シンゴ(18)
短い秋が静かに訪れようとしていた。
ベースのあちらこちらに植えられた木々の幹にしがみつく蝉は、夏の終わりを拒むかのようだ。
空は高く、雲は細く伸びており、もう入道雲の影を見ることもないだろう。
夏の暑さも徐々に和らぎ、日が沈んでから窓を開けると、心地よい風が頬を撫でた。
今夜も、涼しい風が吹いている。深い宵闇に包まれた部屋の中で、シンゴとアサカは寄り添って壁にもたれかかり、ただぼんやりと座っていた。
「なぁ、アサカ」
「……」
「俺達、ここに来て良かったな」
「……」
「お前の体調も随分良くなったよな。ここに来た時は、俺も、アサカも、本当にボロボロで……俺はまだましだったけど、お前は……本当に、元気になったよな」
「……」
「アサカ、俺達、ここに来て良かったよな」
「……」
「薬がなけりゃ、俺、いつまでお前のこと守れるか分かんなかったもんな。ちゃんと守るなんて、きっと出来なかった。こんな風に、ずっと側にいて、アサカのことを守ろうなんて、絶対に出来なかったよ」
「……」
「アサカ。兄ちゃん、ずっとお前と一緒にいるからな。もう何も心配しなくていいから。もう、何にも怖がらなくていいんだ
。アサカは、ずっとここにいるだけでいいんだよ。いいな?」
月明かりが窓から射し込んでいた。
白く映る腕。
黒い、黒い影と、小さな、小さなシルエット。
小さな瞳に、月明かりに照らされた大きな手が映る。
大きな影が、小さな影を飲み込み、二つの影が、一つになる。
枝が連なるように、重なった影。
太い枝が、細い枝に食い込むように。
「アサカ。ずっと一緒にいてやるからな」
小さな囁きは、大きな悪意に飲まれてしまった。
大きな瞳が、きゅっと絞まる。
大きな愛情が、小さな雫となって、月明かりに落ちた。
「シンゴ!」
突然、大きな音が部屋に響いた。部屋のドアが、勢い良く開いたのだ。そこに立っていたのは、麻生と、シンゴの監視グループに属する数名だった。
それでようやく、シンゴの手がアサカの首から離された。解放されたアサカは、床に手をついて嘔吐している。
そんな悲惨な様子が、ドアを開いた麻生の目に飛び込んできた。
「どうして……」
そう、呟いた。
「どうして邪魔ばっかりすんだよぉぉぉ!」
どうして。
どうしていつも、俺ばっかり。
苦しいのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
苦しめないでくれよ。
俺だって、楽になりたいんだよ。
俺だって、幸せになりたいんだよ。
ただ、幸せになりたいだけなのに。
何で、邪魔するんだよ。
――お前さえ、いなければ。
耳をつんざく、破裂音。
鼓膜がどうかしたのか、音が聞こえない。さっきまで聞こえていた、アサカが嘔吐する音も、聞こえない。アサカの吐息も、聞こえない。
麻生や、他の人達の声も聞こえない。
何も、考えられない。
頭が、少しずつ、融けていく、みたいだ。頭が、なくなっていく。
何が、起きたんだろう。もう、分からない。
もう、何も、見えない。
アサカの笑顔も、もう――?
「……え?」
シンゴはそう口から漏らすと、後ろ向きに倒れてしまった。アサカのすぐ側まで、まるで吹き飛ばされたかのようにしてシンゴは倒れた。
その瞬間、アサカの頬に、何かが触れた。
風? ――違う。今夜の風は、もっとひんやりとしていた。
雨? ――違う。今夜は、明るい月の出が出ている。
涙? ――違う。こんな色の涙は――。
血? そうだ。これは、血だ。
「あ、麻生さん!」
ようやく、一人が残響を破って声を上げた。麻生の手には、黒い鉄の塊が握られていた。――銃だ。
「え……?」
麻生は正気を取り戻したのか、辺りをぼんやりと見渡していた。
――誰か、たおれてる? あぁ、たすけなくちゃ。あれ、おれ、何でじゅうなんか持ってるんだ? あ、あいつ、血がでてる。たいへんだ。早く、助けないと。いったい、何がおきたんだ? こいつは、どうしてたおれてるんだ? あ、あの、女の子、俺、しってる。あぁ、そうだ、あさかだ。あいつの、妹の。あいつ、の――
「うあああああああ!」
悲鳴のような声が、辺りに響き渡った。銃声を聞きつけたセキュリティー部隊がこちらに向かっているのか、ドタドタという足音が聞こえる。
「シンゴ! シンゴぉぉ!」
麻生が、シンゴの名前を繰り返し叫ぶ。床を這いつくばるようにして進み、麻生は倒れているシンゴの顔を覗き込んだ。
そのシンゴの眉間には、一つ、穴が開いていた。赤い水が溜められた、井戸のような、穴がぽっかりと。
見たことのない表情で、シンゴは天井を見つめていた。目は虚ろに半分だけ開いている。口も同様に、半分だけ開いており、口としての役割を忘れた、ただの穴に成り果てている。
「シンゴ……?」
死んでいる。返事がないのは、当然だ。
――俺が撃ったんだ。眉間に一発。俺が、殺したんだ。
手がぶるぶると震えて、止まりそうにない。寒いわけでもないのに、どうしてこんなに震えるのだろう。あぁ、これは。
これは恐怖か。
ただ、無音。
麻生には目の前の景色がまるで液晶画面の向こうにあるように思えた。音声入力が忘れられているようだ。
自分はそれを眺めるしか出来ない。残像を残しながら、目の前の光景がスローモーションで流れている。
セキュリティー部隊が雪崩れのように部屋の中に流れ込んできている。シンゴの身体に人々が群がり、混乱と疑問と絶望を口々に叫んでいる。何を言っているかは、分からない。
誰かが自分に話しかけているが、返事が出来ない。何を言っているかが聞こえないから、何を答えればいいのか分からないのだ。
自分の存在がなくなったように感じる。何も出来ずに、ただ座り込むだけ。干渉することは許されない。
「どうして、殺したの?」
無音の空間の中に、一つの旋律が響いた。声が聞こえた。
少女の声で、制裁を下す女神のような響きをもった声。
「だって、ああしなきゃ俺が殺されてた」
――麻生管理官?
「俺だって、死にたくなかったんだ」
――おい、救護班はまだか?
「俺がいるから駄目なんだって分かってた。でも、死にたくなかったんだ。苦しくても、死にたくないって思った」
――錯乱してるのか? 麻生管理官、しっかりして下さい!
「俺がいなくなれば、兄ちゃんが楽になるって分かってた。でも死ねなかった! 死にたくなかったんだ」
――しっかり! 麻生管理官、しっかりして下さい!
「兄ちゃんは、俺を殺そうとしたんだ。俺を憎んで、俺を殺そうとした! 死にたくないんじゃない。ただ、殺されたくなかったんだ」
――くそっ、仕方ない。鎮静剤を投与する!
「殺されたくなかった。兄ちゃんに憎しみで殺されるなんて、嫌だったんだ」
「お兄ちゃんは、私を愛してくれてた。あなたとは違う」
「嘘だ! そんなことない! お前だって、憎まれてたんだ」
「お兄ちゃんは私を守ろうとしてくれたの。私を助けようとしてくれてたの。なのに、どうして殺したの?」
「…………」
錯乱した麻生に撃たれたシンゴは、即死だった。
葬儀は本当に形式だけのもので、あっという間に済まされてしまった。悲しみに暮れる暇もない程だった。
麻生は錯乱状態から脱することはなかった。
そしてある日、麻生は姿を消した。それが果たして影で動く上層部の判断なのか、麻生自身の判断なのかは分からない。
シンゴ編がようやく終わりました!!
いや~長かった……
まぁ色んな説明とかが入ってたから、どうしても長くなってしまいました。
もっとうまいこと書けば、短くして、次の人物に焦点をあてた話を展開していけたんでしょうが……
力量不足で申し訳ないです。
まさかの主人公死亡という、最悪なエンディングを迎えてしまったわけですが。。笑
いかがなものでしょうか…
まさかのwwwですね。
ありかなしかで言うと、私自身もなしなような気がします……。(苦笑)
このシンゴ編自体が、プロローグに過ぎない…実はそんな感覚なのです!w
これからもお付き合いしていただければと思います。
ということで、次回からは『アサカ編』に入ります!
乞うご期待。