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おかえり  作者: 常圓坊
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第1話 都会のざわめき、故郷の「おかえり」

夏の強い日差しが照りつける、梅雨明けの紀美野町。アスファルトの照り返しで揺らめく都会の景色とは違い、緑の匂いが濃く、空気が肌にまとわりつくように湿っていた。都会でウェブデザイナーとして働くユイ(29)は、タクシーのシートにぐったりと体を預け、数年ぶりに実家の前に降り立った。


東京での生活は、常に時間に追われ、コンビニ弁当やジャンクフード、甘いもので空腹を満たす日々だった。その結果、体はむくみ、頭痛は慢性化し、夜は眠れず、鏡に映る自分の顔は肌荒れで見るに堪えないものになっていた。何よりも、常に心臓がざわつくような精神的な疲労感が、ユイを蝕んでいた。


ユイの体調は限界だった。都会の喧騒、終わりなき仕事、人間関係の軋轢。自律神経は乱れ、心はいつもざわついていた。ある朝、ユイは会社に行くことができなくなり、衝動的に故郷である和歌山県紀美野町へと帰ってきた。


家の玄関を開けたユイを待っていたのは、母・ミサキの優しい声だった。

「おかえり」

その一言が、ユイの乾ききった心に、じんわりと染み渡る。

「ただいま」

ユイは、久しぶりに自分の口から発した言葉が、こんなにも震えていることに驚いた。


「おかえり」

若々しく健康的な肌に、日焼けした笑顔。土の匂いが染み込んだような作業着姿の母、ミサキが、ユイの顔を見るなり、にこやかに言った。その一言は、ただ娘の帰宅をねぎらうだけでなく、ユイの背後についている“よからぬ気”を、故郷の大地へと返すような、不思議な言霊を帯びているように感じられた。


ユイが「ただいま」と答える間もなく、ミサキはユイのスーツケースには目もくれず、台所へ向かう。

「あんた、顔色悪いわ。ちょっと痩せすぎじゃない?体が欲しがってるもんを、ちゃんと食べさせんとアカン」

竹を割ったような、迷いのない口調だった。


ミサキは冷蔵庫の扉を勢いよく開け、中身を指さしながらユイに問いかける。

「梅雨明けはな、体の中に湿気しっけが溜まって、むくんだり、頭が重うなったりするもんや。これ見ぃ!」

ミサキが指さすのは、みずみずしいきゅうりと、ぷっくりとしたとうもろこし。

「このキュウリは体の熱を冷まして、余分な水分を外に出してくれる。利水作用いうやつや。このとうもろこしは、特にひげの部分が利尿作用にめちゃくちゃ効くんやで。あと、この白い袋に入ってるん、わかるか?」

ミサキが取り出したのは、乾燥した白い粒が入った袋。

「ハトムギや。白米にちょっと混ぜて炊くと、消化器系を強くして、体の『水はけ』を良くしてくれる。あんた、肌荒れしとるやろ?肌にもええんやで」

ユイは、母の言葉がまるで呪文のように聞こえた。都会で栄養ドリンクやサプリメントに頼っていた自分とは、全く違う、大地に根ざした知恵がそこにはあった。


ミサキはユイの返事を待たずに、壁に掛かっていた軽トラックのキーを手に取ると、ユイに差し出した。

「さ、畑行こか。あんたの体、土に触れさせたら、すぐに元気になるわ」

ユイは、母の勢いに圧倒されながらも、言われるがままにキーを受け取り、母に続くように家の外へ出た。


家の前に停まっていたのは、都会ではまず見かけない、落ち着いたモスグリーンの軽トラックだった。年季は入っているものの、丁寧に手入れされているのがわかる。助手席に座ったミサキは、ユイにキーを渡すと、当たり前のように運転席に座るよう促した。


「ほな、行こか」

ミサキの言葉に、ユイは思わず固まった。

「……お母さん、これ、ミッションだよね?」

そう尋ねながら、ユイはふと数年前の光景を思い出していた。新しい軽トラックを買うという話が出た時、ミサキはカタログを隅々まで見て、このモスグリーンの色を気に入ったのだ。「ちょっと人とは違う色がいいんよ」と、健康的で若々しいミサキらしいセレクトだった。当時、まだ大学生だったユイも一緒に販売店へ行き、「これ、可愛いね!」と二人で盛り上がったのを覚えている。田舎に帰って母の手伝いをする時のために、と都会の教習所でマニュアル免許を選んだのも、その頃だった。結局、都会でミッション車に乗る機会は一度もなかったけれど、まさかこんな形で再会するとは。


「当たり前やん。畑道でオートマなんて使えへん。さ、乗った乗った!」


観念して運転席に座ると、独特の土とガソリンの匂いがした。恐る恐るクラッチを踏み込み、ギアをローに入れる。半クラッチの感覚を忘れて久しいユイは、エンジンをブオン!と唸らせたかと思うと、ガクン!と激しい振動とともに、軽トラックはあっけなくエンストした。


「はい、やり直し」

ミサキはため息一つもつかず、運転席の窓から顔を出し、ニヤリと笑った。「あんた、免許取ってから全然乗ってへんやろ?」


二度目。三度目。ガクン、ガクン、と首が揺れるたびに、ユイの額には脂汗がにじんできた。

「あんた、半クラッチが優しすぎるわ!もっと大胆に、思い切りよく繋ぎな!」

ミサキの言葉は、まるでユイの人生を言い当てているようだった。都会でのユイは、仕事も人間関係も、常に「できない」と心のどこかで諦めていた。その「できない」という思いが、本当に「できない未来」を目の前に引き寄せていたのだ。踏み込む勇気もなく、かといって離すこともできず、ただ立ち尽くしていた。


何度目かのエンストの後、ミサキは突然、ユイの肩にぽんと手を置いた。

「ええか、ユイ。この軽トラと一緒や。怖いと思ったら、そこで止まる。でも、できると思って思い切ってやってみたら、ちゃんと前に進むんや。何も怖がることはない」

ミサキは、どこか遠くを見つめるようにそう言うと、「さ、もう一回」と優しく促した。


ユイは、母の言葉を噛みしめながら、もう一度クラッチを踏み込んだ。このモスグリーンの軽トラックは、ただの移動手段じゃない。母との思い出が詰まった、大切なものなのだ。今度は「できない」ではなく、「できる」と心で唱えた。中途半端な気持ちを捨て、ただ目の前の軽トラックと向き合った。半クラッチの感覚を、足の裏と耳で覚えるように、慎重に、しかし大胆にクラッチを繋ぐ。


ブオン……ガクン!……ブ、ブ、ブ……ブルルルル……


軽トラックはゆっくりと、しかし力強く、前へと動き出した。

「おお、やったやんけ!……次、右やで!」

ミサキの楽しそうな声が、ユイの心を少しだけ軽くした。モスグリーンの車体が、夏の陽光に照らされて、どこか誇らしげに見えた。


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