走るな、間に合うな。
友情の話といえば走れメロスだよなあと思いながら書きました。
2026.1.27 [日間]純文学〔文芸〕 - 短編 17 位 すべて 28 位
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――間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。
その男の目はタブレットの文字をぼんやりと追っていた。くだらない、と思った。だが表情には出さなかった。否、表情には出せなかったのだ。
男は数か月前に交通事故に遭い、重い後遺症を抱えていた。というのも、事故の際に脳が損傷し、眼球しか随意に動かすことができなくなってしまったのだ。これは男自身にとってはただのひどい不幸であったのだが、男の友人は、命が助かったのだから不幸中の幸いなのだと言っていた。
くだらない、と男は思ったが、口には出せなかった。
その男の友人というのは、男がトラックに轢かれきる前に助け出した、いわば命の恩人である。彼は、両親とも縁を切り、他に親しい友人も恋人もいない男の身分を保証し、今男が入っている施設の世話までしてくれた。今でも1週間に1度は見舞いにやってくる。ちなみに前述の不幸中の幸いという言葉も、友人は励ましているつもりであった。しかし、男は自分が上手く助けられなかったことを取り繕っているのだと思い、ますます心を頑なにしていた。
くだらない、と男は思った。
男は走れメロスの中で、唯一その箇所を気に入っていた。メロスが、友人であるセリヌンティウスを助けるために身を粉にするのではなく、全く違うもののために殺されにゆこうとするところが好きだった。男は、その「違うもの」を、メロス自身への矜持から来る強い自己保身の感情だと解釈していた。
そもそも男は自ら事故に遭いに行ったのであった。男には定職がなかった。ゆえに、金もなかった。前述したように、それを支えてくれるような家族も知り合いも、男にはなかった。ただ日雇いで稼いだ金をギャンブルにつぎ込み、アルコールにつぎ込みタバコにつぎ込み、気づいたときには金が尽き、代わりにそこそこの額の借金を抱えていた。
対して友人は、高収入と安定が見込める仕事に就き、妻子を持ち、大勢の友人に恵まれ、職場では順調に出世していた。酒もほどほどにとどめ、煙草は吸わず、唯一借金と呼べるものも住宅ローンのみであった。まさに男とは正反対の半生である。
状況が全く異なっているにも関わらず、男は愚かにも、友人をメロスに、自分をセリヌンティウスと比較した。そして、自分を救う、ということを明確に意識していた友人に助けられたくらいならば、やはり死んだ方がましであったと、友人を極めて利己的な理由で責めていた。これは劣等感からくる彼への不快感の表れでもあった。しかし、男は無意識的に自分と彼との間に大きな隔たりがあることを認識していたため、嫉妬はしていなかった。ただし、羨望はしていたため、分不相応にも彼のような暮らしをしている幻想は描いていた。
彼は結局、自分の名声を高めたかっただけであるなのに、なぜ黒い風のように走ってでも友人との約束を守ったメロスのように、間一髪で間に合ってしまったのか。いっそのこと、走るのを躊躇して、俺が死ぬところを目の前で見せつけられれば良かったのに。暴君ディオニスのように彼を嘲笑する他人こそいないが、彼は高潔だから、自分で自分を責めるはずだ。きっと、歯ぎしりして己の無力さを悔しがっていたことだろう。
だから男は、友人に怨嗟の言葉を投げつけるのではなく、走れメロスをただ延々と読み続けることで抵抗した。友人に何度他の本も読んではどうかと言われても、決して耳を傾けず、目も通さなかった。それが友人にできる唯一の反逆だとすら思っていた。自分は友人への崇高な復讐を行っているのだと、信じて疑わなかった。彼はひたすらに走れメロスのみを読んだ。しかし、時が経つにつれ理不尽な怒りは去り、ただ、残り滓のような虚栄心で構成された意地だけが残った。
男はどろりとした目で文字を追い続けた。
男にはもう、自分が生きているのか死んでいるのか、とうに分からなくなっていた。
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