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アサカ(3)

 もう少し詳しく話すように言うと、アサカはぽつぽつと話し始めた。

 アサカにとっては辛い話であるはずなのに、彼女は少しも表情も、その声色さえ変えることはなかった。

 ――アサカは分かっていたのだった。自分がシンゴの足枷になっていることを。そして、その反面では自分の存在が彼の支えになっているということも。

彼女が自身の口ではっきりそう言ったわけではないが、神沢や町田には分かった。

 アサカはただ、兄であるシンゴに元気でいて欲しかっただけだったのだ。シンゴはいつも、アサカの側にいてくれた。いつも、アサカのことを思ってくれていた。二人きりになってからシンゴは、自分の為に食糧を探してきてくれた。――おそらく盗みに近いこともしていたのだろう。アサカがそこまで察しているのかは分からないが。そして、家に帰るとそのまま死んだように眠るのだ。その寝顔にさえ、安らぎは感じられなかった。

 アサカはそんな兄の姿を見るのを、辛いと思うようになったのだ。自分がいなければいい。何度もそう思った。けれど、どうしたらいなくなることが出来るのかさえ、分からなかった。何よりも、兄が、シンゴが大好きだった。だから、彼から離れたくはなかった。その願望が矛盾していることには気付かなかった。自分の欲望に従うことが一番いいのだと、アサカは何故か感じたのだった。

 自分を存在しないことにするには、どうしたらいいのか。アサカは十歳の幼い頭脳をもって、必死に考えた。そして、一つの結論に辿り着いたのだ。

 ――それが、声を発さない、ということだった。

 ずっと黙っていれば、シンゴに迷惑をかけることはない。わがままも言わずに済む。表情もなくしてしまえば、それによってシンゴが苛立つようなこともなくなる。

 そうしてアサカは、シンゴの側にいながらも、自らの存在を消失させたのだ。

 実際、アサカが声を失った時、シンゴは悲しんだ。どうして、と泣き叫んだ。けれど、アサカは声を失った代わりに、シンゴに対してより強い信頼を見せていた。そうするようにしたのだ。――彼の支えになる為に。そうすることで、シンゴは自己を確立していくに至ったのだ。

 ――そして、それ故にシンゴは、アサカを殺そうとした。

「どうして、シンゴ君はあなたの首を……」

 町田は言いよどんだ。こんなことを聞くのは、残酷な過去を抉り出すことに他ならないとは分かっていた。しかし、幼い少女の感情を慮ることなど、彼女には出来なかった。そうすることを、町田は知らないのだ。町田はあっと声に出すと、目の前にいる少女に謝ってみせた。しかし、それは隣で町田を睨み付けている神沢に向けられた言葉だったのかもしれない。

「お兄ちゃんも、私を助けたかった。ずっと側で守りたかっただけ」

「まさか……」

 神沢が少し青ざめた顔を、さっと手で覆った。指の間から覗く瞳は、ひどくうろたえているようだった。

「ねぇ」

 そう言ったのは、アサカだった。目の前の二人に声をかけたのは、何か言いたいことか、聞きたいことがあるからに違いない。

「なんだい?」

 心なしか震えた声で、神沢が答えた。

「あたし、何か間違ってた? 何かを間違えたから……こんなことになったの?」

 声が震えていた。そして――、一筋の涙が、アサカの頬を伝った。

 その涙は、ステンドグラスから降り注ぐ光のように淡く輝いているように見えた。長い間、その存在を忘れ去られたかのようだった彼女の涙が、今、溢れ出したのだ。

 その涙から、彼女の心の奥底に閉じ込められていた深い悲しみや後悔が見て取れた。それをずっと押し込んで生きることは、そう簡単に出来るものではない。それ程、アサカは兄を愛していたのだろう。彼の側にい続けることを切に望んでいたのだろう。

「どうして、お兄ちゃんは死んじゃったの? あたしが悪かったの?」

 アサカは自問自答するように呟いている。泉の清らかな水のような涙が、彼女の瞳から次々と溢れ出す。その姿は余りにも痛々しく、それでいて何処か神々しくさえあった。

 シンゴを亡くしたことで、彼女はようやく解放されたのだと、神沢は直感した。

 全ての感情を押し込め、それを発することをやめてしまったアサカは、シンゴを亡くして、こうして少しずつ話をすることでようやく本来の自己を取り戻したのだ。彼女は自己を捨て、その全てをシンゴに預けていたのだ。

 それが今、ようやく彼女の元に帰ってきたのだ。

 長いこと感情を表に出していなかったからだろう。間もなくアサカは、火がついたように泣き始めた。

 神沢はさっと立ち上がると、アサカの隣に座った。

「アサカちゃん、君は悪くないよ。大丈夫だ」

 神沢がアサカの肩をそっと包んだ。神沢が落ち着くようにと声をかけても、無駄だと思えるほど、アサカは取り乱していた。さっきまでやけに大人びて見えていた彼女が、突然うんと幼くなったようで多少困惑したものの、やはりこれが本来の十歳の少女の姿なのだと思うと、何処か安心せずにはいられなかった。

「そんなことない。あたしがいなかったら、こんなことには……ならなかった」

 神沢にしがみつきながら、涙声でアサカは必死に訴えていた。

「大丈夫だよ。君はここにいていいんだ。いや、君はここにいなきゃならなかったんだよ」

「どうして! あたしは、お兄ちゃんに生きてて欲しかったのに……一緒にいたかったのに!」

 アサカの叫びは、言葉として聞き取るのは難しかった。それは余りにも悲痛な心の叫びで、それを正面から聞き入れるのは苦痛を伴った。

 神沢とアサカのやりとりを、町田はただ傍観するのみだった。そうすることで精一杯だったのだ。二人の様子を見ていると、アサカの叫びを聞くと、妙に心がざわめき立った。どうしてそう感じるのか分からないことが、余計に町田を精神的に追い詰めた。

「神沢」

 アサカの泣き声にかき消されないよう、町田は芯のある声で彼を呼んだ。アサカを慰めながら、神沢は目だけを町田の方に向けた。

「あと、任せたわ。私、先に研究室に戻ってるから」

 自分勝手な奴だ、と一瞬腹を立てそうになったが、ここは仕方ない。彼女がこの状況に苛立っているのは、火を見るより明らかだった。そんな彼女を、ここで放っておくと、何を言い出すか分からない。

 神沢が頷いたのを見るより前に、町田は身を翻して出口へと向かっていた。

 アサカの泣き声が、鋭い刃となって町田の背中に突き刺さった。

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