シンゴ(16)
また、少女が現れた。
もう現れないで欲しいと、どれ程望んだか分からない。
にも関わらず、少女は平然とした面持ちで目の前に佇んでいる。
無感動で、無表情な、瞳。
漆黒に彩られたビー玉のような瞳と、ビロードのように流れる美しい黒髪は、異常なまでに魅力的だ。
何百体と美しい人形を作り上げた人形師でも、これ程までに美しい人形は作れないだろう。
どうして、こんなにも思うのだろうか。
――彼女が、愛しいと。
――彼女が、憎いと。
その感情が重なり合った瞬間に、身体が動き出す。
そして、――。
真っ白の空間が広がっている。
目を開けているのか、閉じているのか。
現実の世界にいるのか、夢の中にいるのかが分からない。
この空間には少女の姿がない。となると、やはり夢からは覚めているのだろう。
目に入ってくる光が眩しくて仕方ない。それに、意識がぼんやりしていてはっきりしない。身体がふわふわ浮いているような感覚だ。
「目が覚めたか」
聞き慣れた声が聞こえ、その声でようやくシンゴは朦朧としていた意識をはっきりとさせることが出来た。
声の主は麻生だった。
そして、ベッドに横たわったままのシンゴと、麻生の間には鉄格子がはめ込まれていた。
ただでさえ意識がまだはっきりとしていないのに、目の前に鎮座している異様な状況をシンゴが理解出来るはずはない。
「これは……ここは、何処だ」
そう口に出したがその声は掠れ、上ずっていた。喉は干からびたように乾ききっており、身体が水分を求めて叫んでいるのが分かる。
麻生が冷ややかな哀れみの視線で、鉄格子の向こう側からシンゴを見つめている。
「特別処置室だよ。表向きはそう言われてる場所だ」
シンゴは鎮静剤によって麻生に眠らされてから、丸二日も眠り続けていた。たかが鎮静剤でそんなことになってしまったのは、どうやらM135のせいらしい。
「アサカは……アサカは!?」
徐々に意識がはっきりしてくるのと共に、シンゴはアサカのことを思い出した。そして、彼女に何かあった、ということだけはしっかり覚えていた。その前後のことは、よく覚えていない。
「神沢のところで預かってもらってる。お嬢ちゃんは無事だ。普通にいつも通りにしてる。安心しろ」
今にもまた興奮して暴れだしそうな様子のシンゴをなだめようと、出来る限り穏やかに言った。しかし、シンゴは納得していないようだった。まだ不安そうで、怒りにも似た色が彼の瞳に宿っていた。
「また暴れたりすんなよ。貧血で倒れるぞ」
穏やかでありながらもきつく命令するような口調だった。いや、鋭くなったのは言葉ではなく、視線だ。麻生はシンゴに目で命令したのだ。
「暴れ……?」
そんな言葉は初めて聞いたというような、余りに曖昧な響きだった。
「お前、やっぱり覚えてないのか」
ま、そうだろうとは思ってたけどな、と諦めを露にした調子で麻生は呟いた。
「俺、何かしたのか?」
シンゴの顔からは、血の気が引いていた。怒りの色は、とうに消え失せている。
「何もしてない奴をこんなとこにぶち込むほど、ここの連中は非常識じゃあない」
「俺……何したんだ?」
そう尋ねるシンゴの語尾が震えていた。
自分じゃない自分が、何かをしたんだ。何かしたのは、俺じゃない。――そんなことを言ったところで無駄なのは重々承知だったが、そう叫びたかった。子供のように、理屈の通らないわがままを言いたかった。
「大したことじゃない。人を殴っただけだ」
そう言われた瞬間、シンゴの右手に痛みが走った。見ると、拳が赤くなっている。
――あぁ、見たことがある。人を殴ると、こうなるんだった。
麻生の言葉を聞くまで、怪我をしたことに気付かなかった。なのに、その一言を聞いて身体が記憶を取り戻したように痛み出したのだ。大した痛みではない。しかし、それ以上にその傷が胸にしみて痛むように感じた。
「でも……何か理由があったんじゃないのか?」
確信はなかった。記憶が飛んでしまっているのだから、無理もないだろう。けれど、理由もなく人を殴り飛ばす程、自分は非常識で暴力的な人間ではないと信じていた。信じたかった。
シンゴのその言葉を聞いた麻生の表情がふっと翳る。
「理由ねぇ……」
麻生は独り言のように呟いた。シンゴから視線をそらして空を見つめる麻生の横顔には、様々な感情が渦巻いて層を成しているようだった。
「なぁ、俺、何したんだ?」
思い詰めた口調でシンゴが尋ねる。麻生が再びシンゴの目を射抜いた。
「お前、本当に知りたいのか?」
シンゴの心臓が、跳ね上がった。ドクン、と。
本当に、知りたいのか――?
分からない。知りたくない。分からないままにしておいて、今までと何も変わらずに過ごしていたい。アサカと、ずっと二人で。
でも――。
「教えてくれ」
しばらくの沈黙のあと、シンゴは言った。小さな呟きだった。しかし、その覚悟は大きかった。
何も知らないまま、アサカを守っていくことは出来ない。彼女のために、強くならなければならない。そう思ったのだ。
「じゃあ、教えてやるよ。落ち着いて聞けよ」
そう言って麻生は、すでに数回繰り返し他人に話してきたことを一切偽りなくシンゴに伝えた。