ワタル 2(9)
「まず、俺がいた組織のことを話すか。長くなるが、我慢して聞いてくれ」
そう前置きをしてから、麻生は終始落ち着いた口振りで話し始めた。
「お前ら、NSOって組織は知ってるか? 普通の国民でも、ある程度は知ってると思うんだが」
「知ってるには知ってるけど……何をしてる組織なのかまでは知らないわ。ていうか、今のこの国で、まともに機能してる国家組織があるとは思えないけど」
「やっぱり皆そう思ってるんだな。シンゴも最初、似たようなことを言ってたぜ。
俺はそのNSO――国民健康管理部直属の組織に所属してたんだ。詳しく言うと、その中の臨床試験対象者探索係管理官を任命されていた。言わば、探索係のトップの一人ってところだ。なかなかいい身分だったんだぜ、これでもな」
「待て待て、話が飛躍しすぎてついていけないんだけど」
右手を差し出して、ワタルが待ったをかける。さすがのリサも些か混乱しているようで、ワタルの隣で小さく頷いている。
「臨床試験、とか言ったけど……何かの研究でもしてたの?」
「その通り。表では全く活動してなかったからな。NSOの連中が、いつも昼寝でもしてるんじゃないかと思われても仕方ない。と言うより、俺達としては国民がそう思ってくれてるほうが有り難かったんだがな」
「一体、何の研究を?」
ワタルが不安げに訊ねる。
「薬だ」
麻生がただ一言、言い放つ。瞬間、話を聞く二人の顔から、さっと血の気が引いた。
「薬って……。どうして国家をあげて薬の研究を? そういう企業に任せればいいんじゃないのか?」
そのとき、リサの脳裏に一つの推測が浮かんだ。
「国家がそんなことをするってことは、よほど大きな目的がある……とか?」
「まぁそんなところだ。NSOは、薬が完成すれば、それを全国民に配布する計画を立てていた。通称、M135と言われてる薬だ」
「何でそんなことをする必要があるんだ? 薬なんか……別に感染症か何かが流行ってるわけでもないのに」
麻生はワタルが投げかける疑問の嵐の中、冷たい瞳で空を見つめていた。何処か悲しげでありながら、全てを捨て去ったかのような冷酷な瞳でもあった。一見した顔の印象は相変わらず飄々としていて明るいもののようにも思えるが、その瞳の奥を見れば、その表情が仮面であることが容易に察することが出来る。
「五万七二〇〇」
「は?」唐突に、ある数字を言う麻生。彼が何を言いたいのかが全く読み取れず、ワタルとリサは揃って間の抜けた声を上げた。
「何の数字だか、情報から隔絶された狭い世界で生きてるお前らには分からないだろうな。――五万七二〇〇ってのはな、日本でのここ十年間における自殺者数の平均値だ。もっと捉えやすくして言うと、たった一日で約一五〇人の日本人が自ら命を絶ってるってことだ。……って言ったところで実感なんかわかねえだろうけどな。
今の日本の人口が一億二千弱。はっきりした実際の数字は分からん。戸籍がある奴がベースになってるが、その中でも届出を出してない奴らが大勢いるからな。まあそんなところだろうっていう推測の数字だ。その中で、年間五万七二〇〇人が自殺してる。つまり、約二百人に一人が自殺してる計算になる。それが十年だ。てことは単純に考えて、自分の身の回りの人間が一人、この十年間で自殺しててもおかしくない。そういう数字だ。実際、お前らの周りにもいるんじゃねえか? そうやって、自分で生きることを諦めてしまった人間が……」
麻生が淡々と数値的見解を述べていく中、リサの鼓動はどんどんと速まっていっていた。
――リサ、辛い思いをさせて、ごめんね。でもね、お母さん達はもう……。あなただけは、どうか……。
容赦なく胸を締め付けてくる、残酷な記憶。捨て去ったはずの、過去。
思わず、胸を押さえつけると同時に、口元に手を当てる。体内からせり上がって来る吐き気に耐えるため、きつく目を閉じる。息が止まりそうになる。死の幻が眼前に浮かぶような思いがして、恐怖に身を震わせる。
「リサ、大丈夫か?」
――その声を合図にして、ようやく気道が空気を取り込むことを思い出した。リサにとってワタルは、生きる希望となっているのだ。彼の存在のおかげで、彼女は生きていられる。実際にそんなロマンチックな作用があるわけではないが、そう思うことで実際、彼女は今日まで彼に幾度も救われてきた。
「大丈夫。ごめん、ありがとう」
力のない声で呟く。覇気はないものの、その表情と仕草からは安堵感が窺える。