ツヨシ(6)
いつの間にか眠っていたらしい。あの女がさっき言っていたように、身体がだるい。何かしら悪夢を見ていたのだろうか、全身が汗でじっとりと湿っているのが分かる。額にも脂汗が浮かんでいる。髪がくっついているのが不快だ。
俺はその不快感が悪夢ではないことを、間もなく身をもって痛感した。
――足が痛い。
燃えるような痛みではなくなり、我慢できない程のものではないが、切り裂かれるような、何本もの釘や刃物でぐりぐりとえぐられているような、そんな鋭い痛みが俺の左足を襲っている。
「うう……」
思わずベッドの上で身悶えし、呻き声がもれた。情けない。こんなところを、あの女に見られなくて良かったと、密かに安堵した。
声をあげたところで、痛みには何の変化もない。それなのに、少し気が楽になるのはどうしてなのだろうか。
痛みはともかく、何だかんだ言っても、頭の方はさっきよりも冴えているように感じた。思考力が取り戻されている。身体も、さっき女と会話した時よりも融通が利く。
改めて、部屋の中を見回してみる。さっきはそんな余裕がなかった。見ることが出来たのは、辛うじて女の表情だけだ。というよりも、あれはむしろ目を奪われていたと言った方が正しいのかもしれない。見るものを魅了する、妙な魅力があいつにはあるように感じた。余り女に接する機会がないから、そのように感じたのだろうか。確かにそうかもしれないが、決してそれだけではないようにも思える。
部屋は、あの町田邸の中にあるとは思えないほど、異様だった。
俺が眠っているベッド以外には、ほとんど何もない。一般家庭の一室であるようにはとても思えない様相だった。
俺が横たわっているベッド。部屋の片隅にはあろうことか、洋式便器が取り付けられている。窓はない。壁と天井はコンクリートの打ちっぱなしで、冷ややかな印象を受ける。まるで、あの女の瞳のようだ。
首をひねってみると、ベッドの脇には、各引き出しに鍵がつけられた戸棚があるのが見えた。一体何が入っているのだろうか。その上には、さっき女がいじっていた機械が置いてある。相変わらず俺の腕やら胸元やらに管が取り付けられている。何のための機械なのか、俺には全く想像することも出来ない。
管に繋がれているのは予想以上に不愉快なものだったので、取り払ってやろうかとも思った。しかし、こんなに大仰な機械に繋がれているものなので、取り返しのつかないことになって、後でまたとやかく言われるのも面倒だ。とりあえず横になっている分には支障がないので、そのままにしておくか。
ベッドの脇にあるのは、それだけではなかった。見るからに手足を縛りつけるためにあるようなベルトが、ベッドから伸びていた。
本当にここは、あのどう見ても平和そうな外見をしていた町田邸の中なのだろうか。どうしてこんな部屋があるのだろうか。物騒極まりない。
もう何もかも、わけが分からない。考えても仕方がないようなことなのに。それなのに考えなければ気が済まないから、余計に腹立たしさを感じる。
一体、どういうことなんだ?
そう思っていた矢先、部屋の外から微かに足音が聞こえてきた。間違いない。あの女だ。
ここで大人しく寝ていていいのか? 咄嗟にそう思った。
再び優位に立つ必要があるのではないだろうか。何故俺をこんな目に遭わせ、こんな部屋に閉じ込めているのかをあいつに問い詰めなければ、俺はとても満足することが出来ない。いや、例えその理由が分かったところで俺の不満が解消されることはないのだろうが。何だかイライラしてきた。何とかあの女を組み伏せて、色々と聞き出さなければ。
そう思い、俺はゆっくりと静かに起き上がった。
立ち上がると、少し目眩がしたと共に、左足に激痛が走った。思わず片手をベッドに付き、ふらついた身体を支える。
なるべく左足に体重をかけないようにしたつもりだったが、立つということだけで予想以上に体重がかかるようだ。痛い。……いや、しかし我慢できる。大丈夫だ。
異常なまでに痛む左足を引きずるようにして、女が入ってくるであろうドアの方に近付いていく。そうしている間に、ドアの向こうから聞こえてくる足音も徐々に大きくなってきている。もうすぐ近くまで来ているようだ。
ドアの脇の壁にもたれかかり、女がその扉を開く瞬間を待ち受ける。足の痛みに耐えながら、足音に意識を集中させる。
そして、俺の目はそのドアがゆっくりと開かれるのを捉えた。
もつれ合い、女の短い悲鳴が聞こえた次の瞬間には俺はすでに、体勢的には優位な位置にいた。
「ちょっと! 何するのよ! 離しなさい!」
俺はまさに女を押し倒すような姿勢になっていた。必死に身をよじって何とか逃れようとする女の身体の上に跨り、全体重を両腕にこめ、女のか細い手首を押さえつけた。
嫌々をするように頭を振り乱し、足をばたつかせている女の長い髪が幽霊のように乱れている。前髪が落ち、女の白い額が露わになると同時に、その表情が俺の目に飛び込んできた。
俺は思わずその顔を見ることを避けてしまった。いや、俺はそのことから逃げた。
俺は今、こいつの顔を見たら何も出来なくなる。直感的に俺はそう感じた。
きっと、この瞳に魅入られてしまう。その瞬間に隙が出来る。そしてこいつはきっと、その隙を見逃さないだろう。
「銃を寄越せ」
俺は静かに呟いた。何処を見るでもなく、女の顔がある辺りをぼんやりと見つめながら。ただ、それでも俺の言葉を聞いた女がどんな表情をしているのかを、やはり俺は何故だか分かってしまった。
しかし、その表情がどんな感情を表すものなのかが分からなかった。
俺の中にはない、俺の全く知らない新しい感情なのか。それとも、あらゆる感情が重なり合ったものなのか。どちらにしても、俺の中にはそんな複雑な感情は存在していないと、俺は思う。
この女は、少なからず俺の知らないものを持っている。そんな気がしてならなかった。
「持ってるんだろ? 早く寄越せ」
俺は出来る限り相手を威嚇しようと、低い声で言った。そんなことで怯えたりするような人間ではないかもしれないが。
「銃を渡したところで何になるっていうの。馬鹿ね。もしあなたが銃を手にしたとしても、私が有利なのは変わらないわ。絶対にね」
俺の下にいる女は、驚くほど冷静だった。声は凛と透き通り、その瞳には強い意思が見えた。恐らく、嘘を言っているわけではないのであろうことが、その瞳の色から窺えた。それに、妙な自信を感じる。不意に、その威圧感に圧されそうになる。
「どういうことだ?」俺はそう訊ねずにはいられなかった。すると、俺を嘲笑うようにして女は唇を開いた。そして、小さく吐息混じりに「本当に馬鹿なのね。呆れた」と、呟いた。腹が立ってもおかしくない発言だし、いつもの俺ならば間違いなく怒り、拳をぶつけていただろう。しかし、そうすることは出来なかった。女のその強い瞳ゆえに。
「ここは私の家なのよ? 私のテリトリーなの。今あなたは、自分が置かれている状況すら理解していないでしょう? 全てを把握して、それを操っている私に、あなたが勝てるわけないじゃないの」
女は飽くまでも静かに言う。俺を静かに嘲笑う。その様子は何処か神秘的なようにさえ思えた。
「そんなこと……やってみなきゃわかんねーだろ! いいから寄越せ!」
俺は必死に隠そうとした。己の不安を。己の弱さを。油断した途端に、この女は俺の全てを見透かし、全てを崩壊させる。そんな焦燥感があった。
「……分かったわよ。じゃあとりあえず手を離しなさい。何もしないから」
「何処に隠してるのか教えろ。俺が取る。お前は何もするんじゃねぇ」
先に銃を手にされれば、事態がどうなるか分からない。今の有利な体勢を一気に覆されかねない。それだけは避けなければ。
女は溜め息をついた。
「意外と用心深いのね。分かったわ。あなたの言う通りにしてあげようじゃないの」
そう言って女は、ベッドの脇にある棚の中に銃が置いてあるということを告げた。そして、ズボンのポケットの中から鍵の束を取り出し、「これがその棚の鍵よ」と、一つの小さな鍵を指した。
心臓が高鳴っている。それがどうしてなのか、俺には分かっていた。
俺は、銃を手にした事がない。扱い方など、知るはずもなかった。辛うじてその存在を知っている程度だ。
しかし、そんなことをこの女に悟られるわけにはいかない。この女は俺のことを知らない。俺が何処かで銃を手にしたことがあるというはったりは、十分に通用するはずだ。通用すると信じたい。
そんなことを考えながら、俺は棚のある方に向かった。緊張しているからだろうか。俺の視界には、銃が入っているという三段目の引き出し以外、何も存在していない。
自分の心臓の音は、こんなにも大きいものなのかと思った。自分の身体の仕組みを何処かいかがわしく思う。
引き出しの鍵穴に、鍵を差し込む。その手が震えている。なんて情けないのだろう。いや、これはきっと武者震いのようなものだ。俺は期待しているのだ。銃を手にすることを。この女に、その銃口を向け、恐怖におののく姿を見るのを。
「やっぱり馬鹿ね」
胸を刺すような、冷たい声が聞こえた。
黒い穴が一つ、いや、三つ、俺の方に向けられていた。
女が、俺を見ていた。そして、片手で銃を構え、その先端部分を俺の額に向けていた。