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氷と青と煙草

作者: 雨咲 穭

一.


 凍り付くような鋭く冷たい空気に、いさなは鼻をすすり、鼻先が赤らんだ。唇から漏れ出る白い息は、静かに夜の空に消えていった。

 静かな青く暗い住宅街に点々と灯る光が、僅かな人々の生活感を世界に映していた。耳を澄まさずとも、人々の音が心地よく耳に入ってくる。

 鯨はマンションのベランダの手すりに頬づいて、冷たく寒い空気に浸りながら、時間が進まないような夜に温もりを感じていた。

 鯨の視界を覆うように、冷たく小さな風に吹かれた白い煙が鯨の顔の前を揺れるように横切った。鯨はそれを手で払うように振り散らした。

「臭い」

「中行けば」

 横でゆったりと煙草を嗜む男は、そう素っ気なく云った。

 鯨は顔を腕の中に埋め、横目で男を見た。その瞳はどこか遠くにあり、夜の街を関心なく見つめている。彼が煙草を口に寄せて息を吸うと、じゅっ、と煙草の先が赤く燃える。

「何。吸う?」

 男は夜の空に煙と息を放った。

「吸わない」

 鯨は視線を夜の景色に戻すと、煙たい煙草の匂いと寒い夜の匂いの中で目を瞑った。

 鯨は好きだった。夜と煙草の匂いがそう思わせた。

「寒くない?」

「うん」

 寒さは温もりを浮き出して、昼中には感じられぬ温かさが、むしろ鯨は好きだった。

 人々の気配が街から消えようとする頃、バイクが集団で騒音を立てて夜の音をかき消す頃、鯨は夢の中に半分浸っていた意識を起こして、体を支えて立ち尽くしていた冷たく固まった脚を解いた。

「寝んの」

 鯨は「うん」とだけ返して、中へ入った。後ろで「おやすみ」と振り返らずに背中越しに男が云った。

 風が断たれて、部屋の中の閉じこもった空気が、寒さで強張った鯨の肌を、氷が溶けていくように緩めた。

 鯨はキッチンに入って、ケトルの中で冷めた水を再び温めた。箱に収納された茶葉が詰まった紙袋をひとつ取り出して、紅茶をいれた。鯨はマグを手に取ると、ベランダのガラス扉がちょうど途切れてひとつ空間ができた部屋の隅に配置した、質素なベッドの前に敷かれた絨毯に腰を下ろすと、ヒーターをつけて、本を開いた。ページをめくるたびに紅茶を一口、そしてまた一口飲んだ。

 別々の空間に、別々のことをして、たまに瞳が合い、真夜中に同じ時を過ごす、このまどろみの時間は、不規則に訪れた。いつもの日常に、何の脈絡もなく訪れる普通ではなく特別でもないちょっとしたこの変化が、鯨は好きだった。

 鯨は本を閉じると、それをベッドの横の同じくらいの高さのキャビネットの上に置いた。小さく柔らかい暖色を灯す明かりを消す前に、鯨はベランダに立つ背中を見た。彼の周りで白い煙が漂って、その中にまた吐かれた煙がそれをかき消した。ふわっと白い煙が宙に舞い、鯨はそれを境に明かりを消した。




二.


 鯨は目を開けた。朝の薄い明りが部屋を薄暗く照らしていた。鯨はベッドから身を起こすと、枕の横にあるスマホの画面を見た。午前六時二七分。新着メッセージ一件。鯨はスマホに刺さった充電ケーブルを引き抜いて、画面に映ったメッセージに短く返答した。

 鯨は小さく頭を搔きながら、浴室に向った。


 鯨はシャワーを浴び終えると、目玉焼きとベーコンで軽い朝食を済ませた。テーブルの上に広げたままのノートパソコンと昨日の内に仕上げたレポートと、しおりが挟まった読みかけの本を鞄の中に入れて、身支度を整える。光が差し込まない暗い廊下を進み、鯨は玄関に鍵をかけて部屋を後にした。

 

 大学のカフェテリアで昼食を済ませ、講義に出席して、帰り際に古本屋に立ち寄った。あと数日ほどで読み終わる鞄の中に入った本の続刊を探しながら、鯨は店内をさまよった。本の作者のラベルを見つけて、本棚に並べられた本を指で伝うと、ちょうど目当ての巻が抜き取られていた。鯨は本棚の隙間をぶらつきながら、適当な本を手に取ってはペラペラとページをめくり、棚に戻した。

 ふと目についた本の背表紙を本棚から抜き取った。以前にもこの作者の本を読んだことがある。出だしは良いものの、後味があまり良くなかったのが嫌でしばらく距離を置いていた。表紙だけ見るといつもなんとなく惹かれるのがまた面倒だった。でもこの時も、また前と同じように暇つぶしという理由で、本を片手にレジに並んでしまった。

 鯨は本屋を後にすると、駅に向かった。

 ぼんやりと電車に揺れながら、窓の外の切り替わり続ける景色を見つめるように、目の焦点は景色にあらず、窓に反射する自分の目をただ見つめていた。

 鯨は駅からマンションまで二〇分ほど歩いた。マンションのガラスドアの入り口付近にあるポストの中を確認して何束かの封筒や紙を取り出した中に、鍵がないことに気が付いた。今朝の連絡によると、澪に渡していたスペアキーが入っているはずだった。なんとなく察すると、鯨はエスカレーターに乗り込んだ。

 鯨は部屋の前まで来ると、ドアノブに手をかけた。ドアには鍵がかかっておらず、鯨はそのままドアノブを引いて中へ入った。

(みお)?」

 廊下を進むと、じゅうじゅうと油を揚げる音と香ばしい肉の匂いが鼻を刺激する。

 キッチンを見やると、男がスマホをいじりながら菜箸を片手に、フライパンの前に立っていた。

「あ、おかえり」

 澪は、よだれが唇の隙間からつうと垂れながらこちらを見つめる鯨に気づいて、そう云った。

「何してんの」

「いや、鍵ポストに入れとこうと思ったんだけどさ。お前のことだからどうせそのままにするだろうなって思って」

 「唐揚げ食いたかったし」と澪は揚げ終わったその唐揚げとやらを手際よく皿に取り出した。

 確かに以前にも似たようなことがあり、鍵を夜までポストに放置していた鯨は、「それでも、一言くらい言え」と強気に出ることもできず、澪の言葉に何も返せずに大人しく鞄を置いてキッチンの向いにあるダイニングテーブルに座った。

「それにお前、どうせ何も食べてないんでしょ、また」

 冷蔵庫がすでに空っぽだったので、帰りにコンビニで適当に夕飯を済ませようとしていたが、面倒に思えてそのまま帰ってきた鯨は、図星を突かれたように黙り込んだ。

「ご飯炊けてるから、自分でよそって。あと箸も」

 澪は唐揚げを盛った皿をテーブルに並べながら、鯨に云った。

 鯨は席を立って、言われるがままに食器棚からお茶碗を取って、炊飯器を開けた。ふわっと熱い湯気が放たれて、白く輝きを放つ白米に幸福感を覚えながら、丁寧にお茶碗によそった。箸を一善持って、再び席に着くと、澪は目をスマホの画面に寄せながら、自分で作った唐揚げを何事もないように口に運んでいた。

 不法侵入だと文句をつけるのも忘れて、鯨は唐揚げを口に持っていった。挟むように歯を唐揚げに食い込ませると、サクッと衣が破れる音と同時に、じゅわっと衣と柔らかい肉の感触が口の中に広がった。

 澪は鯨の顔をちらりと見ると、口元を抑えてふっと笑った。

「待って。めっちゃ美味しそうに食うじゃん」

 鯨は口をもぐもぐ動かしながら、澪を見た。

「美味い?」

「うん」

 鯨は澪の問いに素直に頷くと、もう一個、唐揚げを箸で挟んだ。

「俺の分なくなる」

「あんたは一個、残り全部私の」

「ふざけんな」

「スマホ見てんのが悪い」

「俺が作ったのに」

「私のキッチンでね」

 鯨と澪はそんな中身のないやりとりを繰り返しながら、夕食を終えた。


「なんでまた、急に来たの」

 鯨はキッチンで洗い物をする澪に、その横で食器を拭きながら云った。

「別に。暇だったから?」

 暇で自分の部屋に寄る澪に、温いが心に広がるのを感じつつ、どこか不愉快に思えた鯨は、自分の情緒の矛盾さにげんなりした。

「何か映画観ない?」

 鯨の提案に、澪は「いいよ」と答えると、二人は洗い物を終えてキッチンから出た。

「何観る?」

「なんでもいいよ。決めな」

 鯨は明かりを消すと、プロジェクターを起動して壁に投影した。絨毯の上に待機する澪の横に腰を下ろすと、リモコンを操作して迷わずホラー映画を選択する。澪は苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「それはなし」

 鯨はそんな澪の言葉を無視して、映画を上映した。    

 澪は黙り込み、「煙草吸う」とベランダに逃げようとする澪の腕を、鯨は掴んだ。

「大丈夫だから」

 「何が」といいつつ、しぶしぶ腰を下ろす澪は、鯨より後ろに下がるように体を傾けた。

 上映開始から半目になる澪を、鯨はいささか楽しむように口角を上げた。やがて耐えきれなくなったように、澪は「電気つけない?」といったが、鯨は「駄目」と一蹴する。場面が不穏な音楽を流しつつ今にも何かが飛び出してきそうな雰囲気になると、澪は構えるように拳を固く結び、目を固く閉じる寸前まで堪えるように、瞼の僅かな隙間から瞳を覗かせ、目頭にしわを作っていた。

 鯨は少々意地悪が過ぎただろうかと思いつつ、横に座り続ける澪を横目で見つめた。

 映画がエンドロールに入ると、澪は疲れ切ったようにゆっくりと立ち上がった。

「どこ行くの」

「煙草」

 鯨はしばらくエンドロールが流れる暗い部屋に浮かんだ白い壁を見つめ、ぼうっと余韻に浸った。

 やがてエンドロールが流れ終わると、鯨はココアを入れて、マグを片手にベランダの扉を開けた。

 ベランダに煙草の匂いが漂う。

 鯨は澪の横に来ると、ココアを一口飲んだ。ひんやりと肌に寒さが浸透する中で、鯨はマグを両手で包み込み、暖かい温度が手に広がるのを感じた。ココアを通った喉とお腹に、じんわりと温かさが伝う。

「見て。月、まん丸」

 鯨は紺色に染まる空へ指をさした。

「ほんとだ。満月だ」

「うさぎいそう」

 澪はくいと口角をわずかに上げると、「かもね」と呟いた。

 そうして澪は煙草を吸い終わると、中に入ろうと扉に手をかけた。

「帰る?」

「うん」

 澪は「また明日」と云って、鯨を一人、ベランダに残して玄関に向って行った。

 鯨はココアを飲みながら、ぼんやりと空に浮かんだ白い光を放つ、丸い月を見つめた。そして、スマホを片手に、メッセージを打ち込んだ。

『映画どうだった?』

『面白かった』

 すぐに返ってきたその端的な一言からは、彼の本心を読み取ることはできなかった。

 煙草の匂いがわずかに残っていた。鯨はその場でうずくまり、冷えた空気が身体を支配していくのを感じた。


 そして、澪からの連絡は、その日を境にぱったりと途絶えた。




三.


 それから一か月が過ぎようとした頃だった。

 鯨は広い黒板の前にチョークを片手に揺らしながら講義を続ける教授に時折目をこすりながら、周りが既に寝落ちしている中で、ノートパソコンを前に耳を傾けていた。広い空間によく効いた暖房が、さらに眠気を誘った。

 鯨は大学の課題に追われ、新たに就いたカフェでのバイトに励んでは、寝不足の日々を繰り返していた。前日のバイトも、夜遅くに帰宅してはベッドに倒れこんでそのまま朝を迎えた。

「鯨!」

 講義を終えて講義室を出ると、鯨より三つ上の先輩である黒奈くろなが、鯨を見つけて駆け寄って来る。彼女は二年ほど海外へ留学しており、日本に帰ってきた頃は同級生とは馴染みがなく、その時にたまたま隣の席で講義を受けていた鯨と仲良くなった。それから二人は全く授業が被らなくても、時間を合わせて時々ランチしたり休日に出かけたりなどして定期的に顔を合わせていた。

「これ、遅れちゃったけど。誕生日おめでと!」

 そう云って黒奈は、手に提げた紙袋を鯨に手渡した。

 鯨は手渡された紙袋をしばらく黙って見つめていた。

 目まぐるしい日々の中で忘れていたが、鯨は自分の誕生日がちょうど一週間ほど前に過ぎていたことに気が付いた。

 鯨の瞳が徐々に光を集めて輝いた。

「いいの?」

 黒奈はそんな鯨の言葉に「いいのって。勿論」と笑った。

「ありがとう」

 鯨はそう云って笑った。

「大分遅くなっちゃってごめんね」

「全然。嬉しい」

 黒奈はそう口元を緩める鯨を見て微笑むと、じゃあこの後授業あるから行くね、と腕時計を見て云った。

「また時間ある時会おうね」

 そう云って、黒奈は急ぐようにぱたぱたと早足に去っていった。

 鯨はしばらく黒奈の背中を眺めて姿が見えなくなると、大学を出て、紙袋を手にそのままバイト先に向かった。


 その日も店は混んでいて、全ての作業を終えて店を出る頃には二十三時を回っていた。

 鯨はカフェから自宅のマンションまで徒歩一五分ほどの帰路を歩いていた。その腕には黒奈から貰った紙袋が提がり、さらに一切れのチョコレートケーキが入った小さなケーキ箱を手に抱えていた。

 店を出る前に、鯨が手に持ったリボンとシールで綺麗に装飾された紙袋に気が付いたカフェの店長が、鯨に紙袋について訊いたのだ。鯨は友人から誕生日プレゼントに貰ったものだと伝えると、店長は鯨の誕生日を祝って、店で余ったケーキの中から快く一つくれたのだ。

 鯨はマンションに着くとエレベーターに乗り込んだ。

 鯨はエレベーターのホールボタンの自分の階を押そうとした指をぴたりと止めると、行先階のボタンをしばらく見つめた。

 そして、自分の階とは別の階のボタンを押した。


 エレベーターが鯨の指定した階で止まり、鯨はエレベーターを降りた。そして、真っ直ぐに進むと、ある部屋の前で足を止めた。

 鯨はインターホンを鳴らすと、しばらく待った。

 視線を足元に落とすと、踵を返してエレベーターに戻ろうとした、その時だった。

 部屋の扉が開いた。

「鯨?」

 鯨は男の顔を見た。その顔は以前と変わらぬ面持ちで、鯨を見つめていた。

 男はしばらく沈黙すると、やがて口を開いて云った。

「中、入れば?」


「散らかってるけど。適当に座って」

 背の低いオーク材で作られたラスティックな焦げ茶色のローテーブルの上に、空っぽのワインの瓶やお酒の缶がそのまま置かれていた。

 鯨はその机の前に腰を下ろした。

「何か飲む?」

 鯨は「大丈夫」と云うと、澪はコーヒー粉を棚から取り出すと、手慣れた手つきでコーヒーメーカーのペーパーフィルターに粉を入れて、ドリッパーにセットした。

「何で急に来なくなったの?」

 鯨は尋ねた。

 澪はコーヒーメーカーに水を注いで、しばらく沈黙した。

「大学も行ってるし、課題もあるから。俺が邪魔すんのはどうかなって思って」

 鯨は澪の言葉を黙って聞いていた。

 そして、顔をくしゃ、と歪めた。

「俺といたら、邪魔になることもあるだろうし」

 鯨は、どこかに行くなら、その時は一言云ってほしい、と澪に云った。澪は「わかってるよ」と云って、コーヒーを持ってテーブルを挟むように鯨と反対側に、体を横に向けて座った。手に持った淹れたてのコーヒーから、湯気が宙に向って消えていく。

「俺はいつでも話したいと思ってるし、会いに来てくれたらいつでも会うから」

 鯨は「それは私も同じだ」と俯いた。 

 澪は鯨の横に置かれた紙袋とケーキ箱を見た。

「そういえば、誕生日だったよね。言えなくてごめん。おめでとう」

 鯨は顔を上げて澪を見た。明かりがつけられていない暗い部屋に、月の光だけがほんのりと部屋を照らしていたが、鯨を見つめるその表情はよく見えなかった。

 鯨は「ありがとう」と云うと、澪は立ち上がってキッチンに向かい、食器棚の引き出しから何かを取り出した。

 澪はキッチンから戻ってくると、手にぶら下げた猫のぬいぐるみが付いたストラップを鯨に差し出した。

「あげる」

 鯨はストラップを受け取ると、手のひらに乗る大きさくらいの、肉球に魚を貼り付けて持った茶トラのキャラクターを見つめて、意外そうな顔をしてから、口元に小さく笑みをこぼした。


「明日何すんの」

 澪はベランダで、煙草を宙に吹かして云った。

「講義」

「大変だねえ」

 それ以上言葉を続けない澪に、鯨は「何で?」と聞くと、澪は「なんとなく」とだけ云って、言葉を切った。

 しばらくの沈黙の後に、澪は云った。

「バー来れば? 明日」

「どこ?」

「あー。夜何時に帰ってくる?」

「多分七時くらい」

「じゃあ、そんくらいの時間に迎え行くから」

「部屋?」

「うん。俺のとこ来てもいいし」

「わかった」

 それから澪と鯨は、いつの日かと同じように、ベランダで他愛ない会話をした。

 真冬の夜のベランダは、いつになく冷たかった。鯨はそれに気づかぬように、鯨の瞳は澪の横顔をただ静かに捉えていた。

 



四.


 午後六時五七分。鯨はエレベーターから降り、自分の部屋まで向かった。部屋の前には誰もいなかった。ドアノブを回すと、当然鍵はかかっていた。

 今朝、マンションを出る前に、鯨はポストに入った鍵を回収して大学に向かった。鍵は開いているはずはなかった。スマホの画面を確認すると、新着メッセージの通知はない。

 鯨はそのまま自分の部屋を後にし、エレべーターに乗り込んだ。一階上の階で降り、あの時と同じように、鯨は部屋の前で足を止めた。

 素早くメッセージを打ち込むと、その数分後にドアが開き、澪が顔を出した。

「あ、ごめん。今行くとこだった」

 そう云って、澪は靴を履いて出てきた。

「待った? ごめんね」

「いいよ」

 鯨は視線を下に向けると、ぽつりとそう云った。

「鞄、置いてけば? 重いじゃん」

 鯨は「置いてくる」と云って踵を返すと、「下で待ってて」と付け加えて云った。


 鯨は上着を着てポケットに財布とスマホだけ突っ込んで、エレベーターを降りた。

 入り口付近で、澪がスマホに視線を落として待っていた。

「あ、来た」

「行こ」

 澪はそれに応えるように、駅に向かって歩き出した。


 電車で三駅ほどのところで降りて駅を出ると、鮮やかな光が街の中に騒がしく散っていた。通りすがるお店と行き交う人々に、鯨は視線を動かした。仕事帰りで飲みに行くサラリーマン、道で戯れる若者。洒落た古着屋や雑貨店、人々の話声が絶えない飲食店。夜の街は其処彼処で人で賑わっていた。

「鯨、こっち」

 鯨はそう振り向く澪に着いていくと、「Borgias」とハイセンスなイタリックで書かれた看板が吊り下げられ、人ひとり分くらいの狭さの階段が、建物の間にひっそりと下に続いていた。

 澪は階段を下りていき、鯨はその後に続いた。

 アンティークな装飾の扉の上から明かりが灯り、入り口を照らしている。澪が中に入ると、ちりん、と扉にかかったベルが鳴った。オーダーを取っていた女性バーテンダーがそれに気づき、短く挨拶を済ませた後、「開いている席へどうぞ」と云って下がった。

 店の中はあの狭い階段からは想像がつかないくらいには広く、人々で賑わっていた。奥でダーツやビリヤードを年配の男性や若者たちが楽しんでいる。

 「ここでいい?」と、澪は入口から正面に見えるカウンターの席に手を置いた。

 鯨が澪の隣に座ると、カウンターの奥に天井まで届く西洋風の棚に並べられたワインボトルや小物を見つめた。

「お洒落でしょ」

「よく来るの?」

「行きつけ」

 澪は店内の客と親し気に話していた男性バーテンダーに視線を向けると、こちらに気づいた彼が歩いて来る。

「あれ。今日来るの早いじゃん」

 黒髪を短く切って、前髪をオールバックに固めた男性バーテンダーは、澪よりいくつか年上に見えた。彼は前掛けを後ろで直しながら、澪に向って見知った間柄のように軽い調子でそう云った。

「それで、その子は?」

 そう澪に向って云うと、バーテンダーは鯨に向って微笑み、小さく頭を下げた。

「連れ」

「澪の?」

「そう」

 短い会話を交わすと、バーテンダーは首をかしげて「へえ」と呟いた。

 再び鯨に向き直ると、「お名前は?」と訊いた。

 鯨が口を開き答えようとすると、澪が「鯨」と口を挟んだ。すかさずバーテンダーは「お前に訊いてないから」と澪に向って手を払った。

 二人が会話する様子を見つめる鯨にバーテンダーは気づいて、「それで」と話を続けた。

「俺、ここでバイトしてる辰見です。澪がお世話になってます。よろしくね」

 そう軽く自己紹介をすると、辰見たつみと名乗るバーテンダーは、鯨に向って手を差し出した。鯨はしばらくその手を見つめると、握手の意を表すことに気づいて、彼に手を差し出そうとした。

 そこに澪が「あのさ」と辰見を睨みつけるように見た。

「注文」

 辰見は苦笑してわかったよ、と云うと手を引っ込めた。澪は言葉は投げるように彼に注文を云うと、「鯨は」と前を見たまま頬づいて云った。

 鯨はメニューをしばらく眺めて、「これは?」と澪に尋ねるようにメニューを傾けると、澪は前に向けていた顔をメニューに向けて、鯨が指さす「カシスコーヒー」を見た。彼は「いいんじゃない」と短く云うと、鯨は「じゃあ、これで」と小さなメモ帳を片手にペンを走らせる辰見に伝えた。

 辰見はカウンターの奥で作業をする年配の男性にオーダーを伝えようとすると、男性は彼を叱るように眉間にしわを寄せていた。辰見は頭を掻いて何やら弁解していた。

「あいつ、怒られてんな。バイトの分際で業務中に私語話すから」

「仲良いの?」

「まあ、良いかも。カウンターにいる人、あいつの親父さんで、俺も良くしてもらってる」

 カウンターの男性と辰見から何か親し気な空気を感じていた鯨は、納得して「なるほど」と云った。

「そういえば、バー来んの初めてだっけ」

 鯨は「うん」と答えると、澪は酒は? と尋ねた。

「まだ飲んだことない」

 その時ちょうど、女性のバーテンダーが「お待たせいたしました」と断りをいれて、注文した品をカウンターのテーブルに並べた。

「まあ、カシスならあんまアルコール強くないし、大丈夫だと思う」

 鯨はソーサーに置かれたコーヒーカップを見つめた。カップの取っ手を持ち、口に近づけると、温かい湯気が唇をかすめた。鯨はカップを傾けて、毒見をするかのように、カシスコーヒーを一口飲んだ。

「甘い」

 カフェラテと大して変わらない味わいだった。

 鯨と澪は、それから当たり障りのないことを談笑していた。

 鯨のカップに残るホワイトベージュ色に注がれたカシスは、カップの半分くらいまで減っていた。

 そこに、澪よりいくつか年下に見える男性が「あー!」と半ば叫ぶように近づいてくると、澪の肩をぽんと叩いた。

「何してんのお」

 男は酔っているのか、浮かれた様子で澪に話しかけると、澪は「あ、にろー」と彼を振り向く。

「何お前、急に来んな」

 二人は冗談を交えながらしばらく話すと、男は誰に云うわけでもないように、「この、尻軽」と素っ頓狂な調子で云った。

「おい謝れよ、鯨に」

 澪は鯨を会話に巻き込むようにそう云って、笑って男の頭を叩いた。

 澪は鯨が「お前に言ったんだよ」とでも云うと予想していたが、また、鯨も実際にそう思いながら、彼らの方を見るも、言葉に出さなかった。その代わり、鯨はカップに残ったカシスコーヒーを一口飲むと、男の方をちらりと見やった。

 男は軽い調子で「ごめんね」と云って、また澪と談笑し始めると、しばらくして離れていった。

 その後に、また複数人の女性が澪に話しかけてきた。彼女たちも、澪より幾分年下のようで、また鯨も自分より年下に見えた。

 澪は愛想笑いを浮かべるも、どこか素っ気ないように、女達を相手に話していた。

 甘くとろけるような味に、アルコールを重ねたせいか、鯨は気分が悪くなるように感じた。

 鯨は残りのカシスコーヒーを飲み終えると、しばらくカップの中身を見つめていた。

「あ。トイレ、奥の突き当りにあるから」

 澪が鯨に云うと、鯨は立ち上がって、澪が教えた方向を見て、それを確認するように澪を見ると、澪は「そう」と云って、「わかんなかったら店員に訊けばわかるから」と、店内を忙しそうに周る店員を見て云った。

 鯨は膝にかけていた上着を持って、トイレに向かった。




五.


 鯨がトイレから出てくると、澪がこちらに向かって来て云った。

「ごめん。もう帰る?」

 鯨は澪の背後に見える、先ほど澪が座っていた席を囲んで談笑する女性達の中に、ひとりこちらを見ている女性を見た。

 鯨はまた人がいなくなったら話そう、と伝えた。

「多分あの人たちずっといるし。また時間作って連絡するね」

 鯨は澪の言葉に「わかった」と云うと、店を後にした。


『次いつ会える?』

 鯨は昨夜に送信された澪からのメッセージに短く返信しながら、図書室を出た。

 大学の課題とバイトを両立して日々を駆ける鯨は、澪から何度か受けたバーの誘いを時間がないという理由で遠回しに断っていた。最近課題が片付いてきたこともあり、最後にバーに行った日から、一週間ぶりに時間を見つけて、澪に今日の夜会えることを伝えた。

『何時に来る?』

 澪からの返信に、鯨は少し考えて、返信した。

 トーク画面に一件の新着メッセージが表示される。鯨は澪とのトーク画面を閉じて、トーク覧を開いた。

『授業終わったら一階のラウンジで待ってるね』

 黒奈からのメッセージだった。

 鯨は今向かっていることを伝えると、『ジムからそのまま来てるからちょっと遅れるかも』という内容の返信がすぐに返ってきた。

 昼に黒奈とランチする約束をしていた鯨は、図書室を出た先にある、美術学科が主に活動している西棟の渡り廊下を歩いていた。

 廊下は様々な機材や段ボールが積み上げられ、物置のような具合で散らかっている。教室の中を覗くと、教授を中心に囲むように椅子を並べて、キャンパスを前に美術学部の生徒たちが鉛筆を握って黙々と手先を器用に動かしていた。

 教室の前には、壁一面を覆うように飾られたパネルを前に、生徒たちが集まって作業をしていた。

 脚立に座って頭に天井がつきそうなくらいの高さから、青いペンキを床に垂らして作業するマスクで顔を覆った女学生が、長い前髪を放って、重い腕を必死に上げるかのように片手に持ったブラシを辛そうに持ち上げた。その手は小刻みに震えている。

 鯨はポケットにスマホをしまい、脚立の横を通り過ぎようとした、その時だった。

 女学生が膝に抱えていた青色のペンキ缶が、彼女の膝から滑り落ちた。

 鯨の頭上で逆さになった丸缶から青色のペンキが溢れ返り、鯨は頭から青色を覆いかぶさった。

 真上から「ごめんなさい!」と叫ぶように焦った謝罪が投げかけられると、異変に気付いた周りの人々が鯨の周辺に集まってきた。

 ぽたぽたと青色のペンキが、鯨の身体から滴り落ちた。

 脚立から降りてきた女学生は鯨に何度も頭を下げて謝罪し、目に涙を浮かべていた。

 女学生の様子を見た彼女の友人らしき何人かの学生らが、彼女の火照った頬と汗で湿った前髪を見て、彼女の体調が悪いことに気がついて、彼女を保健室に連れて行った。

 鯨は服を着替えるように保健室に行く彼女たちと同行するように促されたが、鯨は断ってタオルを数枚借りると、体と髪を大雑把に拭った。青色のペンキは落ちるどころかこすった跡を付けるかのように体に広がった。鯨は靴と靴下を脱いで、そのまま黒奈が待つラウンジに向かった。


『大丈夫? なんかあった?』

『ごめん、ちょっとトラブルがあって。もう着く』

 周囲が何だかざわついていることに気づいた黒奈が、スマホの画面に映った鯨とのトーク画面から顔を上げた。

「黒奈」

 小走りにこちらに向かってくる鯨の姿に、先輩はぎょっとした。

「ごめん、遅くなった」

「え? 大丈夫⁉」

 それはほとんど乾いているように見えたが、鯨の身体のあちこちに青いペンキがこびりついている。

「何があったの?」

 黒奈の当然浮かんでくるだろう問いに、鯨は約束の時間より三〇分も遅れた事情を説明した。

「とりあえず着替えたら? 私ジャージ持ってるし、貸そうか?」

「いいの? ごめん、助かる。ありがとう」

 鯨はそう云って黒奈からジャージを借りると、トイレに向かった。


 鯨はトイレの手洗い場で、メイクを直しながら集まって談笑する女子大生らがいる中で、タオルに水と石鹸を含ませて、頑固に肌に張り付いた青いペンキをごしごしとこすった。先ほどよりは幾分かマシになったが、髪と服についたものはどうしようもなかった。

 鯨はトイレから出てくると、黒奈が座るテーブルを囲むように、三人の男子大学生が黒奈に話しかけていた。そのうちの一人は、黒奈の前の席に横柄な態度で座っている。

「知り合い?」

 鯨がテーブルに戻ると、黒奈に向ってそう尋ねた。男性たちは鯨を見て引き気味に驚く。

「いや、今初めて話したかな」

 黒奈がそう笑って答えると、男性たちは浮かれた様子で「俺らもう友達だよね」と横から口を挟んだ。

「お友達? 二人、この後暇なら遊ぼうよ」

 ペンキを体につけてジャージでほっつき歩く奴と誰が一緒に遊びたがるのだろうか、と思いながら、鯨は「大丈夫です」と云って黒奈の手を引いた。

 「連絡先だけ教えてよ」と黒奈の腕を掴む男性の手を振り払って、黒奈は「しつこいんだけど」と云ってその場に男性たちを残すと、二人は去って行った。

 鯨と黒奈は大学の外に出ると、さすがに鯨の今の格好で店に入るのはまずいということになり、大学内で出店しているキッチンカーでホットドックを買った。

 鯨はシナモンシュガーのチュロスを二つ加えて買うと、キッチンカーの前のベンチに座ってホットドックを手に持つ黒奈を見た。

 品のある褐色の肌に、白いチェスターコートのコントラストがよく似合っていた。両耳に大きな金色のリングピアスを提げ、鯨とは対照的なストレートの長い黒髪が彼女の風格をよく物語っている。

 自分が黒奈を待たせている間、あのような輩に何度も絡まれたのだろうか、と思うと、鯨はいたたまれなかった。

 鯨は体操服の恩もあり、「え、いいの? 大丈夫なのに」と遠慮する黒奈を押し切って、「いいから!」とチュロスを押し付けた。

 鯨と黒奈がベンチで話す間、キッチンカーに訪れた中の何人かが、黒奈に話しかけてきた。彼女の友人もいれば、全く知らないどころか、国籍の違う留学生も中にはいた。けれど、英語が達者な黒奈は、愛想よく彼らと異国語で会話を交えていた。

「今の人は、友達?」

「うん。この前見学に行ったサークルで知り合ったんだよね」

 黒奈はこちらに手を振るアジア人の留学生に、手を振り返しながらそう云った。

 鯨は黒奈の人脈の広さと人望の厚さに感心しながら、自分の隣にいる黒奈がどこか遠くの人のように感じていた。

 誰からも好かれ、誰かを拒むことなく人間関係にゆとりを持つ黒奈は、鯨とは対照的だった。鯨は、誰彼とこだわらず人を受け入れる人のみが、自分を受け入れてくれるのだろうと思っていた。人間を好みで選抜する人たちに、近づく勇気は鯨にはなかった。

 鯨はすでに食べ終えていたホットドックの包み紙を丸めると、立ち上がって云った。

「そろそろ行こうかな。もうすぐ授業始まるし」

「あ、そうだね。じゃあ私も」

 いつしか鯨と反対側の黒奈の隣に座る友人たちと話していた黒奈が、立ち上がってそう云った。彼女の友人たちは黒奈の言葉を聞いて、「え、もう行くの?」と云った。

 特に何も話さずに黒奈の隣を独占していた鯨は、彼らにこの場所を譲るつもりで立ち上がったので、黒奈が自分と一緒に行くと言い出して戸惑った。

「いいの? 話してていいよ」

「いいよ。時間ちょうどいいし、私も行く」

 黒奈はそう云うと、友人たちに軽く別れを告げた。


 鯨は黒奈と講義室の前で別れると、教授と生徒に訝し気な顔を向けられつつ、残りの授業を受けた。 

 鯨は大学を出ると、駅に向かって歩き出した。靴や脚にはまだペンキが残っている。すれ違う人々の視線が鯨に集まるのを気に留めないように、鯨は『今日ありがとう。ジャージ今度洗って返すね』と黒奈にメッセージを打ち込んだ。

 鯨は電車から降りて早足にマンションまで歩くと、エレベーターが一階に到着するのも待たずに、階段から駆け上がって自室まで戻った。




六.


 シャワーを浴び終えた鯨は、ドライヤーで髪を乾かしていた。風呂場には、青色の塗料が綺麗に手洗いで落とされた服が干されている。鯨は借りた体操着は汚れが付かぬよう別で洗濯機で洗い、乾燥機で乾かした。

 鯨はジャージをアイロンにかけながら、壁にかかった時計を見た。

 鯨は着替えを済ませると、必要なものだけ持って部屋を出た。

 外に出ると、辺りは既に暗くなっていた。街の輪郭を消した黒い背景の中、明かりが灯る場所だけが切り取られたように露わになった。

 スマホからぽこん、と軽快に通知音が鳴った。確認すると、澪から一言『店いる』と来ていた。

 鯨は『今行く』とメッセージを送信して、電車に乗り込んだ。


 鯨は、駅のホームを出ると、この前背中を追いながら来た道を思い出しながら、駅からバーまで歩いた。

 暗い足元に注意しながら、歩幅の狭い急な傾斜の階段を一歩ずつ降りた。

 照らされた正面扉のドアノブに手をかけて押し開けて中に入ると、鯨に気づいた辰見が、こちらに向かって手を振った。

「あ、鯨ちゃん! もしかして澪?」

 鯨が頷くと、辰見は澪がいる席まで案内するように「こっち」と云った。

 鯨はきょろきょろと店内を見渡しながら辰見について行くと、澪が二人の女性に囲まれて、カウンターの奥の席に座っていた。澪は「あ、鯨」と辰見の背後に連れられた鯨に気づいて立ち上がると、二人の女性のうち一人が、「でさあ」といいかけると、「あれ」と辺りを見回して、「え、どこ行くの」とその場を離れたもう一人の女性を追いかけていった。その女性は、この前鯨を見つめていた人と同じ女性に見えた。

 澪は鯨に駆け寄ると、鯨の髪の毛先に絡みついて固まった青色の塗料に気が付いた。

「何で絵具つけてんの」

 澪は青く固まった鯨の毛先に触れた。

「零した」

 そう云って鯨は席に座ると、両手で髪を絞るように前に寄せて、確かめるように自分の毛先を見た。

 澪は鯨の露わになったうなじを見て、ひたりと指先を付けた。

「ここにもついてる」

「お風呂入ったんだけどな」

「全然取れてないじゃん」

「うるさいよ」

「洗うの下手」

「黙りな」

 澪は鯨の隣の席に戻る。暗い店内に、レトロな温かみのある明かりを灯すシャンデリアの下で、オールドファッションドグラスに注がれた、薄く透けた茶褐色のバーボンが、アイスバーグの宝石のような氷に色をつけてきらきらと輝く。

 澪がグラスを持つと、氷がグラスの中で形態を崩して、からん、と軽らかに音をはじいた。

「いっそう青いね、今日は」

 澪はグラスを回すと、バーボンを一口飲んだ。

 鯨はその意味がよくわからずに、「そう?」と云うと、澪はそうだよ、と返した。

 鯨はイメージカラーとかそういう意味合いだろうか、と思いながら、ジンジャーエールが注がれたコップを口に近づけた。


 土曜日の昼、鯨はカフェのバイトで、カウンター越しに接客業務をこなすバイトの店員の後ろで、黙々とドリンク類を作っては提供していた。

「あの、すいません。これ合ってますかね」

 横で同じような作業をしていた男性店員がこちらを振り向いて、手に持った厚紙のコーヒーカップを見せてきた。

「いや、これは、蓋が違います。多分」

 「あ、ありがとうございます」と云って作業に戻る新人らしき同僚に、鯨は胸をなでおろす。

 カフェのバイトに就いてから二ヶ月と少ししか経っていない鯨のことも知らない新人に、無責任にわかりませんというのは気が引けた。人の名前と顔を一致させるのが不得意だった鯨は、先輩も新人も区別がつかないので、誰に対しても常に敬語を怠らないように振舞っていた。

「お名前何ていうんですか?」

交川(こうかわ)です」

「どこの大学行ってるんですか?」

 業務中に私語を連発する新人に、鯨は作業を進めながら小声で答えた。

「彼氏とかいるんですか?」

「あんた、うるさい。必要なことだけ聞く」

 一通り接客を終えた先輩の女性店員が、振り向いて注意する。

 新人店員は「すんません」と肩をすくませた。


 休憩を挟んで夕方からのバイトを終えると、鯨はカフェのロゴがついたエプロンを鞄の中にしまうと、店を出ようと店のガラス扉を押し開けた。

 鯨は前を見やると、ちょうど今日の新人と先輩が一緒に店から出てきたところのようだった。

 「あ」と云って二人は鯨を振り向く。

「鯨ちゃんお疲れ様」

 鯨は「お疲れ様です」と返す。

「聞いてくださいよ、この人怖いんです。今日俺説教されたんですよ」

 新人は隣で腕を組む先輩店員を指さした。

「あんたが仕事中関係ない話するからでしょ」

 彼女はそう云って、彼を小突いた。

「あ、そういえば。俺らこれから他の人たちと合流して飲みに行くんすけど。鯨さんは?」

 鯨は「大丈夫です」と云うと、彼は「じゃあ、俺送ってきましょうか?」と提案すると、先輩は「暗いしね、鯨ちゃん送ってってもらえば?」と会話を促す。彼は「家どっちすか?」と鯨の手首を引っ張って、鯨の「いや、大丈夫なんで」という言葉も聞こえてないように歩き出す。

 その時、ポケットの中のスマホのバイブレーションが、ポケットに突っ込んでいた片方の鯨の手を伝った。

『鯨ちゃん、今日は来ない? 澪いるけど』

 澪からのメッセージに違和感を覚えていると、その後すぐに『あ、今辰見です』と送られてくる。

 突然足を止める鯨に新人後輩は振り向くと、鯨は用事ができたと云って向きを変えて、駅の方へ足を速めて歩き出した。




七.


 鯨は微動だにせずに、その場に立っていた。

 店に流れる優雅なクラシックのBGMも、人々の騒然とした話声も、外部の音を脳が遮断するように、鯨の耳には届かなかった。視界の端に映る背景はぼやけて、ただひたすらに、鯨の瞳に映るのは、この前と同じ奥のカウンター席にいる二人の人物だけだった。

 澪がカウンターの席に座る女性の隣に立って、楽し気に話していた。その女性はこの前いたどの女性でもなかった。艶のある黒髪のショートカットで、かき上げた前髪と、白い肌に赤いリップをのせた唇が大人っぽさを演じていたが、童心を思わせるそのあどけない笑顔はどこか幼かった。

 澪は彼女の前に手を差し出すと、彼女はその手のひらに重ねるように自分の手を置いた。澪は彼女の手を引くと、並べられたダーツスタンドの前の、長い鉄脚に滑らかな黒いラバーウッドのシンプルモダンなデザインのテーブルに手を置いて、また親し気に会話する。

 女性は伏し目がちな長い睫毛に隠れた瞳をスマホに落とすと、それを澪に見せて笑った。

 澪は彼女のスマホの画面を覗き込むと、口元を片手でふさいで、笑った。

「あ、鯨ちゃん。澪なら――」

 辰見が入り口付近に立つ鯨に気づいて澪の方を指をさそうとすると、鯨はすいません、と云ってトイレに向かった。

 個室トイレが並ぶレストルームは騒がしい店の中と断ち切られたように整然としていた。鯨は個室トイレの一室に入ろうと横切る鏡に映った自分の顔を見た。蒼白い顔。自分ではない誰かのように思えた。鯨は扉を閉めると同時に、ウッ、と押し殺した感情が唇から漏れ出るように喉の奥から吐き出されると、床に膝をついて、便座の中を覗き込むように顔を下に向け、「おえ、ぇ」と嗚咽を漏らした。空っぽの胃袋から何かが逆流してくることはなかったし、口の中で溜まった唾液を垂らすだけだった。


 鯨がトイレから出て口元を腕で拭うと、澪が「鯨」と声をかけた。

 鯨は顔を上げて澪を見た。

「来てたの」

「バイトの帰りに寄った」

「言ってくれたら、迎え行ったのに」

 鯨はうるさい、あっちへ行って、と云う言葉も喉の奥で詰まらせて、「大丈夫だよ」と云った。

 鯨はその後「今日は帰る」と云って、店を後にした。


 その夜、鯨は何事もなかったように澪とメッセージ上で短くやり取りした。

 鯨はベッドに潜り込むと、全てを忘れるように、目を瞑った。


 それから数日が過ぎたが、鯨が再びバーに出向くことはなかった。

 澪がバーに鯨を誘うこともなかった。


 鯨は目を瞑っていたかった。

 ただ煙草の匂いを残してほしかっただけだ。

 眠れば忘れた。

 感情に揺さぶられたくなかった。

 自分が楽だったらそれでよかった。




 鯨は駅の改札で行き交う人々の顔に注意しながら、目当ての人物を探した。改札の前の浅い階段を数段上がった先に、黒奈の姿が見えた。

「黒奈!」

 鯨は手を振って駆け寄る。

「鯨! ごめん待った?」

「今来た」

 駅の地下街に並ぶお店で暇をつぶした後、街の建物の影が薄れ、空が夜の色に染まる頃、鯨と黒奈は駅を出て居酒屋に入った。

「鯨お酒飲めるっけ?」

 黒奈はベージュのコートを脱いで、黒奈の荷物が置かれた隣の席にかけると、メニューに目を通しながら鯨に訊いた。

「まあ」

「飲んだことあるの?」

 普段アルコールやカフェインといった類は滅多に摂取しない鯨に、黒奈はからかうようにいやらしい笑みを浮かべた。

「あるし。この前、少し飲んだ」

 黒奈は意外そうな顔を浮かべて、「へえ?」と声を高めるので、「なにさ?」と鯨が云うも、黒奈は「別に?」とはぐらかすように軽やかに笑った。

 テーブルに揚げ物や串焼きなどの脂っこいものが並べられていく前で、黒奈と鯨は絶え間なく言葉を投げ合った。

「え、黒奈じゃない?」

 鯨の席の向かい側に見える通路をまっすぐ行ったところにある受付のカウンターに、大学生そこらと思われる集団の一人がこちらを見て声を上げた。すると、店員に向って何かと伝えると、一行はぞろぞろとこちらに向かってきた。

「めっちゃ偶然―。隣いい?」

 黒奈が返事をし終える前に、彼らは鯨と黒奈が座る席に隣のテーブルをくっつけてくつろぎだした。

 小声で「ごめん、平気?」とばつが悪そうな顔をしていう黒奈に、鯨は頷いた。

 自分の一言で大勢の黒奈の知り合いを彼女から遠ざけてしまうのは気が引けた。

 黒奈は友人の知り合いの人たちともすぐに打ち解けていた。食べる口を止めて、黒奈は会話を返していた。

 鯨は笑顔を浮かべる黒奈の横顔を見て、静かに視線を下に向けると、残りの料理を口に運んだ。

 人ひとり分くらいの間を作って鯨の隣に座る男性が、黒奈の会話に相槌や笑い声を上げたりしていたが、やがて諦めたように、今度は鯨に向って控えめに「黒奈さんの友達ですよね」と話しかけた。鯨は「はい」と答えながら、ガーリックライスにぱくついた。

「名前何ていうんですか?」

「交川です」

「黒奈さんと仲良いんですね」

「まあ」

「僕、黒奈さんとは何回か知り合いの連れで会ったことあるんですけど。僕のこと覚えてるかな」

 鯨はちらりと彼を見やると、その目は黒奈の横顔を見つめていた。

 鯨はガラスのコップに入った水を一口飲むと、タコの唐揚げを箸でつまんだ。

「あ、すみません僕ばっかり。えっと、交川さんだっけ。僕は――」

 それからの会話の内容はあまり覚えていない。男性の口から黒奈の名前が頻繁に出てきていた気がする。


 居酒屋を出た後は、皆は店の前で二軒目に行くかどうかなど話して和気藹々としていた。その輪から少しはみ出した隅で、活気が沈んだころ合いを見てその場を後にしようと様子を伺うように、鯨は白い息を吐いて立っていた。

 だんだんと人が散っていく中で、輪の中心にいた黒奈が「黒奈行かないの?」という呼びかけに「ごめん、また今度にする!」と愛想よく応えてから、こちらに向かってきた。

「鯨、帰る?」

 黒奈はそう微笑んだ。夜の寒さで黒奈の頬と鼻先は赤く染まっていた。黒奈の周りは、温かい。

「うん」

 黒奈が鯨の隣に並び、二人が足を踏み出そうとしたその時、背後から「あの!」という声が二人を呼び止めた。

 二人が振り向くと、先ほどの居酒屋で鯨の横に座っていた男性が硬い表情でそこにいた。

「良かったら連絡先交換しません?」

 黙ったままの鯨に、男性はときより視線を黒奈にずらしながら、続けた。

「僕たち結構気が合うし。他の人と違って、えっと、交川さん話しやすかったんで」

 黒奈は「そうなの?」とでもいうように鯨を見た。その時、男性はその黒奈の反応を逃すまいとするように即座に付け加えた。

「あ、黒奈さんも、良かったら」

 それからその視線は鯨に一瞥もよこさなかった。

「もう帰るので」

 黒奈は「行こ」と云って鯨の腕を組んで引っ張った。

 鯨の耳は、寒さで真っ赤に染まっていた。




八.


 鯨は部屋に戻ると、しばらくの間その場でうずくまった。体育座りになって両手で抱えた膝の上から、目を覗かせた。暗い廊下の先に見える、リビングのベランダのガラスドアから、月明かりが部屋を薄暗く照らしていた。

 ポケットから落ちて床に転がったスマホを手に取り、トーク画面を開いてメッセージを打ち込んだ。

『会える?』


 しばらくの間、鯨は目を瞑ってその場から動かなかった。すると、スマホがブーとバイブ音を鳴らして、画面が明るく光った。

 鯨は目を開けると、視線をずらして通知のタブが並ぶスマホの画面を見た。

『いつ』

 鯨はスマホを床に置いたまま、片手で通知を開いて、返信した。

『今か、明日』




 四十分後くらいの時間に来ると澪は云った。しかし、それから二十分後くらいに、鯨の後ろの玄関の扉の前に、立ち止まった足音を聞いた。

「鯨?」

 鯨はハッとして立ち上がった。扉を開けると、澪がそこに立っていた。

 鯨は澪を部屋の中に入れると、そのままリビングに行き、ベッドの前の絨毯に座り込んだ。

 澪はその隣に腰を下ろして、黙っていた。

「早いね」

 鯨は正面を見据えたまま、呟くように云った。

 返事がない澪を鯨は横目で見るように視線をずらしたその時、腕が鯨の首の後ろに回った。その腕は鯨を引き寄せて、抱き締めた。

「我慢できなくて」

 澪の顔は鯨の肩の上にのせられていて見えなかった。澪の額が鯨の肩を擦った。耳とうなじが少し赤らんでいるように見えた。

 鯨はすぐ横に感じる澪の存在を見た。

 記憶が鯨の瞳の中で廻った。

 見開いた瞳の中で静止した時間の間に、一瞬の瞬きの前に記憶を巡った。

 鯨は目を閉じた。




九.

 

 鯨は部屋に鍵をかけると、キャリーケースを引いてエレベーターに向かった。

 澪に会ってから数日後のことだった。

 鯨は澪に「旅行行ってくる」とだけ前日の夜にメッセージを送った。澪からの返事は、快く送り出す手短な一文で返ってきた。

 鯨はエレベーターのボタンを押して、エレベーターの扉の上に並列して階を表す数字が、右から左へ向かって点滅していくのを見つめた。

 鯨の待つ階で点滅が止まると、エレベーターの扉がスライドして開いた。

 中に乗っていた人物を見て、鯨は驚いた。

「鯨?」

 手ぶらで、財布だけズボンのポケットにしまって、近くのコンビニでも寄ろうとしたのであろう澪の姿があった。

 澪は鯨を見て、その後に、鯨の引くキャリーケースを見た。

「どこ行くの」

 澪のその目は細く鋭く、物言いたげに鯨を見つめた。

 予定の上辺ではなくその内容を求めるような言い方に、メッセージ上では見えなかったその表情と、記録には残らない言葉に、鯨は飛行機で遠出することを伝える。

「五日くらいで帰る」

 一言加えた鯨の言葉に、澪は「気を付けてね」とだけ言って、エレベーターを降りて非常階段を下りて行った。

 背を向けた時に一瞬見えた澪の顔にかげりがあったのが、気のせいではないような気がした。





 それから五日が経ち、鯨は予定通り帰ってきた。空港から出た後、近くの店に立ち寄って、小腹を満たした。バスに乗って揺られる旅行からの帰路の間、窓から差し込んだ陽光に当たりながら、鯨は眠った。

 部屋に着いたのは正午を過ぎた頃だった。

 鯨は軽く昼ご飯を済ませた後、荷物を解いて中身の物が定位置に片付けられると、その空間は元の日常の光景に戻った。

 鯨は紅茶を淹れて和菓子をつまみながら、本を開いた。いつの間にか、本は鯨の膝の上で閉じられ、鯨はベッドの上に頭を預けて再び眠りに落ちていた。

 目が覚めたのは一九時になる手前頃だった。日が落ちて部屋は暗い影で覆われて、ヒーターの温風と灯される橙色の光だけが鯨の下を照らしていた。

 鯨はスマホを手に取って、画面を開いて、メッセージを打ち込む。

『帰ってきた』

 暗い部屋と対照的に照らされるスマホの画面の機械的で真っ白な光は鯨の瞼を障った。

 鯨はしばらく画面を見つめた後、スマホを置いて、冷めた紅茶を喉に通した。胃の中がひんやりとして、茶葉の苦味が喉に残った。

 その日の夜は、仮眠をとりすぎたせいか、よく寝付けなかった。


 翌日の夕方頃だった。鯨は昼まで眠りこけて、寝癖が付いたまま大学へ向かって、講義を受けた帰り道に、澪が『おかえり』と返信をよこしてきた。

 鯨はコンビニで買った肉まんを片手に食いつきながら、返信を返した。

 短くやり取りした後、鯨は『いつ会える?』と打ち込んだ。

『ちょっと忙しいかも』

 鯨は空いている日にちだけ伝えると、その日の会話はそれで終わった。

 澪が鯨の伝えた日に会いに来ることはなく、話題になることはなかった。鯨はそのまま会いに行こうとはしなかったが、何度か澪に会える日を尋ねた。

 澪がそれに応えることはなかった。

 

 やがて鯨は澪に会うことを試みることをしなくなった。それから二人が会わなくなって数か月が経ったが、澪と鯨は何事もなくメッセージでやりとりしていた。

 

 鯨はリビングのテーブルで本を読んだ。めくり終わった右の見開きに重なった紙の数は厚くかたより、左の見開きのページ数は薄くなっていた。

 鯨は終わりまで残り少なくなった物語の間にしおりを挟んで本を閉じた。

 鯨は氷が浮かぶアイスコーヒーを飲み干して、キッチンのシンクに氷を流した。ガラガラと音を立てて、氷はシンクの中で転がった。

 鯨は玄関に備えてある、この前のものとは一回りほど小さいトランクケースを片手に、部屋を出た。

 鯨は玄関の扉に鍵をかけると、鍵をポケットにしまって、バス停まで歩き出した。


 鯨は腕時計を確認して、トランクケースを置いて、バスが来る時刻まで立ちすくんだ

 雨がぽつぽつと降り始めた。

 バス停の簡易な屋根の下で、鯨は雨の音を聞いた。

 通り道を囲むように立ち並ぶ背の高い建物とビルの間で、車がヘッドライトを眩く照らして通りすがってゆく。

 車が遠ざかった一瞬の静寂の時。

 パシャ、と水が弾ける音がした。

「何してんの」

 鯨は横を見た。

 澪がフードを被って、雨の中にいた。

 その顔は雨に当たっていたが、そんなに濡れていない。手にはビニール袋が下がってる。

 二人が言葉を交わす代わりに、雨音が静寂を切り裂いた。

 澪は鯨のもとにつたない足取りで歩くと、まるで追いかけたものを掴むように手を伸ばして、鯨をとらえた。

 澪が持っていた袋が澪の手から滑り落ちて、中身が地面にばらけた。被っていたフードが澪の頭からはだける。

 あの時の穏やかで相手を気遣うような丁寧な抱擁ではなかった。力のこもったその腕は、鯨のことをまるで無視して、その手は鯨の背中を、服にしわを刻んで力強く掴んだ。

 鯨は澪の後ろでバスが向かってくるのを見た。

 バスはしばらく止まったが、やがて行ってしまった。

 ザアザアと地面を打つ雨が強くなったのを感じた。

 澪はしばらくの間そのまま沈黙して、鯨はただ澪の息遣いを聞いていた。

 鯨の身体は冷えていた。澪が吐く息も冷たく、凍てつく空気は肌を刺した。

 澪は鯨から離れると、鯨の手を引いて近くのカフェに入った。


 人が少なくなってゆっくりと流れる音楽が広々とした店内を流れ、夜の暗闇が映る窓は二人を静かに見守っていた。

 向かい合う鯨と澪の間に沈む静黙は長かった。

 鯨は目の前に置かれた水のコップの一点を見つめて、手はテーブルの下でじっと膝の上から動かなかった。

 初めに口を開いたのは澪だった。

 それに何と返したのかは覚えていない。

 ただその後に鯨は澪に問うた。

 澪は答えて、また鯨は問うた。

 それを繰り返した。

 鯨の前に置かれたガラスのコップの中に浮かんでいた氷は、すでに水の中に溶けていた。

 澪は鯨の問いの一つ一つに長い言葉をつなげて答えた。その様子はまるで今まで押し殺してきた感情が澪の口から漏れ出すようだった。

 その問いも答えも覚えていない。

 覚えているのは何も変わらぬままだったということだけだった。




十.

 

 鯨から『体調を崩した』と連絡がきたのはその三日後くらいのことだった。

 あの後鯨は「わかった」と云って、帰りの道も二人で傘をさしていつものように会話して、部屋まで戻った。

 連絡が来てから数日を空けて鯨の部屋を訪れた。

 扉の向こうに声をかけても返事はなかった。インターホンを押しても鯨が出てくることはなかった。

 澪は扉の取っ手に手をかけると、扉に鍵がかけられていないことに気づいた。

「鯨? 入るよ」

 澪は扉を引いて中の様子を伺った。

 玄関は綺麗に片付けられていて、靴は棚の中にしまってあるのか、一足も見当たらなかった。

 澪は靴を脱いで部屋の中に足を踏み入れると、廊下を進んだ。

 中は冷たく、しんとしていた。

 ケトルを沸かす音も聞こえなければ、ストーブがしゅんしゅんと鳴らす音も聞こえなかった。

 家具や小物はそのままだったが、人の生活感が感じられないもぬけの殻のようになった部屋のリビングのテーブルの上に、本が閉じられて置いてあった。本の横にはしおりが放ってある。

 澪はベランダに出て紙箱とオイルライターをポケットから取り出した。煙草を一本取り出して、風から守るように咥えた煙草に手をかざした。しかし、いくらフリントホイールを指で回転させても着火しなかった。ライターの中の燃料は既に空っぽだった。

 澪はベランダの腰壁にずるずると背中を引きずって座り込んだ。




 バスに揺れて夜景を見た。

 信号が青から赤に変わり、車が停止する。

 鯨は読み終わった本を思い出して思った。



 


 ああ、つまらない話だった。





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