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シンゴ(8)

 椅子の座り心地は悪くないはずなのに、やけに居心地が悪い。生温く淀んだ空気と、自分達に向けられたたくさんの視線が、そうしているに違いない。

「櫻田シンゴ君」

 倉田の横の椅子に座っている白衣の女が、この張り詰めた空気に不似合いな柔らかい声で言った。

 必然的にシンゴの視線がその女に向けられた。

「私はここ、ベースにある研究室に所属している研究員よ。町田ユウコ。よろしくね」

 町田は手元に置いてある紙を幾つも広げながら自己紹介をした。おそらく、何かの資料なのだろう。町田は時折それらを注視している。

「まずは、私からここについての説明をするわ。いいかしら?」

 町田の表情は麻生とは違った、女性特有のいやらしさを孕んでいた。まとわりつくような視線がシンゴの体を撫で回しているようで、余りいい気持ちはしない。

「先に言っておくわ」

 町田は机の上に腕を組み、前のめりになってシンゴを見つめた。有無を言わせぬような、厳しい視線がシンゴを刺す。その瞬間、背筋に妙な悪寒が走った。

「あなたの意見、質問は全て、こちらの説明がある程度終わらない限り受け付けないから。大丈夫、ちゃんとあなたの話を聞く努力はするわよ」

 異質な笑みを浮かべながら、まぁ要するに、と言って町田は一旦言葉を切った。

「話の腰を折るなってこと。分かって頂けたかしら?」

 返答を求められたが、シンゴは変わらずに周囲の人間を睨み付け続け、返事をしようとはしなかった。

「なかなか頑固なのね。可愛いわ」

 町田が魔女のようにいやらしく笑う。

「じゃ、説明を始めるわね」



 長ったらしい説明によると、この国民安全管理部附属の研究所は、新薬の開発をしているらしい。何故そんなことをしているかというと、国民の生命を保全するためである。

 彼等の開発した新薬というのは、平たく言えば、精神安定剤である。

 気持ちを安定させ、気分の落ち込みを防ぐ。それによって、自殺者の数を国が半強制的に抑え込む。いずれ、全国民にこの薬を配布するつもりなのだと言う。

 更にその薬は、人間の脳に抑制されている能力をある程度まで引き出す効能を持っているのだという。そうすることで、疲労などを感じにくくさせ、労働の生産性を向上させ、経済復興のきっかけとしようというのがその新薬の狙いだという。

 この新薬を開発、改良し、全国民に配布する計画を、今NSOの者達は積極的に推し進めているのだという。

 もっとも、政治がほとんど機能していない状態で、そんな危なげな薬を開発していることが国内外に発覚すれば、国内の情勢はますます乱れてしまう。その為、綿密な計画の元に水面下で慎重に進められているプロジェクトなのだ。



「さぁ、櫻田シンゴ君。ここまでで、何か質問はあるかしら?」

 町田は流暢な言葉をもって説明を終えると、シンゴに尋ねた。

「質問ったって……」

「何もないの?」

 町田はすぐにでも次の説明に進んでいってしまいそうな勢いだ。そうなると、もう質問なんて出来ない。シンゴは混乱した頭の中を必死に整理した。

「薬の開発をしてるってことは分かった。でも、それがどうして俺に結び付くのかが分かんねぇ」

 成る程、と皮肉っぽい笑顔で町田は言った。

「私達は、この新薬の臨床試験にふさわしい対象者を常に探し回っている。その担当をしているのが、今日あなた達をここに連れてきた者達よ」

 シンゴは、背後に佇む麻生に目をやった。麻生はその視線に気付いているのかどうか分からないが、一つも表情を変えず、厳しい面持ちのままだ。

「対象者を無作為に選んでいる……まぁ完全にそうというわけではないんだけれど……そうね、ここは担当者に話してもらおうかしら。麻生」

 麻生が歯切れのいい短い返事をした。

「我々、臨床試験対象者探索係は、ある条件の元で、対象者となりうる者をベースに連行するのが任務である。年齢が十歳から二十五歳で、保護者となる者を持たない男女。そして、ある種の疾患を持たない健康体であることを条件とし、それを満たすものの中から対象者を選出している」

 麻生はやはり別人のようなはきはきとした口調で説明し終えると、一礼して一歩下がった。ありがとう、と感情のこもっていない声で町田が言う。

「と、いうわけよ。あなたは選ばれた、としか言いようがないわね。次の説明に進んで構わない? 次は新薬についての詳しい説明をしようと思うのだけれど」

 シンゴは何も言葉を発することが出来なかった。頭の中では、様々な疑問や感情が混沌としている。

 何も、分からない。聞いているだけで、説明されたことについて分かってはいるが、一切のことが理解出来ない。

 体の奥底から沸き立つ言い様もない感情と共に、吐き気がシンゴを襲う。何かが体内から這い出そうとしている。それが何であるか分からないことによる、黒く染められた不安感。

 冷たい汗が、首筋を伝っていく。手の平にも同じ類いの汗が、じんわりと滲み出している。

「櫻田君? 大丈夫? 顔色が悪いわよ」

 町田がテーブルの向こうから、シンゴの顔を覗き込むようにしている。

 その声に反応した麻生は、ゆっくりとシンゴに近付いていった。

 どうした、と麻生が声をかけながら、身体を猫のように丸めて俯いているシンゴのその背中にそっと手を置いた。

「触るな!」

 シンゴの鋭い声が刃物となり、空気を裂いた。振り向きざまに麻生の手を乱暴に振り払うと、ぱしん、と乾いた音が響いた。

 アサカの体が凍り付く。強く目を閉じ、全てを拒絶していた。

「おい、落ち着け」

 麻生はほんの一瞬、狼狽えたようだったがすぐに冷静さを取り戻してみせた。

 ――近寄るな。止めろ。俺に触るな。俺に何をするんだ。汚らわしい。化け物め。止めろ。止めろ。

 頭の中に本来あるべき軸が折れてしまったようだ。ただ、感情が不規則に入り乱れている。

「救護班を呼べ!」

 町田の張り詰めた声が響き渡った。その声と共に、シンゴは膝から崩れ落ちた。




「麻生」

 長い廊下を歩く麻生に、町田が背後から声をかけた。麻生がのんびりとした動作で振り返る。

「おぉ、ユウコさん」

 麻生の表情は、いつもの腑抜けたものに変わっていた。やはり、その表情には人を苛立たせるものを孕んでいるらしく、町田は顔をしかめた。

「おぉ、じゃないわよ」

 全く、と頭を抱えながら呆れたように呟く。

「如何なさいましたか、研究所所長殿」

 改めてそう言った麻生の冷やかすような子供染みた口調を戒めるためか、隣に追いついた町田は彼の肩を小突いた。

「止めなさいよ。あんたの口からそんなこと言われちゃあ寒気がするわ」

 麻生はやんちゃな笑顔を見せた。

 そんなことより、と町田は言葉を次いだ。

「櫻田シンゴは大丈夫なの? あんな様子で、臨床試験に耐えられるとは思えないわ。人選、どう見てもミスってるじゃない」

 ため息混じりに町田は言った。

「俺は知らないよ。探索係とはいえ、要は推薦された奴を拾いに行くだけだからな」

「まぁ確かにそうだけど……それをきっちり審査するのもあんた達の仕事でしょう? しっかり仕事しなさいよ」

 しかめっ面をした町田にそう言われ、麻生は肩をすくめた。

「まぁ今度ばかりは中澤も人選をしくじったってとこじゃないの?」

 町田の叱責を麻生はひらりとかわしてみせる。掴み所のない奴はこうだから困る。

「中澤の動向を管理するのも、上司であるあなたの仕事でしょ?」

 麻生はへらへらとしてはいるが、わざとらしくうんざりしたような表情をしてみせた。はいはい、すいませんねぇと、またも大人気ない素振りで言う。

「とにかく、あの子の監督はあなたに一任するからね。ちゃんと責任取りなさいよ」

 町田は指先をピンと伸ばして、麻生の鼻先に突き付けた。

「はぁ? マジかよ」

「当然よ。それにあんた、あの子のこと気に入ってんでしょ? 活きのいい奴だって、ウキウキしながら帰ってきたくせに」

 図星ではあった。今時あんな風に抵抗してみたりする、血の気の多いタイプの若者は珍しいものだ。

「くそ……分かったよ。所長さんの言うことにゃ、俺達みたいな下々のもんは逆らえませんからねぇ」

 馬鹿と一言、言い放つと町田は歩き始めた。

「とにかく、頼んだからね。万が一何かあったら、しっかり責任取ってもらうからね」

 釘を刺すため、声を少し大きくして言ってから、町田はそのまま去っていた。

 麻生は洗練された美しい女性の肉体を持った町田の後ろ姿を、舌打ちで見送った。

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