アサカ(2)
神沢が尋ねても、アサカはただ凛とした視線を向けているだけだった。沈黙が流れる。それが雑音になって騒ぎ立て、町田を苛つかせる。舌打ちをして、再びアサカに檄を飛ばそうとしたが、神沢が隣から彼女を睨み付けたので、町田はまた舌打ちをして言葉の塊をぐっと飲み込んだ。
神沢もまた、ただただゆっくりと流れていくだけの時間に耐え兼ねたのだろう。穏やかさの裏に焦りを隠してアサカの名を呼んだ。アサカがじっと神沢の瞳を見つめる。
「本当はね、前から疑ってたんだ。実はちゃんと話せるんじゃないかってね」
ほんの一瞬だけ、アサカの瞳がはっと見開いた。表情は変わらない。
「麻生と君が話しているのを聞いた人に聞くと、君はえらく流暢に話していたとね。それは、本来おかしいんだよ。あり得ないと言ってもいい」
神沢は何か話す毎にアサカの反応を窺うようにして言った。
「人っていうのはね、長いこと話すことがなくなると、話し方を忘れてしまって、上手く話せなくなるんだ。一時的なものだけどね。練習すれば、直にまた普通に話せるようになる。でも、君にはそれがなかった」
神沢はアサカにも分かるよう、言葉を選んで話しているようだった。
「ねぇ、アサカちゃん。君は、わざと話さなかったんじゃないかい?」
核心をついた。いつの間にかアサカは神沢から視線を逸らし、わずかに俯いて彼の話を聞いていた。相変わらず、その唇から音が紡ぎ出されることはない。
「君は、僕やシンゴ君がいる前でだけ、話さないようにしてたんじゃないかい? いや、シンゴ君がいるから、だろうね。そして、僕らがいないところでは、話をしていた」
神沢はアサカの反応があるのを待った。沈黙が続く。町田が靴先で床を忙しなく叩く音が、やけに大きく聞こえる。
「もう……シンゴ君はいない。悲しいことだけどね。そして、僕らの同僚であり、かけがえのない友人である麻生も……いなくなった。アサカちゃん、君が何かの手がかりを握ってるかもしれないんだよ」
神沢は眉を寄せ、息苦しいような表情をしてアサカに語りかける。時折、声が掠れていた。
町田は、目を伏せていた。神沢の言葉に意識を集中させているのか、はたまたそれを遮るためか。
「アサカちゃん、話してくれないか」
今一度、問いかける。アサカを怯えさせないよう、そっと、静かに。
「何を話せばいいか、分かんないよ」
小鳥のさえずりのような、小さく可憐な響きが町田と神沢の耳に届いた。
アサカが、ついに言葉を発した。
アサカの声は、その愛らしい姿と一寸違わぬものだった。ソファーにちょこんと腰かけている人形が、突然話し出したように錯覚するほどだ。その言葉は、確かに彼女の唇から紡がれたものだ。よそ見をすれば見落としてしまいそうな程、彼女の唇は小さく動いた。
でも、確かに彼女は自らの唇から声を出したのだ。
神沢と町田の二人は、彼女が話せるであろうと予想はしていたものの、こうもあっさりと実際に話すとは思っていなかったのか、驚いてアサカの顔を見張った。少なからず、二人は動揺していた。
アサカの目は相変わらず、ガラスのように澄んでいる。そこから感情を読み取ることは出来ない。そんな瞳で見つめられると、何もかも見透かされているのではないかと、少し恐れを感じる。
「えっと……」
そう呟いたのは、神沢だった。心が大きく揺さぶられるのを感じていた。
「あのお兄ちゃんのことが聞きたいの?」
アサカは驚く程冷静だった。とても、あんな凄惨な現場を目の当たりにした直後の、十歳の少女とは思えない。
「そうだよ。麻生に何を言ったんだい?」
動揺を必死に隠し、冷静を装いながら神沢は尋ねた。
そう言った瞬間、アサカの目の色がすっと翳ったように見えた。気のせいとも思えるような、小さな変化だった。
「……どうして殺したのって」
「麻生は何て答えたの?」
町田の探求心が疼き、彼女は少し焦りを滲ませた口調で訊いた。
「お前だって、憎まれてたんだって。殺されたくなかっただけなんだって言ってた」
アサカは少女とは思えない程静かで穏やかな口調で答えた。しかし、その中には確かに悲しみがこめられている。
町田はアサカの証言を耳にした途端、眉を寄せた。涙をこらえているような、悔しさを噛み締めているような、そんな表情だ。そして、俯きながら小さく「そう」と呟いた。
「他に、何か話したかい?」
顔をしかめながら、今度は神沢が尋ねた。
「お前も同じだって言われたけど、私は違うって言ったの」
その時、町田の中にはある一つの出来事が浮かんだ。そして、それが今回の事件と繋がった。
爪を噛んで沸き上がる感情をこらえている町田に、神沢が尋ねる。
「何か心当たりが?」
町田はその声でようやく我に返ったようだった。見ると、神沢は鋭い目で彼女の様子を窺っていた。
「ええ。あるにはあるわ」
町田らしくない、しおらしい声だった。
神沢は彼女に目で訴えた。後で聞かせてくれ、と。それが通じたのか、町田は小さく頷き返した。
「麻生が言ってたのは、それだけ?」
神沢は更に尋ねた。町田は考え込んでいるのか、何も言わずに俯いている。
アサカは首を振った。「あんまりよく覚えてない」と、小さく呟いた。
それもそうだろう。唯一の肉親であった最愛の兄が、目の前で射殺されてしまったのだ。記憶がおぼろげになってしまったとしても、何も不思議ではない。これ以上、何かを聞き出そうとしても無駄だろう。しかし、神沢にはそのこと以外に、アサカに聞いておきたいことがあった。
「アサカちゃん。もう一つ、聞いてもいいかな」
神沢のその声は、神妙なものだった。アサカを傷付けないようにと、かなり慎重になっているようだ。アサカが頷くのを見ると、神沢は深く深呼吸をした。それから吐息混じりに彼は尋ねた。
「どうして、今まで口を聞かなかったんだい?」
神沢はじっとアサカの表情を見つめていた。それが変化することはなくても、何か掴めるものはあるのではないかと探るようにして、彼女の目を覗き込んだ。
「お兄ちゃんには、私がいない方がいいんだって思ったから」
アサカはそう躊躇うこともなくそう言った。二人は返す言葉が見つからなかった。
「だからって……どうして?」
町田は全く理解できないといった風だった。困惑したような表情を浮かべている。そんなことは聞くべきじゃないとは、神沢自身も思ったが、聞かずにはいられなかった。彼女の心情を把握することで、麻生の失踪の手がかりを掴める可能性があるのではないかと思ったからだ。町田の方もそう考えているのかは分からないが、興味本位だけではないことを神沢は願った。
「どうしたらお兄ちゃんのこと楽にしてあげれるのか、考えたの。お父さんとカズキがいなくなってからは、お兄ちゃん、いつも苦しそうだったから。あたしのせいだと思ったから」
「それで、話すことを止めたの?」
神沢が確認するように訊くと、アサカは頷いた。