アサカ(1)
くらいまち 第二章・櫻田アサカ編
悲しみに暮れる暇など、与えられなかった。
感情が表に出ることは無くても、悲しかったのに。ちゃんと、悲しんであげたかったのに。
――私は、結局何もしてあげられなかった。何をすればいいのか、分からない。これからどうやって生きていけばいいのかも。
でも、きっと生きていなければならないんだとは思った。
アサカの前には町田と神沢がいた。
アサカを除く二人は一連の事件のためか、憔悴しきっていた。
シンゴを亡くしたこと、麻生が姿を消したことがこの二人にも少なからず重荷となってのしかかっているのだろう。シンゴがこの世を去ってからまだ二週間も経っていない。麻生がいなくなったのは、つい数日前のことだ。
抱えていた問題の根源がなくなったからといって、決して楽になるわけではない。結果としてはむしろその正反対であり、何も解決しないまま妥協せざりをえなくなった今の状況を、研究職を生業とする二人が黙って認められるはずがなかった。
それだけでなく、いなくなったのは他の誰でもない、麻生だ。町田と神沢は、麻生と特に親しくしていたのだ。町田、神沢、そして麻生の三人は友人などという言葉では言い表すことが出来ないくらいの信頼関係で結ばれていた。
互いを家族のように、愛し、信頼しあっていたのだ。三人とも、本当の家族の温もりなどよく分かっていないような人間ではあったが、互いを心の拠り所としていたことに、間違いはない。
それほどまでに思っていた人物が、突然姿を消したのだ。隠そうとはしているが、心の中にある深い悲哀は決して隠しきれるようなものではない。
「アサカちゃん、わざわざ来てくれてありがとう。今日は、アサカちゃんに色々聞きたいことがあるんだよ」
神沢の声には今までと変わらない、柔らかな優しさがあった。しかし、何処かいつもとは違う。以前にも増して、影のある優しさだった。
町田は神沢の横でずっと不機嫌そうな顔をして、そっぽを向いていた。いつだって強く、凛とした瞳で相手を威圧している町田が上の空になっているように見えた。憂愁を全身から漂わせ、彼女は一体何を考えているのだろうか。
アサカは目の前に座るそんな二人を見比べるようにして見つめていた。
「いいかな、アサカちゃん」
神沢が確認する。アサカはいつもと同じように小さくこくりと頷いた。
「ありがとう。最近、体調はどうだい? 元気かな?」
アサカは少し顎を引いて返事をした。イエス、元気だということだろう。
「そうか。良かった」
神沢はそう言うと、何故か黙り込んでしまった。
珍しいことだ。相手に気を遣わせないよう、神沢はいつも沈黙を避けていた。実際、アサカやシンゴと話しているときの神沢は、何も話さない時間を必要最低限に抑えていた。
そんな神沢が、何を話せばいいのか、いや、何と言えばいいのか迷っているように見えた。眼鏡の奥の瞳が曇っている。
長い沈黙が、三人を包んだ。誰も、何も口にしないまま時が流れた。各々の吐息が聴こえてきそうなほど、その空間は静かだった。空気がずっと下に沈みこんでいるような感覚さえある。
「あなた、麻生に何か言ったんでしょ?」
沈黙を破ったのは、町田だった。
町田はアサカを見ることなく、視線を逸らしたままでそう尋ねた。その声からは、覇気こそ感じられないものの、町田本来の強さのようなものが残されているようだった。相手を屈服させるような強さだ。
「失声症だと思ってたけど……そうじゃなかったってわけ?」
「おい、子供相手に何むきになってるんだよ。らしくないぞ」
神沢が町田を制止する。彼女の語気は余りにも高圧的で、子供に向けるそれとは思えないものだったためだ。神沢はあくまでアサカのことを気遣った。
しかし、町田は聞く耳を持とうとはせず、アサカを鋭い眼光で捕らえると、更に問い詰めた。
「現場にいた部隊の奴が言ってたのよ。あなたが話してるのを見たってね。麻生と、話したんでしょう? 正直に言いなさい」
「ユウコ。いい加減にしろ。止めるんだ。先に聞くことがあるだろう」
「知らないわよ、そんなこと。あんただって、真実が知りたいんでしょう? 何で温いこと言ってられんのよ?」
町田の言葉に情けという感情は皆無であった。麻生が失踪した真実に、出来るだけ近付きたいという純粋な欲求が彼女を突き動かしていた。
「お前の気持ちは分かってる。でも、彼女が最後の鍵だろ。その彼女がお前のせいで本当に口を閉ざしてしまったらどうするつもりだ。ユウコがそんな軽率な行動をするような奴だとは思わなかったよ」
神沢自身も焦りがあったのだろう。自分の思うように動いてくれない町田に対して苛立ちを感じているのだ。眉間に皺を寄せ、彼には似合わない厳しい表情をしている。神沢と町田の間には今まで互いが冷静を保っていたため、大きな衝突はなかった。
しかし、今は双方共に情緒不安定で、冷静でいることが難しい状況である。
「分かってるわよ。私に、命令しないで」
町田が棘のある態度で言い放ったので、神沢の頭に一瞬血が昇った。しかし、人に冷静になれと言った手前、自分が落ち着いた態度を崩すことは絶対に出来ない。
神沢は自制心を精一杯に働かせ、声をあげずにため息をつくだけに留めておくことが出来た。
アサカは、眉一つ動かさずに目の前で繰り広げられる口論に耳を傾け、痴話喧嘩を見るような眼差しを二人に向けていた。
その妙に冷え切った瞳が、町田の神経を逆撫でするのだ。
「何か言いたいことがあるの?」
アサカと視線を繋いだ町田は、ただ見つめられることに耐えかねて尋ねた。
また強い口調で町田がそうアサカに言うのを聞き、神沢はすかさずフォローをした。
「アサカちゃん、何か話したいのかい?」
猫撫で声でアサカにそう尋ねる神沢の姿が、町田には
滑稽に見えて仕方なかった。
――馬鹿馬鹿しい。
町田は口元を歪ませながら、必死にアサカに語りかける神沢の姿を見ていた。