ツヨシ(13)
深い深い、眠りだった。
それはまさに、死という無に限りなく近いものだった。
何も見えず、何も聞こえないのは当然のことながら、何かが浮かんできたり、過ぎったり、ちらつくことすらない。
そんな深淵の世界に、麻生ツヨシはいた。
その世界に辿りつく前にはまた別の、もう少し浅いところにある世界にいたのかもしれない。
しかし彼はその世界でも、佇むことしか出来なかった。否、それしかしなかった。時に何かを考え、感じることもあったのかもしれない。けれど、彼はそれさえも放棄したのだ。故に、深淵の世界に招かれた。
もう、元の場所に帰ることはないだろう。自然と、そんな風に思っていた。しかし、元の場所って……何処だったっけ?
――いつか見た光景だった。
地面がやたらと近い。麻生は路面にへばりつくようにして倒れこんでいた。一体いつからこうしているのか、どうしてこんな風になってしまったのか、何もかもが分からない。
起き上がろうとしたが、頭の中で鐘が鳴らされているのかと思うほど頭が痛み、思わずうずくまってしまった。とてもじゃないが起き上がれない。それだけではなく、全身のあらゆるところがズキズキと疼く。
そう言えば、自分は以前にもこんな風にして倒れていたことがあったように思う。
ふと、その激しい頭痛が引き金となり、彼は回顧した。
そして、俺がこんな風に倒れていると、確か――
「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」
――あれは……ヤスだったか……。麻生は、古い友人のことを思い出した。けれど、今ここにいるのはあいつではないはずだ。いくらあいつでも、今更俺の前にこんな風に姿を現すはずがない。俺はあいつの前から急にいなくなったんだ。俺がこんな風に倒れていたところで、彼には関係ない。勿論、俺だってあいつがその後どうしていたのかなんて知るはずがないのだから。
じゃあ、今こうして俺を起こそうとしているのは、誰なんだ?
麻生はゆっくりと瞳を開け、その目に光を受け止めた。何日ぶりの光なのだろう。それが太陽の光なのか、電灯なのかは分からないが、麻生にはその光がやけに眩しく、白く感じられた。
「良かった、意識はあるのか。大丈夫か?」
「何だ、お前……」
ぼそぼそと呟くようにして、麻生は言った。すると、麻生と比較すると随分幼く見える少年は、幾らかむっとした表情を浮かべた。
彼の背後には、その少年よりも大人っぽい佇まいの少女がいる。彼女は終始、心配そうな面持ちで麻生の方を見ていた。しかし麻生が思うに、それは恐らく、声をかけてきた少年の方に向けられた感情なのだろう。
「何だお前って……せっかく助けようとしてんのに、それはないだろ」
「助けたって、何も出せないぞ。見りゃ分かるだろ」
麻生がそう言うと、少年は一瞬だけ顔を強張らせた。恐らく、図星だったのだろう。かつて、そんな風にして他人の物を拝借しながら生活をしていた麻生には、同じであろう少年や少女の心情が手に取るように理解することが出来た。
実際、麻生の身なりは酷いものだった。元は糊の利いていた黒い背広も、今では所々ほつれて土ぼこりで薄汚れている。長髪だった頭も乱れてボサボサ、顔も痩せて骨張っている。どう見ても、何か財産を持っているようには見えなかった。
それなのに、この少年は麻生に声をかけてきた。不可思議な事象ではある。
「そりゃ……あんたが何も持ってなさそうだってのは、一目見れば分かるよ。でも、何にも持ってなくて死にかけてる人間を放っておくのは、俺には出来ないんだよ。特にあんたみたいな、俺達の仲間みたいな奴はな」
どうやらこの少年の中には、麻生には理解のし難い新年のようなものがあるらしい。世が世なら、相当な好青年に育つ素質を持っているに違いない。全くもったいない。
「そうか……そりゃ、ありがたいことだな」
麻生は礼とも取れる言葉を口にし、ゆっくりと膝に手をついて立ち上がろうとした。
「おい、無理するなよ」
そう言って少年は麻生の肩に手を伸ばし、しっかりとした手付きでふらつく麻生の身体を支えてみせた。事実、少年の手助けがなければ麻生はそのまま前のめりに倒れ込んでしまっていただろう。
そんな麻生の様子を見かねた少年は、大きくため息をつくと穏やかな口振りで言った。
「とりあえず、何か食べなきゃどうにもなんねぇだろ。俺達の生活もそんなに楽なわけじゃないが……まぁあんたが一時しのぎを出来るぐらいの食糧ならどうにかなる」
だから、自分達の住んでいるところに連れていってやると、少年は言い出した。俺達ということは、いつも彼の隣に寄り添うようにしている少女も、一緒に暮らしているのだろう。
こうして意識を取り戻してしまった以上、このままのたれ死んでしまうのは惜しいように思えた。それに、この少年には何かの縁もあるのだろう。悩みはしたものの、麻生は少年達についていくことにした。
「あんた、名前は何て言うんだ? 俺はワタル。柴田ワタルだ。こっちは俺と一緒に暮らしてる、皆藤リサ」
――柴田、ワタル?
まだ少し朦朧としている意識の中で、麻生はその名前が妙に引っかかった。穏やかな水面に、石が投げ込まれたような。麻生の意識の中に静かに波紋が広がる。
何処かで聞いた覚えがある。しかし、何故だ? 一体俺はこの名前を何処で耳にした? ――目にした?
「俺は麻生だ。麻生ツヨシ。因みにお前等よりは年上だが、特別にタメ口で話すことを許してやる」
麻生も、軽口を叩ける程には意識が回復してきたようだ。呂律もそれなりに回る。
最初は異様な雰囲気だった一同も、徐々に打ち解けていった。そして、ワタルは自身の暮らしぶりを麻生に話した。




