アサカ(6)
「M135はまだ研究段階よ。実用化を目指し、更に安全性を求めてる段階なの。多少の問題はあるに決まってるじゃない。それに、シンゴ君のようなケースは稀なものだったじゃない。彼の精神鑑定はあなたに任せてたんだから、それぐらい分かってるでしょ? 現状では、ああいう失敗を起こさないための考察と改善を重ねるべきなのよ」
「そういう問題じゃないだろう」神沢は語気を強め、呆れたような口ぶりで言った。
彼は、強い視線を町田に向けた。一言も反論を許さないような、そんな視線だった。悪意はない。ただ憂えているが故の視線のように感じられる。暴走しようとしている町田をなだめるかのように、神沢はいつものような柔らかな口調を心がけ、心を静めてからもう一度「そういう問題じゃない」と繰り返した。自分に何かを言い聞かせ、頭の中を整理する時間を設けているかのようでもあった。
「確かに、本当にM135が完成して、それが世の中に普及するようになれば、何か変わるかもしれない。けれど、そのためにどれだけの犠牲が払われる? その犠牲の果てに、明るい未来があるとは言い切れないだろう」
そう言い終わったとき、くくっと笑い声が聞こえた。町田が笑っている。
「何で笑ってるんだ」
真剣な口調がよほど可笑しいのか、町田はついに声を抑えることなく、けらけらと笑い出した。何か不気味なものを見るような神沢の目が、町田に向けられている。
「ちょっと神沢ぁ……本気でそんなこと言ってるの?」
町田も、神沢のことを奇怪なものでも見ているかのように、彼をじっと見つめている。
「あんた、やっぱり大したことないのね。がっかりだわ」
「だから、何が言いたいんだよ」
神沢は町田のその言い草と表情に、苛立ちを隠しきれずに怒鳴るように言った。その声に、町田は少しも動じていないようだ。口元を歪いびつに歪ませて笑っている。
「何事にも、犠牲は付き物だって言いたいのよ。研究や実験においては、失敗がなければ成功は導かれない。失敗は成功のもとって、よく言うでしょう。科学者たるもの、それを念頭において、あらゆることに取り組むべきなのよ」
「そんなことは分かってるさ」
「じゃあ、どうして現状を受け止めようとしないのよ」
さっきまで、さも愉快そうな笑顔を見せていた町田の顔がキッと引き締まる。
「確実な成功のためには、犠牲は不可欠なのよ。私の役目は、その犠牲を無駄にすることなく、なおかつそれを最大限に活かして、結果を生み出すこと」
町田は、恐ろしい程冷静にそう言った。まるで、何かの呪文を唱えているような、無感情な声で。その口ぶりに、神沢でさえも畏怖を感じるほどだった。
「結果が全て……か。その結果に、保証なんてないだろう。そんな結果のために、どれだけの人達を犠牲にするつもりだ! お前には……シンゴ君やアサカちゃんの苦しみが分からないのか!」
もう我慢ならない。そんな感情が、神沢の言葉からひしひしと感じられた。
町田を怖がらせてしまうかと思い、声を発した直後、神沢はしまったと思ったが、目の前にいる女性は、そんなことで怯えるような人間ではないと自分に言い聞かせ、そして自身を奮い立たせた。
彼の中では様々な感情が渦巻き、それが溢れだしてしまうのを必死に堪えていた。悲しみ、悔しさ、羞恥、怒り、劣等感、――。溢れてしまったら、自分がどうなってしまうか分からない。混乱しているのだろう。
町田は相変わらず表情を変えないまま、神沢が激昂する様を眺めていた。どうして彼女はこんなにも冷静でいられるのか――そう思った瞬間、町田が再び口を開いた。そしてその時、彼女の目に闇が落ち、すっと冷えていくように神沢は感じた。
「人の苦しみを考えたところで、何になるの? そんなことを考えたところで、結果は生まれないわ」
「お前……!」神沢は歯を食いしばった。
「本当に、何も感じてないのか。自分が作った薬が原因で、シンゴ君がこの世を去り、アサカちゃんが殺されかけ……麻生まで……」
神沢はぶるぶると拳を震わせている。
「何も感じてないわけじゃないわ。ただ、私はやるべきことをやるだけよ。私がやるべきことは、この事件が起こった原因を究明し、M135を改良すること」
少し長い瞬きをしてから、町田は黒く冷え切った目で神沢の目をじっと見つめた。あらゆる者達を屈服させてきた、強さを秘めた瞳で。
「そして、あなたがするべきことは、担当している臨床試験対象者の精神鑑定を行い、それをケアし、管理する。そして、その結果を私に報告すること。それだけよ。あなたはそれだけを忠実に行っていればいいんじゃないの?」
そう言われた瞬間、神沢は何も言えなくなってしまった。歯を食いしばったまま、町田の強い視線に心を奪ってしまわれぬように耐えることで精一杯だった。
「俺は」神沢が何とか声を絞り出して何かを言おうとした時、町田が言葉を重ねた。
「余計なことを考えてる暇はないのよ。大切なのは、彼等を憂えることじゃなくて、どうして彼等がああなってしまったかを考えることよ。そして、今後どう対策していくか。それだけを考えなさい。この計画を完遂する。それがここにいる者全てに課せられた使命よ」
その言葉を聞いた神沢は不思議に思わざるを得なかった。
――何故、彼女はこんなにもこのプロジェクトに信念を賭けているのだろうか。何故ここまでして、こんな目にあってまで、プロジェクトを完遂させようとしているのだろう。
彼女の研究者気質ゆえだろうか。全てを解き明かさなければ気が済まない。そういった気持が、彼女を突き動かしているのだろうか。そうすることで、あらゆる悲しみを押し殺そうとしているのか。
神沢はそんなことを考えた。
「ここで、私の下で働くって言うなら、私の意思に従いなさい。神沢だって、ここ以外で精神科医として働く当てがないんでしょう? だから私の誘いに乗って、ここに来たんでしょう? しっかりして頂戴」
町田は、偉大だ。いや、異常なのかもしれない。異常でなければ、こんなところで、人の精神を貪るようなこんな仕事など出来るはずがない。
「どうするの? 辞めてもいいのよ」
唐突に、冷静な口調で町田が言い放った。
「精神の研究をしてる人間は、こんな世間でもそこそこにはいるわ。どいつもこいつも、働き場所には困っているはずだからね。声をかけたら、大概の奴が飛んでくるんじゃない? あなたがいなくても、他の精神科担当の
スタッフがカバーしてくれるかもしれないしね。……あなたの代わりはきくわ。だから、辞めてもいいのよ?」
余りにも突然の宣言に、神沢はしばらく絶句した。
辞めてもいい。確かに町田はそう口走った。自分は、一体どうするべきなのか。
「辞めるわけには……いかない」
神沢は決意を固めた。そう、辞めるわけにはいかないんだ。心の中でもう一度呟き、自分に言い聞かせた。
「ユウコを、こんなところに置いていくわけにはいかない。この計画が完成するまで……付き合わせてくれ、ユウコ」
「腰抜けはいらないわよ? 分かってんの?」
町田がようやく唇から白い歯を覗かせて微笑んだ。もっとも、にやりとした不敵な笑みなのだが。
「あぁ、ちゃんとお前の意思に沿うよ。しっかり働かせてもらうよ」
神沢も、町田に笑顔を向けた。いつもの優しさに溢れた笑顔だったが、その奥には確固たる決意が潜んでいるのが町田には分かった。
長い付き合いだと、こうも相手の考えが分かるものかと思い、思わず自嘲したくなった。自分が、こんなにも神沢に依存していたのだとは思わなかった。彼が辞めると言うことはないと分かっていたが、万が一、彼が辞めてしまうと言ったらどうしようかと、内心思っていた。
「頼みますね、町田所長」
神沢の右手が、町田に差し出された。
「馬鹿みたいじゃない。やめてよ」そう言いながらも、町田は彼の手を握っていた。その握手は、二人の信念が通じ合った証だった。