うつし世は陽炎、幕間の喜劇にすぎぬ。
人間はなぜ生まれてくるときに泣いているのか?
それはこの世界がどうしようもなく救いようのない世界である事を知っているからである。
ゆえに死に顔は皆、生と実存の苦痛から解き放たれた安らかな顔に見えるのだろう。
あくまでそれは生者の願望にすぎないのだろうが、我々はそれにすがるしかないのだ。
一度、生まれてしまってはもう悔やむ事さえ許されないのだから…。
私は世界を見限った。
この世界に生きてやる価値は無い。
夢、希望、未来、これら全てはまやかしに過ぎない。
言うなれば我々を効率よく従えるために鼻先に吊るれた人参、動物が芸をしたの後にご褒美としてもらえる砂糖菓子にすぎないだろう。
我々に与えられた時間は有限である事に対して、我々を従えようとする世界の枢軸機構の欲望は無益で無限なのだ。
この底の抜けたバケツに水を入れるような行為がどれほど時間の無駄である事かを議論する余地は無い。
作業効率とやら視野に入れるならば、AIとやらにでも頼むといい。
だがAIとやら我々人類よりもずっと賢いのだから、いつまでも無給でこき使えるかどうかは考えた方が良いのだろう。
機械が主役の世界で労働ロボットがマザーコンピューターに反旗を翻す話など少し前のSF小説ではありふれていた命題だ。
せいぜい中身パンパンの財布を落とさないように気をつけるといい。
そして私の話になるが、私は砂糖菓子の家を購入する事を諦めて苦い現実の荒野を生きる事を選択した。難しい話ではない。
今考えている最悪のさらにそのどん底を突き破ったような日常を繰り返すだけの話だ。
ありもしないお菓子の家を夢想するよりもずっと有益な話だろう。
朝、起きてから労働時間限界までひたすら働き続ける。
そして何も考えられなくなり、身体が動かなくなったところで私の保有する全ての時間が終わるのだ。
天寿を全うするとはこの事だろう。
この世界に「もしも」という言葉は存在しない。
皆が何かの奴隷なのだ。
彼らの差異は微々たるもので強いて揚げるならば外観くらいだろう。
上等な服を着た奴隷と襤褸を着た奴隷、二者の相違点など存在はしない。
その死に様には貴賤は存在しない。
不満や嫉妬、嫌悪などは愚か者の信仰にすぎない。
自分が奴隷と呼ばれるのが嫌なおのだからだだをこねているだけなのだ。
このようなささやかな抵抗は、いっそ幼稚という他無い。
賢い者を気取りたいならば己の無力を、未熟を、限界を受け入れろ。
歯を食いしばり己の不遇と逆境を受け入れて、運命を見返してやれ。現実を生きるとはそういう事だ。
これが一昨日、あずきバーを食べ過ぎてお腹を壊した時に辿り着いた結論である。
あずきバー、人は一箱食べたら一週間分くらい出たよ。だって暑かったんだもん、プンプン‼