シンゴ(6)
シンゴは彼等の前では、赤子同然だった。ただひたすらに自分の無力さを突き付けられ、彼等の言うことに従うしかなかった。
いっそ、殺されてしまえば良かった。彼等に迫られた瞬間、地上に向かって飛んでいってしまえばよかった。でも、それさえも出来ないほど、シンゴはただ無力だった。アサカのことを思うと、そんな思いは全て抑圧されてしまった。自分自身は、生きることなど望んでいないのに――。自分という存在を取り巻く何もかもが、無性に煩わしかった。
マンションの下に停められていた黒塗りの車は、やはり彼等のものだったらしく、同行を認めたシンゴは案の定、それらの車のうちに一つに乗せられた。同行の条件として、アサカも一緒に行くことを約束させたので、アサカも同じ車に乗せられた。
NSOの連中との交渉を終えたシンゴは、彼等が開けるのにてこずっていた鍵を、一連の手慣れた動作で難なく鍵を開けてみせると、あっという間にドアの向こうに吸い込まれるように入っていった。
「ったく、厄介な奴だ」
その様子を見た麻生が軽く笑うようにそう言ったのを、シンゴはドア越しに背中で聞いていた。
アサカはシンゴが思っていた通り、体を小さく折り畳んで震えていた。
彼女は、押入れの中にいた。自分の体が収まる程度に押入れの中身を掻き出してスペースを作り、ただ震えながらシンゴの帰りを待っていた。 シンゴが押入れの扉をそっと開けると、アサカはびくっと体を強張らせて、恐る恐る小さな顔を上げた。そして、目の前にいるシンゴの姿を見ると、火がついたように泣き出した。声の出し方を忘れてしまったアサカの喉からは、湿った吐息が途切れ途切れに漏れ出すだけだった。
シンゴはそんなアサカを優しく抱き締めた。
「ごめんな、怖かっただろ」
シンゴはしばらくの間、アサカの頭を撫でながら泣きじゃくる彼女に謝り続けた。
アサカの様子が落ち着いてきたのを見計らって、シンゴはNSOとの話を彼女にすることにした。
「アサカ、聞いてくれ」
シンゴは努めて穏やかな口調でアサカに語りかけた。自分自身、冷静になるのが難しい状態ではあったが、アサカに不安な思いをさせるわけにはいかない。心の中で何度も繰り返し落ち着けと、アサカに言うよりも自分に言い聞かせた。
アサカはシンゴの声に反応して、ゆっくりと顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになっている頬をそっと拭いながら、シンゴは言う。
「もう、ここを出て行かないといけないんだ。外にいる人達は、それを話に来てたみたいなんだ」
アサカは不思議そうに首を傾げて、それから何処か寂しそうな、不安げな表情をみせた。
「大丈夫だよ。心配要らない。偉い人達が住むところも食べ物も与えてくれるんだってさ。それに、兄ちゃんがずっと側にいるから。アサカは……何も心配しなくていいんだ。な?」
シンゴの思いが伝わったのか、アサカは落ち着いた様子で話を聞いていた。そして、静かに頷いてみせた。シンゴはそんなアサカ
を見て、安心しないはずがなかった。けれど、シンゴの頭の中には、麻生の憎たらしい笑みが焼き付いて離れないままだ。
「じゃあ、大事なものだけ持って行くから。支度しろ」
シンゴはアサカの小さな頭のてっぺんに、軽く手をぽんと置いた。
それと同時にシンゴが立ち上がると、アサカもゆっくりと立ち上がった。
扉を叩く音が聞こえる。
「おーい、早くしろよー。待ってんだからなー」と、麻生のぼやく声がシンゴの耳に届く。その音を聞いたアサカは再び身を強張らせた。
シンゴについて歩き出そうとしていたが、物騒な物音と威嚇しているかのような麻生の声にすっかり畏縮してしまい、動けなくなってしまっている。
「大丈夫。気にしなくていい」
シンゴは再び優しくアサカの頭を撫でた。自分の腰辺りまでしかない身の丈の彼女を、守らなければならない。シンゴを動かしているのは、その使命感だけだった。
ようやく動き出したアサカに身支度を進めるように告げると、シンゴは玄関に向かった。
ドアをほんの少しだけ開けて、シンゴはその向こう側にいる連中に言った。
「今、家を空ける準備をしてるとこだ。もう少し待っててくれ。妹が怯えるから、静かに頼む」
ドアの隙間から麻生の姿は見えなかった。黒いスーツの男達は、シンゴの言葉に静かに頷いて同意した。
ここから出て行けば、何かが変わるのかもしれない。今までも何度かそう思ってこの家を出ようとしたことはあった。
母親が宵闇に紛れて飛び立ち、父親と弟が朝もやと共に消えていったこの部屋は、シンゴにとっても、アサカにとっても、喪失と空虚の象徴のようなものだった。
醜い現実から逃げ出したいに衝動を抑え、身を削りながら生きてきた。壊れた人形のようなアサカを守って。
最低限の家具しかない、殺風景な部屋。その中で過ごしていた過去を、シンゴはこれから携えていくつもりはなかった。
全てをここに置き去りにしよう。記憶も、黒い感情も、全て。
そんなことを考えながら、かつては家族団欒の場であったリビングの真ん中に立って家の中を眺めていた。
シンゴの視界の中にいるアサカは、いそいそと身支度を進めていた。一体、ここにある何を持って行くというのだろう。
アサカはボロボロの小さな鞄にゆっくりとした動作で、何かを詰め込んでいた。
シンゴは彼女が何を持っていこうとしているのかが気になり、近付いていった。シンゴが傍にやってきても、アサカは手を止めない。
「何を持ってくんだ?」
そう言って、シンゴは鞄の中を覗き込んだ。
鞄の中には、見覚えのあるものが詰め込まれていた。いや、見覚えがある、なんてものじゃない。シンゴはそれらを見飽きる程にまで、目にしたことがあった。
かつての家族の形見の数々が、鞄の中に入っていた。
弟のカズキのお気に入りのミニカー。塗装は剥がれ、タイヤは取れてしまっていた。それでもカズキは、いつもそれを握り締めていた。
たくさんのものが詰め込まれた鞄の中身の、一番上にそれはあった。
その下にある、ベロア仕立ての細長い箱。この中には、母親が父親からもらった唯一の贈り物であるネックレスが入っているのだ。いつか、母親がシンゴ達に思い出話をしたときに、一番の宝物だと言って見せてくれた。
その時の母親の幸せそうな温かい表情を、シンゴは思い出した。
まさか、アサカがそれを覚えていたなんて。
そして、アサカの鞄の中には少し大きい写真立てが半ば無理矢理入れられていた。その写真立てに入れられている写真がどんなものなのか、シンゴはよく知っていた。
カズキが生まれた時に撮った、家族写真だ。父親が同僚にカメラを貸してもらい、近くの公園で撮った。桜が咲き誇っている、春のことだった。
この頃はまだ、皆で力を合わせて生きていこうと誓い合って、貧しいながらも幸せに過ごしていた。
――今は、シンゴとアサカしかいない。
不意に、目頭が火を灯されたように熱くなった。シンゴはアサカの隣でしゃがみこんだまま、頭を抱えた。こめかみを指で押さえ、溢れそうな涙をこらえる。
どうして、こんなにも泣き出してしまいたいんだろう――。分からない。
アサカの小さな手が、そっと頭に触れるのを微かに感じた。
車に乗ってからずっと、アサカは手に目一杯の力を込めてシンゴの腕にしがみついていた。
シンゴは固く握りしめられたアサカの小さな手に、ただそっと手を重ねていた。
車の助手席には、麻生が座っていた。
シートに深く座り、頭の後ろで手を組んでいるその姿からは、怠惰しか感じられない。
どうしてこんな男が政府組織にいるのかという疑問を感じずにはいられない。
「そう言えば、何処に向かってんのかってのをまだちゃんと言ってなかったな」
唐突に麻生が言った。語尾を伸ばす、うざったい口調。
シンゴは麻生の次の言葉を黙って待っている。
麻生は後部座席に座るシンゴを一瞥すると、車のカーナビを弄くり始めた。もっとも、その機材はカーナビのように見えるだけで、実際は何か違うものなのかもしれないが。
「ここからあと一時間くらいで目的地に到着する。俺達、NSOの活動拠点、通称ベースという施設だ」
カーナビの液晶に、病院のような大きな建物が映し出された。
「俺達もここで生活している。お前達にも、しばらくはここで生活してもらうことになる」
「しばらく? どういうことだ。俺達の生活は保障されるって言ったじゃないか」
麻生の何気ない言い回しがシンゴの頭に引っかかった。思わず前のめりになり、低い声で口を挟む。
「あぁ、心配すんなって。保障はするよ。それに間違いはない。俺達の管轄下にある、この施設以外の居住地に住んでもらうことになるんだよ」
そんなかっかすんなよ、と麻生はまたも軽い口調で言い放った。その口振りがシンゴの神経を逆撫でする。
「お前達は、そこで何をしてるんだ?」
シンゴが険しい面持ちで尋ねる。カーナビを操作している麻生と、バックミラー越しに目があった。
「それは着いてから詳しく説明するよ。話が長くなるからな」
麻生は真剣さの欠片も見えない表情で言った。
「でも、まだ何も聞いてない。このままどっかに売り飛ばされることもあり得るだろ。何と言われようが、何も信用ならねぇよ」
シンゴがそう言うと、腕を握り締めているアサカの手に一層力がこもった。彼女の表情を覗き見ると、やはり不安の色を見せている。シンゴはアサカの手を強く握り返した。
運転手が麻生に目配せをしているのが、シンゴからも窺えた。「しょーがねぇ奴だなぁ」と、麻生が小さな掠れた声でぼやく。
「俺達は国民安全管理部の名の通り、国民の生命の保全のために活動してる。これでもな」
麻生がスーツのポケットから煙草を取り出す。それを見た運転手が大きなため息をつく。やはり麻生はそれを気にしない。
「特にお前のような若者を対象として活動してる。お前らはこの国の未来を担ってるんだからな」
「この国に未来なんてないだろ」
そう言ったシンゴを、運転手がバックミラー越しに睨み付けた。
麻生は煙草の煙と共に高らかな笑い声を吐き出し、「仰る通りだ」と言った。
運転手の視線が、シンゴの黒い瞳から横に座る男に移った。
「でもな、俺達の研究室のおかげで、この国にも未来が見えてきたんだよ。お前が、それを証明することになる」
相変わらず、麻生の話の内容からは何も見えてこない。それがシンゴとアサカを不安にさせるのは、言うまでもない。
「ま、ベースに着いたら嫌って程、長ったらしい話を延々と聞かされることになるさ」
煙草の煙が車内に充満している。煙草をふかしている張本人である麻生でさえ、その煙が気になったのか、車の窓を少し開けた。
秋の始まりを思わせるひんやりとした風が、シンゴの頬をかすめた。
「君達、何も食べていないんだろう? さっき君が持っていた食糧を回収しておいた。トランクに載せてあるから、食べておけ」
運転手がそう言ったのを聞いたシンゴは、首を捻って後方のトランクを覗き込んだ。
確かに、缶詰が無造作に転がっている。シンゴは手を伸ばして、トランクからチョコレートを手に取った。
「ほら、アサカ。チョコレートだぞ」
そう言って、アサカに小さな袋を手渡す。
アサカは一瞬だけ、少し困惑したような表情をしてみせた。
全く感情を表に出さないアサカの、微妙な表情の変化を見極めることが出来るのは、シンゴだけだ。
チョコレートを手に取ると、ほんの少しだけ、嬉しそうに見えた。シンゴは、柔らかく微笑む。シンゴの中に隠れたこの表情を引き出すことが出来るのもまた、アサカだけだ。
パリッと小気味のいい音を立てて、袋が開かれた。その中から、甘い香りが立ち上る。
「お、チョコレートか? そんないいもん、よく見つけてきたな。俺も長いこと食ってないぞ」
甘い匂いに反応した麻生が、体を捻って助手席から顔を覗かせた。「いいなぁ」なんて、大人気ないことを口走っている。
麻生の言うことに耳を貸さずに、アサカはチョコレートを口に運んだ。
アサカは少し目を細めて、口腔に広がる甘さを噛み締めていた。