アサカ(4)
――どうしてこんなにも落ち着かないのだろうか。
町田は自問自答した。アサカが泣いているのを見るのが嫌だったんだろうか。それとも、それを慰めている神沢を見るのが嫌だったのか。
自分の中で、遠い過去の記憶がくすぶっている。そう感じた。――私は、あんな風に……。
椅子に腰掛けようが、小さな数字の羅列で埋め尽くされている実験データを見ていようが、何をしていても落ち着かない。こめかみの辺りが引きつるような感じがした。
町田は、机の引き出しに煙草を押し込んでいた、いや隠していたのを思い出した。煙草を吸えば、きっと落ち着くに違いない。
いつも麻生が煙草を分けてくれていたから、自分の分はいつも切らしているふりをしていた。そうして、同じ煙草をふかしているのが、何となく幸せだった。
引き出しから箱を取り出し、その中を見ると、残りはあと五本もなかった。そんなに吸った覚えはないが、そういうときに限って何故か減りが早いものだ。
ライターを取り出して、火を点けようとした。
しかし、ライターは小さな火花を散らすだけで、ゆらゆらと炎を立たせることはない。何度も何度も、ライターを擦り続ける。ライターは町田の命令に反し、いつまでもシュッシュッと乾いた音を立てるだけだ。
「あぁっ、もう!」
町田は煙草をくわえたまま、ライターを床に叩きつけた。絨毯の上でライターは一度だけ大きく跳ね、そしてそのまま床の上で静止した。
――頭の中に浮かんでくるのは、麻生のことばかりだった。
今だって、麻生がいれば煙草をくれたのに。くわえた煙草に慣れた手つきで火を点けてくれたのに。あの細いくせにごつごつした指で、ライターに火を点けて、私に差し出して……。
「ユウコ、どうした?」
神沢がドアを閉めながら、不安そうな眼差しで町田を見つめていた。
取り乱していたのか。私は、こんなことで――。町田は自分自身を嘲笑った。
情けない。私らしくない。何度も心の中でそう呟き、自分を戒めようとした。深く、息を吸い込んで、吐き出した。自分の中にある悪いものを外に追い出すように。
「何でもない。遅かったわね」
町田が一人でこの部屋に到着して時計を見た時から、一時間は経っていた。それだけ、アサカをなだめるのに時間がかかったということだろう。
それを分かっているくせにそう言う町田の言葉に嫌味が含まれているのを感じ、神沢は一瞬ムッとした。
「彼女がなかなか落ち着いてくれなくてね。何とか部屋に帰したよ。またあとで様子を見に行こうと思う」
「そう。鎮静剤使えばよかったんじゃない?」
町田は魔女を思わせるような笑みを浮かべながら言った。
「よくそんなことが言えるね。アサカちゃんにそう易々と鎮静剤は打てないだろ。ここで生活をしてはいるけど、彼女は対象者じゃない。言わば一般人なんだから」
「分かってるわよ、そんなこと。冗談じゃない」
「冗談でもそんなこと言うもんじゃない」と神沢は冷静な口調で呟いた。そうすることで、カッとなった頭を自制しようとした。
町田は両手を軽く広げて、呆れたように笑っている。
「アサカちゃん、何か言ってた?」
「いや、麻生に関しては何も……彼女は同じようなことを繰り返し言うだけだったよ」
神沢は足元に落ちているライターを拾い上げ、それを町田にそっと手渡した。町田と向き合って、視線を合わせると神沢は言った。
「心当たりってやつを話してくれないか」
「分かったわ。でも、随分前に聞いたことだから、あんまりよくは覚えてないんだけど」
「それでもいい。話して」
二人とも、表情は真剣だった。些細なことでもいい。麻生の失踪に関する何らかの手がかりが欲しかった。
麻生には、兄がいたのだという。
麻生が子供の頃は、今ほど社会の状況は悪化していなかったものの、その兆候は出ていた。麻生と彼の兄はその波に飲まれてしまったのだ。
母子家庭で、元々裕福ではなく、不景気の波に飲み込まれてしまったことで、二人を育てることに限界を感じた彼等の母親は、麻生達を施設に預けたのだ。しかし、その施設は二人が入所して間もなく経営不振によって潰れてしまった。
それが、悲劇の始まりだった。
麻生とアサカは、同じだったのだ。兄に頼ることでしか生きていくことが出来ず、兄の足枷になっていたとしても、自分だけの力ではどうすることも出来ない。麻生も、そうだったのだ。
そしてある日、彼の兄は麻生を殺そうとした。首を絞めて、息の根を止めようとした。その間、麻生の兄はひたすら呪いのような言葉を呟いていたのだという。
――「お前なんか、いなければ良かったのに」
麻生は必死に生きようとした。おそらく彼の兄は、麻生を殺して自分も死のうと思っていたのだろう。麻生の生きたいという思いは、兄の思いに勝っていたのだ。
麻生は、じたばたと暴れまわるうちに何かを手に掴み、それを兄に振り下ろした――。
麻生は無我夢中になった。我に返れば、本当に自分をなくしてしまいそうで怖かったのだ。固く目を閉じ、何度も手に掴んだものを兄にうちつけた。
――「ごめんなさい、ごめんなさい……」
真っ白で何も考えられなかったが、とにかく謝った。麻生は最後のわがままを、許して欲しかったのだ。――生きたい、という最後のわがままを。