ツヨシ(4)
後頭部にあたる、硬い感触。それと同じくらい、俺の身体も硬直していた。
――動けない。どうしよう。
カチリ、という音で、俺の身体の硬度は増した。その音が意味していることを、俺は悟っていた。
俺の背後に立つ誰かが、拳銃の引き金に指をかけた音だと。否応なしに、俺の脳裏に血が撒き散らされる。俺の、血潮が噴出す映像が、残酷なまでに鮮明に浮かび上がる。
俺は、殺される。もう、ここまでだ。……俺の負けだよ。町田さん。もういいや。
「殺せ」
俺の口から、自然と溢れ出た言葉。相手に行動を取らせるための言葉。そして気付いた。
俺は。死にたかったんだ。ずっと。この生活が終わることを望んでいたんだ。終わらせることなんて、こんなにも簡単なことだったんだ。俺は馬鹿だ。そんなことにも気付かなかったなんて。笑ってしまう。
そう思った途端、頭の芯が急激に冷やされた。俺はいやに冷静だった。人は死を受け入れることで、こんなにも冷静に、穏やかになれるのか。長い時間生きてきたわけではないが、俺はそれを初めて知った。最後に新しいことを知れたことに、俺は静かな喜びを感じていた。
深く息を吐き出し、俺は更に冷静さを求めた。死を迎える準備を整えた。脳に新たな情報を取り入れることを、それを記憶に留めておくことを望んだ。
そして、大きく息を吸い込む。
柔らかい、匂い。それと共に、柔らかい音が、俺の鼓膜を震わせた。
「あなたが死ぬのはまだよ。まだ死なせない」
女の声、だと?
柔らかい匂いの正体は、女の匂いだったのだ。あの、やけに香り立つ風呂場の香り。その香りを漂わせる、俺の背後に立つ、誰か。それは、俺の知らない、女という生き物だったのだ。
それが分かった途端に、さっきまで冷やかに落ち着いていた俺の頭が、一気に熱を取り戻した。死の覚悟は、どうやら遥か彼方に吹き飛んでいってしまったらしい。
いける。俺はまだ、生きていられるかもしれない。一瞬の判断が鍵となり、俺はまだ生きてられるチャンスを得る。
――しかし、何のために? 生きていて、何の意味がある?
お前は、死んだ方がいいんだよ。
再び、俺の頭の中に声が響く。もう一人の俺の声と、誰かの声が重なる。よく聞き知った、誰かの声。もう長らく聞いていない、誰かの。
俺を殺そうとした、兄の声が響く。響き渡る。
「質問に答えなさい。余計なことは言わせない。そして、あなたには私の質問にのみ答える権利しか与えない。それ以外の行動を起こした場合は、容赦なく引き金をひく。……いいな?」
俺が思考する間合いを取ってくれたのか、後ろにいる女はゆっくりとそう言った。
質問に答えろだって? 馬鹿馬鹿しい。俺は今すぐにだって死んでも構わないのに。死にたいんだよ、俺は。金目のものなんて、もういらないんだ。
「断る。今すぐ俺を殺せ。その拳銃でな」
容赦。それが確かにそこにあった。馬鹿野郎。出来もしないことを言うなってんだよ。
聞こえたのは銃声ではなく、女が拳銃を握り直した音と、女が息を呑む音。そして、互いの鼓動、吐息。筋肉や内臓、様々な細胞がうごめく音さえも聞こえてきそうな静寂だった。
「早く殺せよ。何してんだ。容赦しないんだろ? 用心棒がそんな甘っちょろい奴でいいのかよ」
用心棒。きっとそうだと、俺は考えていた。引き金はひかなかったものの、躊躇いなく俺の後頭部に銃口を当ててきたことは確かだ。まともな人間が、そんなことを出来るはずがない。人としての一線はまだ越えていないものの、俺の背後にいる女は、多少なりとも普通の一般家庭にいるような女ではないことは間違いないと、俺は考えた。
それに、と、俺は更に思考を展開する。
声からして、そんなに年がいった女だとは思わない。せいぜい二十代ってところだろう。大人の女なんて、俺は全く知らないが。俺だってもう身体は十分大人だ。二十代の女と、十七の俺。身体で勝負すれば、俺にだって勝ち目はある。それに、頭だってそんな悪い方じゃない。考えることなら、身内の誰にも負けてやしない。今後の展開として、万一頭脳戦がものを言う交渉になったとしても、そう簡単に負けはしない。
生きていたところで仕方がないとは思うが、やはり最後は満足のいく形で終わらせたい。望みもしていないのに、こんな時代に生まれてきたんだ。死に方ぐらいは選ばせてくれたっていいだろう。
よし、勝負だ。クソ女。そう心の中で叫んでから、俺は勢いよく振り向き、真正面に女の姿をとらえた。
目の前に立つのは、やはり女だった。しかし、頭の中に描いていた像と、実際にここにいる女は余りにもかけ離れている姿だった。
まず目に入ったのは、長い髪の毛だった。前髪もやたらと長く、表情が窺いづらい。肩の少し下まである後ろ髪は一つに束ねられている。
身長は俺よりも少し低いくらい。目線の高さはほとんど同じだ。けれど、身体の輪郭というか、線が細く、やけに頼りない。華奢だ。銃なんかよく持てるなと思うくらいだ。両手で構えてはいるが、俺が急に振り向いたので驚いたのか、細くて華奢な身体を更に縮ませて、銃を胸の前に抱くような体勢になっている。長い前髪の隙間から覗く表情も、これでもかというくらいに強張っている。その目には、恐怖が映っている。その恐怖とはまさに、目の前にいる俺だ。
それにしても、声は随分と落ち着いた低音だったのに。イメージと違う。どう見ても用心棒ではなさそうだ。
「う、動くな!」
女はようやく我に返ったのか、改めて俺に銃口を向けてきた。残念ながら、もう俺には一切恐怖の念はない。何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。まるで茶番だ。溜め息が出る。この女には何も出来まい。
「言われなくても動かねーよ。現に何もしてねーだろ。こんなに隙があったのに。心配しなくても、俺は何もしない。もう出ていくからよ」
やれやれだ。全くつまらん。勝負する気にもならない。俺はそのまま玄関の方に向かおうとした。
「待ちなさい」
「何だよ」
面倒な奴だ。こっちが親切に何もせずに帰ってやろうってのに、何で引き留めるんだよ……。やけにイライラする。女相手だとやりづらい。しかも、こんな女だと余計にだ。「話を聞かせなさい」
「話すことなんてねーよ。もう帰るんだからいいだろ。俺は空き巣に入ったわけだが、この家からはまだ何も盗っちゃいない。本当だ」
「あなたはそうでも、私にはあなたに聞かなければならにことがあるの。いいから話を聞かせなさい。帰さないわよ」
やけに偉そうな女だ。鼻につく。もういいや。俺の精神衛生に良くない。こいつの言うことなんて無視して帰ってやる。
そう思って女に背を向けた瞬間だった。空気を突き破るような音が俺の耳を、いや、その音は俺の脳にまで届くようだった。煩いを遥かに飛び越えたそれは、まさに刺激としての痛みだった。痛い。
そして、足が、左足が、妙な感覚に包まれた。 何だ? 熱い。
撃たれた。撃ちやがった。痛い。何だよこれ。痛いって。痛いどころのもんじゃない。死ぬ。やばい。わけわかんねーよ。何で撃つんだよ。何にもしてねーって言ったじゃねーかよ。何でだよ。何で俺が撃たれなきゃなんねーんだ。しかもこんな女に。ああ、いてー。マジいてー。殴られる痛みなんか、比べもんになんねー。痛い。痛い。痛い。熱い熱い熱い熱い熱い。