第10話 丁寧に生きる智慧と米の「氣」
ユイは町のウェブサイトの運営に慣れ、ミサキの畑仕事を手伝い、季節の移り変わりとともに食卓に並ぶ料理を味わう日々を送っていた。
ある日の夕食の準備中、ユイはふと、この数ヶ月間の自分の変化を振り返っていた。
都会にいた頃は、何もかもが「効率」と「スピード」が最優先だった。食事はコンビニで済ませ、体調が悪くなれば薬を飲む。疲れたら栄養ドリンクを飲むのが当たり前だった。
しかし、この町に来てからの毎日は、その「当たり前」が全く違うものになった。
水道から出てくる水も、ただの「水」ではない。ミサキは、その水で米を研ぐとき、必ず「おいしくなあれ」と声をかける。畑の野菜も、ただの「野菜」ではない。太陽と雨と、そして土の氣をたっぷり吸って育った、かけがえのない命だ。
和尚さんから教わった「おかえり」という言葉に込められた言霊。狸やアライグマに少し分けてあげる「分かち合う智慧」。そして、味噌作りの過程で知った、目に見えない微生物の働きと、ゆっくりと時間をかけて熟成させることの大切さ。
ユイは、それら一つひとつを思い出し、胸が熱くなった。
「ねぇ、お母さん」
ユイは、ミサキが去年の秋に仕込んだ味噌で味噌汁をかき混ぜるミサキに声をかけた。
「当たり前の日常を、キチンとした知識を持って、丁寧にすることって、こんなにも違うんだね。私、すごく感動してる」
それは、まるで魔法のようだった。都会で失っていた自分の氣は、特別なことではなく、この「当たり前の日常」を丁寧に送ることで、少しずつ、ゆっくりと満たされていったのだ。
ミサキは、ユイの言葉に満面の笑みを浮かべた。
「せやろ?魔法やない。これはな、生きるための智慧や。あんたは、それを思い出してくれただけや」
ユイは、ミサキの顔を見た。彼女の言葉は、いつもシンプルで力強かった。この町での生活は、ユイに「当たり前」の中にこそ、本当の豊かさや感動が隠されていることを教えてくれたのだ。
ユイは、夕食の準備で米を研いでいた。
ミサキが使っている年季の入った大きなヤカン。ユイは、そのヤカンを見るたびに、初めてこの家に来た日、冷たいお茶を求めてミサキに叱られたことを思い出す。
「あんたな、体が冷えとるんやから、冷たいもん飲んだらあかん」
あの時は、ただのヤカンだと思っていた。しかし今では、それが体を温める「薬缶」であることを知っている。そして、その中身も、ただのお茶ではなく、体の氣の巡りを整えるドクダミ茶だということも。
ユイは、ふと、自分の米の研ぎ方が都会にいた頃と全く同じであることに気づいた。慌ただしく、ただ米を白くするだけ。
その様子を見たミサキが、そっとユイの隣に立った。
「あんた、米の研ぎ方も、まだ都会のやり方やな」
ユイは、ドキリとした。また叱られるのだろうか。しかし、ミサキの口調は穏やかだった。
「米はな、ただ汚れを取るだけやない。研ぐ、という作法なんや」
ミサキは、ユイの手からボウルを受け取ると、静かに水を注いだ。
「まず、一番最初に入れた水は、すぐに捨てるんや。米が一番最初に吸う水やから、きれいな水で研がんと、米の氣が濁ってまう」
ユイは、その言葉に驚いた。米にも「氣」があるのだ。
ミサキは、優しく、しかし丁寧に米を研ぎ始めた。
「そしてな、こうして研ぐとき、米に『おいしくなあれ』って言い聞かせてやるんや。米はな、こうして人間の氣を受けることで、より美味しくなるんやで」
ユイは、味噌を仕込んだ時にミサキが言った「ありがとう」という言葉を思い出した。
「研ぎすぎてもあかん。米の旨味が逃げてまうからな。手のひら全体で、優しく研いでやるんや」
ユイは、ミサキの手つきをじっと見つめた。それは、何かを「する」というよりも、米と対話しているようだった。
ミサキは、研ぎ終わった米を土鍋に入れ、再び「おいしくなあれ」と呟いた。
ユイは、この町に来て、多くのことを学んだ。それは、当たり前の日常を、ひとつひとつ丁寧に、そしてその背景にある智慧を理解することで、人生がこんなにも豊かになるということだった。
その夜、土鍋で炊いたご飯は、一粒一粒が輝き、驚くほどの甘みと旨味を持っていた。