シンゴ(4)
シンゴは黙ったままで、公園を、グループを去っていった。ワタルは最後までシンゴとシュウジの二人を説得し続けていた。自分の言葉ならば、きっと二人の心に届くはずだと信じて。
しかし、二人はもうすでに心に固く決めてしまっていたのだろう。ワタルの言うことには、一つも同意しないままだった。涙ながらに大きな声で語りかけているワタルの姿は、もはや痛々しくも見えた。
シンゴは最後まで、ワタルの目を見ることが出来なかった。ここを去っていく決意が鈍ってしまいそうだったからだ。親友、一番信頼していた彼には、これ以上辛い思いをさせたくはなかった。
自分は、一刻も早くこの場所を離れなければならないと、シンゴは自分に言い聞かせていた。自分がここにいることで、皆に迷惑がかかってしまうのだと思わなければ、誰がここを去ろうなどと思うものか。
日はまだ高い。シンゴは突き抜けるように高い空を見上げた。陽射しは夏に比べれば幾分か柔らかくはなっていたが、それでもシンゴの網膜を突き刺すような鋭さを備えていた。思わず倒れてしまいそうになる。いや、本当は倒れてしまいたかったのかもしれない。
ずっと仲間でいられるなんて、甘いことを考えていたわけではない。それでも、なるべく長い時間を共にしていきたいと願っていた。実際、本当に居心地が良かったのだ。
グループの全員に信を置いていた。食べ物を手に入れることが出来る。確かにそんな考えはないわけでもなかった。こんな生きづらい世の中で、自分が生き抜くのにも精一杯なのに。自分の身を守ることで精一杯なのに。
両親が残していった、アサカという存在。シンゴはその存在に生かされてきた反面、確実に苦しめられてもいたのだ。
――もういっそ、このまま帰らないで、消えてしまいたいな。
そんなことを考えてはいても、自分の足はしっかりと地を踏みしめており、アサカの待つ自宅へと向かっているのだった。ただ生き続けることしか出来ない自分が情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、涙も出ない。自分の姿が余りにも滑稽で、笑える。
シュウジからもらった荷物がやけに重い。こんなもの、一体何の為になるんだろうか。生きていても仕方ないのに。アサカは喜ぶだろうか。せめて彼女が笑顔を見せて喜んでくれればいいのに。
自分の願望など、全て虚しいものでしかない。
家に着くまでに相当時間をかけたつもりだったが、気付くともうマンションの下にまで来ていた。思い通りにならないのが、憂鬱に思えて仕方ない。
自宅のある十一階に上がる前、シンゴはあることに違和感を持った。
いつもはがらんとして殺風景というに余りにも相応しい光景であるマンションの下の道路に、珍しく何台かの車が停まっていたからだ。
どの車も真っ黒で、窓ガラスにまで黒いシートが貼っており、何処からどう見ても怪しい集団であった。ナンバープレートを見て、番号を覚える。いざという時の為だ。警察など頼りになりはしないが、情報がないよりはあったほうがいい。
そして、否応なしに嫌な予感がシンゴの脳裏をよぎる。まさかとは思うが、万が一のことがあったら……。
早く、自宅に向かって、アサカの安否を確認する必要がある。シンゴは重い荷物を落とさないようにしながら、器用に小走りで駆けていった。
さすがに十一階まで階段で上がっていくのは体力的な負担が大きすぎる。のんびりと昇降を繰り返すエレベーターを、こんなにも憎く思えたことはない。 急がないと。アサカに万が一のことがあったら。
シンゴの頭の中に浮かんでくるのは、最悪の状況ばかりだった。
一生懸命、アサカがいつも通り部屋で待っている情景を思い浮かべようとしても、無駄だった。何故だが分からない。妙に嫌な予感がするのだ。
エレベーターに乗り込み、十一階のボタンを肘で押した。今はアサカのことで頭が一杯で、荷物の重みなど気にならなかった。
しかし、シンゴの心の中には、アサカの安否を気遣う思いとは正反対のものが蠢いていた。
アサカがいなくなってしまっていればいいのに。そうすれば、俺は楽になれる。
ざわざわと木の葉の下にたくさんの虫がひしめきあっているような、そんな気持ちの悪い感覚だった。けれど、その感覚から逃れようとすればするほど、気持ち悪さは強くなっていく。――ただ、耐えるしかない。
エレベーターが十一階に到達し、安っぽい電子音と共にゆっくりと扉が開いた。それとほぼ同時に、シンゴは飛び出した。
そして、一つの非日常的な光景がシンゴの目に飛び込んできた。
吹きさらしになった長い廊下。そこに、黒い塊がある。黒いスーツを着た、得体の知れない者達がある一室の前に集まっている。
そこは――。
「お前ら、何してやがる!」
シンゴは咄嗟に叫ばずにはいられなかった。その集団がいるのは、シンゴが生活を営む部屋の前だったからだ。
シンゴの声を合図としたかのように、カラスを思わせる奴らが、一斉にシンゴの方を見た。
全員がサングラスをかけている。その奥に隠された瞳にシンゴを捉えたかと思うと、最もシンゴに近い者の何人かが廊下の端に佇む彼の方へ歩み寄ってきた。
シンゴは彼等が動いたのを確認したと同時に、両手いっぱいに抱えていた荷物を投げ捨てて走り出した。缶詰が固い金属音と共にあちらこちらに転がる。
シンゴの体力は最早、限界に近かった。歩くのにも精一杯だった。しかし今は、体のことを考慮している余裕はない。
言葉にならない声をあげ、黒いスーツの男に掴みかかった。
「お前ら、何してんだ! アサカに……アサカに何するつもりだ!」
シンゴの頭の中には、アサカが得体の知れない訪問者達に怯え、部屋の片隅で小さくなって震えている姿が浮かんでいた。その姿がシンゴを動かしていた。
「アサカ……?」
「櫻田シンゴの妹だ」
黒いスーツの男達がシンゴの目の前で、小さな声で話し合っている。
「どうして俺達のことを……」
無我夢中だったシンゴは、彼等が自分達の名前を知っていることで冷静にならざるを得なかった。胸ぐらを掴んだ手の力がふっと抜けた。いや、冷静になったというよりかは、怖気づいたと言った方が正しいだろう。
こいつら、只者じゃない。
男から手を離し、さっと身を引いて間合いを取る。
男は乱された襟元をただしながら、一つ咳払いをした。
「君は、櫻田シンゴくんだね?」
シンゴは返事をせずに、拳を握りしめながら目の前の数人を睨み付けた。とても冷静に話を聞ける状態でないことが、そこにいる全員に分かった。
「とにかく、落ち着いてくれ。我々は君や君の妹さんに危害を加えるつもりはない」
分かってくれるかい、と男はあくまでも穏やかな口調をもって、シンゴを諭そうとした。
それを聞いたシンゴは吐き捨てるように笑ってみせた。
「そんなこと信じられるかよ。お前ら、何もんだ」
相手の穏やかな態度を見て、知らず知らずのうちに、頭に上っていた血も徐々に下がっていっていた。胸中は未だ怒りに満たされていたが。
「済まない。申し遅れたね」
「早く名乗れ。何もんだ」
シンゴの足はがくがくと震えていた。隠しきれていないのをシンゴは気付いていたが、それを威勢で隠そうとした。男はそんなシンゴの様子を見て、小さくため息をついてから一層柔らかい口調で話した。
「我々は政府のものだ。国民安全管理部に所属するものだが……聞いたことはあるかな?」
聞いたことはあった。名ばかりで、何の機能も果たしていない政府組織のうちの一つだ。国民の安全など、決して守られていないのだから。
「政府の奴らが何の用だ」
「本当に俺達はよほど信用されてないんだな」
シンゴの元にやってきた何人かの背後から、一人の男がこちらに近付きながら呟いた。
「おい、麻生」
シンゴの目の前に立って話していた男が、近付いてくる男の方を振り返りながら言った。
麻生というらしい男はサングラスをしてはいるが、その声と佇まいから、二十歳ぐらいの若い男性であることが見て取れた。いさめるような男の声に、両手を挙げて、やれやれというような素振りをしてみせた。ふざけた奴だと、シンゴは心の中で毒づいた。
麻生はシンゴの周りに群がるように集まっている男達を半ば押しのけるようにして、最前列、シンゴの前に立った。
シンゴは咄嗟に身構えた。麻生は舐めるようにシンゴの足元から顔へと視線を動かした。骨董品を品定めしている鑑定士のような目付きだ。そして、ふむ、とわざとらしく言うと、続いて馬鹿にしているような声で言った。
「なかなかいい目してるじゃん。いいね」
「馬鹿にしてんのか」
シンゴは声を荒げて言った。いちいち癪に障る奴だ。気が立ったままのシンゴにとって、麻生のその声と言葉は侮辱以外の何にも捉えがたいものだった。
「まぁ落ち着けって。さっきから何度も言われてんだろ?」
さっきまでシンゴに話しかけていた男が、二人のその様子を見兼ねてか、麻生の名を呼んだ。すると麻生はまた、うんざりしたような表情をしてみせた。
「まぁいいや。俺から説明するよ」
麻生はそう言ってサングラスを外した。「うおっ、眩し」と小さな声で呟き、目を細めてシンゴを見た。サングラスに隠されていた目は、やはりふざけたものに見えた。切れ長の細目だ。しかし、その瞳の奥に隠された感情を覚ることを許さない、鋭さを秘めている。シンゴは踵をほんの少し後ろに移動させ、更に間合いを取ろうとした。麻生の目が、その行動を命じたようだった。
「櫻田シンゴくん。君は政府、我々から選ばれたんだよ」