第2話 薬膳の智慧と土の恵み
軽トラックは、うねうねと続く農道を力強く進んでいく。窓から流れ込む風は、都会のアスファルトの熱気とは全く違う、ひんやりとした土の匂いを運んできた。ユイは、自分の手で運転できたという小さな成功に、じんわりと胸が温かくなるのを感じていた。
畑に到着すると、ミサキは手際よく軽トラックから農具を下ろし、ユイに鍬を渡した。 「今日はまず、畝の草むしりや。この時期の雑草は、引っこ抜いても引っこ抜いても生えてくる。あんたの心みたいにな」
ミサキの言葉に、ユイは苦笑した。確かに、都会での悩みや不安は、いくら頭から追い払おうとしても、雑草のように次々と生えてきた。
ユイは言われた通りに鍬を握り、土を掘り起こし始めた。最初は固く、なかなか刃が立たなかった土が、掘り進めるうちに少しずつ柔らかくなっていく。黙々と作業を続けるユイの指先には、土の温かさと、小さな虫や根っこの感触が伝わってきた。
ミサキはユイの横にしゃがみ込み、ふと、地面から小さな葉っぱを引き抜いた。 「ほら、これ。ドクダミや。嫌な匂いやろ?」 ユイは頷いた。都会の道端でもよく見かけた、あの独特の匂いだ。
「でもな、これ、すごい力持ってるんやで。体の毒素を出してくれるし、肌荒れにも効く。お茶にして飲むとええんや」 そう言って、ミサキはドクダミの根っこをユイに見せた。
「見てみ、この根。しっかり大地に繋がっとるやろ。体も心も、大地に繋がってたら、少々のことでは揺らがへんねん」 ミサキの言葉は、まるでユイの心を見透かすようだった。都会でのユイは、大地に根を張らず、風に揺れる雑草のようにフラフラと生きていたのだ。
ドクダミを摘み終えると、ミサキは畑の隅にある小さなビニールハウスを指差した。 「あっちでキュウリ採ってきて。今日の晩ご飯は、あんたの体を冷まして、むくみを取る料理にするから」
ユイは、生まれて初めて「収穫」という体験をした。露が光るきゅうりは、スーパーで見るものとは全く違う、力強い生命力に満ちていた。
軽トラックの運転。土に触れる感覚。そして、自分の手で収穫した野菜。 一つ一つの小さな成功体験が、ユイの心と体に、確かな変化をもたらしていく。都会で凝り固まっていた肩の力が抜け、鈍っていた五感が少しずつ蘇っていくのを感じていた。
畑から戻ると、台所にはすでにミサキが立っていた。ユイが収穫したばかりのきゅうりは、まな板の上でみずみずしい緑色を放っている。
「まずは、これや」
ミサキが指さしたのは、ガスコンロの上に置かれた、年季の入った大きなヤカンだった。
「このヤカン、元々は『薬缶』って書いたんやで。昔は、薬草を煎じるのに使ってたからな。今もこうして、お茶を沸かすのに使っとるけど、薬を煎じるのと同じくらい、大事なもんや」
そう言って、ミサキはヤカンから湯気を立てるお茶を湯呑みに注いだ。
ユイは思わず言った。
「あ、冷たいお茶がいい。冷蔵庫にある?」
都会では、夏といえばキンキンに冷えたペットボトルのお茶が当たり前だった。
ミサキはユイの言葉に、呆れたように目を細めた。
「あんたな、体が冷えとるんやから、冷たいもん飲んだらあかん。体を内側から温めて、血の巡りを良くせな。冷たいもんはな、一時的に喉を潤すだけ。でも、この温いお茶は、体の芯から染み渡るんや」
湯気から漂うのは、畑で摘んだドクダミの独特の香りだ。
「さ、飲んでみ。体の毒素を出す、天然のデトックスや」
ユイは恐る恐る口をつけた。
「……にがっ!」
思わず顔をしかめる。独特の土のような匂いが鼻を抜け、強い苦味が舌に残る。
「うわ、これ、本当に飲めるの?」
ミサキは、そんなユイを見て「ははっ」と笑った。
「体が毒素を溜め込んどる証拠や。苦いって感じるうちは、まだ体が求めてないんよ。でもな、この苦味の向こうに、ほんのりとした甘みがあるやろ?それが、このドクダミの力や」
ユイは、言われるがままにもう一口、口に含んだ。確かに、苦味の奥に、かすかな甘みと、体がじんわりと温かくなる感覚があった。
次に、ミサキはきゅうりを手に取り、包丁で手際よく叩き始めた。
「今日のメインは、きゅうりと梅干しの和え物や。梅干しはな、疲労回復にええんやけど、この酸っぱさが『気』を生み出すんよ。気の巡りが悪いと、体はむくむ。だから、この酸っぱさが大事なんや」
ミサキは、きゅうりと梅干しを和えながら、薬膳の知識を当たり前のように語っていく。ユイは、母の料理が、ただの料理ではなく、一つ一つの食材に意味があることを知った。
「あんた、都会で甘いもん食べ過ぎて、体の中が冷えとる。甘いもんはな、一時的に元気になるけど、体を冷やして、湿気を溜め込む原因になるんや。だから、このきゅうりで冷まして、梅干しで巡りを良くする。わかるか?」
ユイは、母の言葉にハッとした。仕事のストレスが溜まると、無性に甘いものが食べたくなり、コンビニのスイーツを買い漁っていた。それが、自分の体調不良の原因の一つだったのだと、今、初めて実感した。
ミサキは、和え物を小鉢に盛りつけ、ユイに差し出した。
「さ、できたで。自分で採ったきゅうりは、格別やろ?」
ユイは、きゅうりを一口食べた。シャキッとした食感と、梅干しの酸味、そして、母の愛情が、体中に染み渡っていくようだった。