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ツヨシ(5)

 ここは何処なんだろうか。

 まるで、天国のような。それでいて、地獄のような。

 頭は異様なまでに空っぽで。それ故にここが天国であるかのような錯覚に襲われる。

 地獄たる所以は。肉体の苦痛故だ。

 身体の一部だけが生を主張している。俺はまだここにいると。まだ生きているのだと。まだ、解放されていはいないのだと。苦しみだけの世界に縛り付けられていることを、残酷なまでに脳髄に伝えてくる。

 それは、燃えている。

 俺の足か。それとも、俺そのもの、俺の意識か。

 痛みが、今の俺を支配している。痛みゆえに、俺は生きていると――。

 空っぽのはずの意識を、肉体が邪魔をしている。

 いつになれば、俺は真の解放を得ることが出来るだろうか……。何故、こんなにも縛り付けられなければならないのか。早く、速く、俺に解放を。

 誰か、俺に解放を与えてくれないか―――。


 水の滴る音が聞こえた。

 ぴちゃん、という、みずみずしい音。地獄の業火に燃やされている俺を救わんとする、それはまさに救い。

 悪夢から目覚めると、そこは余りにも眩し過ぎる世界だった。

 ――ここは、天国なのか? 俺は、ようやく救われたのだろうか。余りにもおぼろげな世界。目に入る全てが曖昧にぼやけ、境界という境界をなくしてしまっている。全てが一つになった世界だ。妙に美しく感じる。

 しかし、その美しい世界は少しずつ醜く変わっていってしまった。境界を取り戻した世界。なんて、醜い世界。何もかも存在しなければいいのに。存在を主張することなど、必要ないのに。この世界は、何もかもがそこにあろうとし、そこにあることを意地汚く主張してくる。やかましいことこの上ない。

 そんな中、ある一つの存在だけが余りにも慎ましく、儚げに存在していた。知らず知らずのうちに俺はその存在に目を奪われた。それだけが、未だに周りとの境界を曖昧にしたまま、そこにあった。

 二本の腕。か細いそれを吊るすようにある肩は、余りにも頼りない。そこから生える、白い首筋。ちょこんと乗っかるようにしてそこにあるべくしてある、顔。無表情な、顔。

 ――あの女だ。

 どうして、こんなにも俺のすぐ近くにいるのだろう。どうして、俺はこの女のそばにいるのだろう。

 なんという、不均衡。不整合。わけが分からない。

 それにしても、どうしてだろうか。無表情なのに、どうして俺はこいつの感情が分かってしまうのだろう。

 孤独と、不安。女の顔には、微かにそれが横たわっている。本当に、微かに。それなのに、どうして俺にはそれが分かってしまうのだろう。

 ――ああ、そうか。俺と、同じだからか――。

 けれど、それだけじゃないのはおかしいよな。その表情を、綺麗だと思うなんて。

「ごめんなさい」

 唐突に、女の唇が開いた。余りにも潔い響きが俺の耳を刺す。

 俺がこの世界に戻ってきたのと、おそらくほぼ同時だったように思う。そのタイミングは驚くまでに完璧で、何だか疑わしく思える。こいつはもしかしたら、俺が他の世界を放浪している間中、同じ言葉を繰り返していたんじゃないかと思った。そう思う程、自然で、整った響きだった。

 ――何に謝ってるんだ。

 そう言おうとしたのに、上手く口が開かなかった。身体に力が入らない。唇をわずかに動かせばいいだけなのに。たった数ミリ、身体の一部を動かせばいいだけなのに、今の俺にはそれさもままならないことが当然のようにも思えるし、ありえないことのようにも思えた。

「意識はある……のよね?」

 不安げな顔をして、女が俺の顔を覗き込みながら訊いてきた。俺の目はひたすらにその薄くて赤い唇の動きを追っていた。耳から入ってくる音と、その動きにズレが生じているように感じるのが不思議だったからだ。滅多に経験できないことを経験しているという優越感と、好奇心のようなものが俺の中にある。

 俺は微かに首を動かしてみた。縦に。すると女は、大きく息を吐き出してみせた。今、女の顔に映りこんでいる感情は、安堵と、後悔。少なくとも俺にはそう見えた。

「一応、治療はしておいたから。半日ぐらい目を覚まさなかったから、まさか死ぬことはないと思ってたけど、ちょっと心配になったわよ」

 心配した、と言う割りに女の口調は淡々としている。表情も相変わらず冷ややかだ。顔にかかる長い前髪から覗く瞳から、冷気が漂っているようにさえ感じる。その瞳の色は黒く落ち着いており、暗く光の届かない海底に沈む、小さな貝殻のようだ。

「ちなみに弾は貫通してたし、縫合もしておいたから」

 ……弾、だって? 何のことだ。

 俺はしばらく呆然としていた。そんなことには身に覚えがない……はずだったが、よくよく頭を整理してみると、合点がいった。

 そうか、あの燃えるような痛みは弾丸によるものだったのか。俺は銃で撃たれたんだ。左足を。膝の少し上、太股の辺りだ。麻酔でも打たれているのだろうか。不思議なことに銃で撃たれたはずの左足は、痛みを感じてはいなかった。

 それにしても、一体どうして俺は撃たれたんだ? 撃ったのは間違いなく、この女だ。それは疑いようがない。何しろ、俺に向けて銃を構えていたのだから。それにも拘らず、躊躇いなくこいつに対して背を向けたのが悪かったと言われれば、確かにそうだ。決して否定は出来ない。しかし何も言わずに撃つとは……。しかも、ご親切なことに致命傷は避け、挙句、治療までしてくれただって? 誰もそんなことを望んではいなかったのだが。死に場所は選びたいと思ったが、選べないのならそれはそれで受け止めることが出来る。というか、受け止めるしかないのだから。

 しかし、この女は何を考えているんだ? 矛盾だらけで、何も理解できない。

「まだ麻酔が効いてるはずよ。暴れられたりしたら面倒だから、全身麻酔をしたから。頭がぼーっとして、身体がだるいでしょう? 部屋はたくさんあるし、別にここであなたが眠っていても、何の支障もないわ。もっとも、大人しく眠っていてくれたら、だけどね」

女は手馴れた手つきで、俺の腕の血管から伸びる管の先にある、何らかの装置をいじくりながら言った。

「時々様子を見に来るから、何かあったら言いなさい」

そう言い残すと、女は先程の俺のように、あっさりと俺に背を向けて部屋を出て行った。

バタンという仰々しい音を立て、扉は閉まった。そして、俺は一人部屋に取り残された。

やけに落ち着くような、それでいて無性に孤独を感じる。しかし、何処か懐かしいような感覚だ。この懐かしさは、一体何処からもたらされているのだろう。

ああ、これも、兄貴か。

兄貴はいつも俺の傍にいながら、決して俺を見ようとはしなかった。そう。それは、監視でしかない。俺を単なる物体として観察するだけで、俺の本質を見ることは、頑なに避ける。決して、俺の存在を認めようとはしなかった。

今の感覚は、その時のものに酷似している。何処かに、すぐ近くにいる誰かに支配されている感覚。俺の命を握り、全てがその人物に掌握され、俺はどうすることも出来ない。

それなのに、安心してしまう。いつ死んでしまうか分からないというのに。誰かに生を支配されているという、危なげな感覚。しかしそれは、余りにも俺の中に根強く残っているようだ。絶対的な安心感を伴うものとして。不服だ。なのに。なのに、どうして俺はこんなにもこの空間に安らぎを感じているのだろう。

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