寒さを凌ぐ方がよっぽど現実的だ。
堀尾屋敷を辞し、清洲へ戻る道すがら。俺はもらった永楽銭を握りしめた。この金は、長屋の仲間に分け与えるための、最も重要な「軍資金」だ。
城下町は、正月の賑わいを見せていた。
普段は静かな通りも、この日ばかりは着飾った人々で溢れている。俺は人混みを避け、露店が並ぶ裏道を歩いた。
酒、塩、干物。長屋の皆が喜ぶ顔を思い浮かべながら、手際よく買い物を済ませる。貧しい暮らしの中で培った、現代のスーパー主婦のような買い物スキルが火を噴いた。
「よし、あとは煙草……じゃなくて、米を」
俺は米問屋の前で足を止めた。永楽銭を数えながら、あとどれだけ米を買えるか計算している。
その時だった。
ドンッ!
後ろから歩いてきた何者かと、俺の大きな体が派手にぶつかった。
「あっ、す、すいません!」
俺は反射的に声を上げた。現代のDNAだ。とにかく謝る。
ぶつかった相手は、身なりの良い、侍女を連れた若い女性だった。
年齢は二十歳前後だろうか。艶やかな着物を着て、顔立ちは整っているが、きつめの目元をしている。彼女の手から、大事そうに持っていた小さな巾着袋が、雪の上に落ちた。
「無礼な!」
侍女が鋭い声を上げた。
「この方をどなたと心得る!」
女性自身は言葉を発しなかったが、ぶつけられた衝撃と、俺のあまりに巨大な図体に驚いているようで、眉間に深い皺を寄せ、俺を睨みつけている。
その眼差しは、信長とはまた違う、神経質なまでの緊張と威厳に満ちていた。
(ヤバい、やっちまった。武士の娘だ! 斬られる! )
俺はすぐさま頭を下げた。
「まことに申し訳ございません! 俺が不注意でした! お怪我はございませんか!」
俺が深く頭を下げて恐縮すると、女性は一瞬、その威厳を崩した。
「……いえ。大丈夫です」
彼女は、はっきりとそう答えた。彼女の視線は、俺の頭から、俺の足元にある泥にまみれた草履まで、ゆっくりと移動した。
そして、俺の図体、特にその手を見た。侍女が慌てて落ちた巾着袋を拾い上げる。
「何をやっているのです、早く離れなさい」
侍女に促され、女性は俺の前を通り過ぎようとした。
「あの、巾着袋……」
俺は、拾い上げた侍女ではなく、彼女本人に目を向けた。その時、彼女と目が合った。
彼女の目は、恐れながらも、俺の異様な図体に強い好奇心と、何かを値踏みするような光を宿していた。
「……」
女性は何も言わず、軽く会釈だけして、侍女と共に人混みに消えていった。
俺は息を吐いた。危なかった。ニートの防衛本能で、つい深く頭を下げてしまったが、それがかえって相手の警戒を解いたのかもしれない。
「今の女性、すごい美人だったな……。でも、なんか気が強そうだ。絡まれたら絶対勝てないタイプだ。……フラグ立ってたらどうしよう?」
俺は肩を竦めた。この時代、関わる相手は怖い人間ばかりだ。
藤吉郎の長屋に戻ると、男たちが「おお、若様のお帰りだ!」と酒盛りをしていた。
「茂助様! どこか寄ってきましたか?」
弥七が笑いかける。
「ああ。……ちょっと、実家に顔を出してな」
俺は笑顔で答えたが、心の中はぐちゃぐちゃだった。
藤吉郎にとっては、俺は「茂助」。泰晴にとっては、俺は「吉晴」。そして、俺自身は、ただの「小太郎」。
三つの名前、三つの人生。面倒くさいが、これが俺の現実なのだ。
俺は差し出された濁ったどぶろくを、一気に煽った。
永禄三年。それが西暦何年かはわからない。
この年が、俺にとって厄年になるのは確実だ。
寒い冬が終われば、武士は動き出す。そして俺も、否応なく最前線に駆り出される。
俺は、せめてその時まで、平和に生き延びるためにも、さらに「臆病」に、さらに「鬼」として振る舞い続けるしかなかった。
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