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シンゴ(15)

 シンゴは驚く程に爽やかな気持ちだった。

 昨日までの憂鬱な気持ちが、本当に嘘のようだ。神沢の一言で、こんなにすっきりするなんて。神沢さんはさすが精神のスペシャリストだ。あのユウコさんが言うだけはある。本当にすごい。

 シンゴはそんなことを思っていた。

「今日の晩御飯には何があるかな。アサカの好きなハンバーグがあるといいな」

 シンゴは本当に屈託のない笑顔をアサカに向けた。

 アサカは相変わらず無表情だったが、シンゴは構わなかった。こくりと小さく頷くアサカが可愛くて仕方ない。

 きっと、アサカのこの病気も治る。俺がアサカを治してやるんだ。絶対、俺がついてれば大丈夫だ。

 異常なまでの自信さえ、シンゴは決して異常だとは思わなかった。

 日が沈み、夕食の時間になったので二人は食堂に向かった。

「おい」

 ぶっきらぼうな声色が、背後からシンゴの耳に届いた。

 振り返ると、そこには麻生がいた。

 どうしてこいつは行く先々に現れるのか。やっぱり監視されていて、何処で何をしているかなど、全て筒抜けなのだろう。

 軽やかな足取りで麻生がシンゴとアサカの元に近付いてくる。

「今から飯か? 俺もなんだ。一緒に食おう」

「あぁ、いいよ」

 そう応えたシンゴを見た麻生は、違和感を覚えた。

 ――こいつ……やけに明るいな。

 麻生がそう思うのも無理はない。さっき町田の研究室で見たシンゴとは、まるで別人のようだったからだ。

 憑き物が落ちた、と言うのが相応しいだろう。シンゴは何の疑いもなく、本当に明るい笑顔を麻生に向けている。

 神沢が何かしらの処置を行なったのかと思い、麻生は妙な違和感を押しやった。

「よっしゃ。飯食うぞ、飯」

 麻生の掛け声と共に、三人は再び食堂に向かって歩き始めた。


 残念ながら、ハンバーグはなかった。今日のメニューは、和風定食だ。

 シンゴがおいしそうな臭いに鼻をくすぐられながら、料理が手元に届くのをカウンターで待っている時だった。

 突然、大きな音が食堂内に響き渡った。その派手な音から、恐らく誰かがトレイをぶちまいたのだろうことが予想出来た。

 その場にいたほとんどの人が、音の鳴った方を見やる。シンゴも例外ではない。

 そしてシンゴは見た。

 アサカが。

 視覚からの情報が頭に届いた瞬間、シンゴはアサカの元へ駆け出した。

「アサカ!」

 アサカは床に這いつくばるようにしていた。彼女の周りには、トレイに載っていた料理が無惨に散乱している。

 その脇では、一人の男がしゃがみこんでアサカを心配しているようだった。

 咄嗟に、シンゴの脳内に一つのことが稲妻のように思い浮かんだ。

 ――あの男が……!

 人を掻き分けて走りながら、気が付くと叫んでいた。その様子は、明らかに冷静ではない。

「てめぇ、アサカに何しやがった!」

 その怒声に、麻生が気付いた。シンゴの元へ急ぐ。

「シンゴ! よせ!」

 張り詰めた声が食堂内に響く。周りの人々が蟻の大群のように蠢いている。あっという間に食堂はざわざわとして、落ち着きのない様相へと化した。

 シンゴには、アサカとその男しか見えていなかった。形振りを構うどころか、そうすることさえも忘れ去っているようだ。

 人だかりから、勢い良くシンゴが飛び出してきた。そして、その勢いで力任せに男を殴り付けた。

 男は不意をつかれたせいか、料理の残骸が散らばっている床に倒れ込んだ。

「何してやがる!」

 それとほぼ同時に飛び出してきた麻生が叫びながら、シンゴを羽交い締めにした。

「何しやがる! 離せ! アサカが!」

 よほど興奮しているのか、シンゴは羽交い締めにされても喚き散らし、暴れまわっている。

「大人しくしろ!」

 麻生がそう言った瞬間、シンゴの視界が反転した。何が起きたのかも分からないまま、床に組み伏せられていた。

「何事だ!」

 地鳴りのような低い怒声が響き、食堂にバタバタと人が雪崩れ込んできた。セキュリティー部隊だ。

「こいつに鎮静剤を!」

 シンゴを押さえ付けたまま、麻生が言い放つ。

「麻生管理官! 一体何が!」

「いいから早く鎮静剤を! 説明は後だ!」

 セキュリティー部隊の一人がピストルのような形をした注射器を取り出し、麻生に手渡した。

「何しやがる! やめろぉぉ!」

 手負いの獣のように暴れるシンゴに、ピストルが突き付けられる。

 プシュッという空気が抜けるような音がすると、あっという間にシンゴは大人しくなった。

 そして、そのまま床に伏せるようにして眠ってしまった。

「くそっ……この馬鹿野郎が」

 麻生が息を切らしながら言う。

「麻生管理官……」

 セキュリティー部隊の一人が言う。全く状況が理解出来ないから、説明してくれとでも言いたいのだろう。

「とりあえずこいつを治療室にでも運べ」

「独房ではなく、ですか」

 冷静な声で一人が言うと、麻生は押し黙った。一息置いて、麻生が再び口を開く。

「何処でもいい。とにかくここから連れ出せ」

 は、という歯切れのいい声がすると、セキュリティー部隊が一斉に動き出し、シンゴを担ぎ上げて麻生の指示通りに食堂から連れ出した。

 一部始終を間近で見ていたアサカは、呆然として床に座り込んでいる。

 この年頃の女の子であれば、恐怖の余り泣き出しても全く不思議ではない。しかし、アサカは目に涙を溜めることもなく、部屋の片隅に置かれた人形のようにただ目の前の様子を見つめていた。

 麻生はそんなアサカを見て居たたまれなくなり、彼女に声をかけた。

「大丈夫か?」

 静かに尋ねると、アサカもそれに合わせるように静かに頷いてみせた。しかし、それで安心するかと言うとそうではなく、逆に心配になった。

「悪いな。怖かっただろ。でも、誰も悪くないんだ。お前の兄ちゃんもな」

 また、小さく頷く。

 本当に、何だか不思議な少女だと麻生は思った。神秘的とさえ思える。

「お前はとりあえず神沢のとこにでも行っとけ。部屋で一人でいるより、その方がいいだろ」

 また、アサカが頷く。

「神沢に連絡しておくから、行ってこい。また、兄貴が落ち着いたら神沢の方に連絡するよ」

 今度は、頷かなかった。その代わりに、音もなく立ち上がると食堂の出入口に向かって歩き始めた。

「麻生管理官」

 タイミングを図っていたのか、セキュリティー部隊が麻生を呼んだ。

「ご同行願います。倉田所長と、町田研究室長がお呼びです」

 麻生はため息をついてから、はいはい、とおどけたように返事をした。


 セキュリティー部隊に連れられて所長室へ向かう途中、麻生は神沢のところに内線を繋いだ。

 ベースのスタッフ全員が装着を義務付けられている、小型のイヤーマイクで連絡を取る。

「E02から、H12へ。麻生だ。神沢、応答しろ」

 ノイズのない明瞭な音声で、神沢からの応答が麻生に届く。

『こちらH12。どうしたんだ?』

 神沢の声も、何処か緊張しているようだった。麻生が神沢に内線を繋ぐなど滅多にないことなので、何かしらの緊急事態があったことを察したのだろう。

「一八時三〇分頃、ベース食堂にて櫻田シンゴが錯乱状態に陥った。原因は未解明。彼の妹の櫻田アサカの保護を要請したい」

 麻生が淡々とした口調で簡潔に用件を告げると、イヤホンから神沢が息を飲むのが聞こえてきた。

『了解。櫻田アサカをこちらで保護する』

 神沢はあくまで冷静に振る舞っていた。今、事態の説明を求めるのは適切ではないと判断したのだろう。

「追って連絡をする。頼んだぞ」

『了解』

 内線は、そこで切れた。

 麻生を取り巻くセキュリティー部隊の面々が、怪訝な顔で麻生の様子を見ている。

 麻生はその奔放さ故、大多数の同僚からはあまり好かれてはいない。その一方で、一部の者からは絶大な支持を受けている。町田や神沢がそれだ。所長である倉田も例外ではない。

 自分勝手で適当なくせに実力があり、そういった権力を持つ者に気に入られていることが、反感を買う要因だ。

 麻生はそれを知ってか知らずか、だからといって態度を改めようとはしない。

「麻生管理官、身勝手なことは控えて下さい」

 部隊の人間がそう言っても、麻生は相変わらず適当に返事をするだけで、余計に周囲の者を苛立たせた。

 麻生が所長室に入ると、そこには町田率いる優秀な研究員が数名と、倉田とその部下達が控えていた。

 重苦しい空気に麻生は内心うんざりしながらも、表面上はしっかりと改まった態度をとる。そんな中、倉田の低い声が響いた。

「何故君がここに呼ばれたかは言うまでもない。櫻田シンゴが錯乱状態に陥った際の事情を説明してくれ」

 背筋をピンと伸ばし、胸を張ったまま麻生は了解の意を示す返事をした。

「私は一八時頃、櫻田シンゴ、そして彼の妹の櫻田アサカと共に食堂へと向かいました。食堂に到着し、各々で料理を注文している時、櫻田アサカが何らかの衝撃を受け、倒れたようでした。それを見た櫻田シンゴが突発的な興奮状態に陥り、櫻田アサカの近くにいた男に殴りかかりました。事態の複雑化、他の臨床試験対象者の安全を守り、混乱を避ける必要性があると判断したため、駆け付けたセキュリティー部隊の者に鎮静剤を要求し、それを櫻田シンゴに処方しました。私が知るのは以上です」

「よく分かった。ありがとう」

 倉田は椅子に深く腰掛けながら、麻生の口上を聞いていた。町田は終始、難しそうな顔をしていた。何かを考えているようだ。

「私がついていながら、このような事態に至ってしまい、所長、室長の貴重なお時間を浪費させてしまったこと、深く反省しております。櫻田シンゴの監視、またその強化を町田室長から直々に承っていたにも関わらず、大きな失態を犯してしまいました。処分の方は覚悟しております」

 麻生は神妙な態度を保ちつつ、そう言った。実際、どんな処分が下ってもおかしくないと思っていた。町田の期待を表面的には大きく裏切ったことになるのだから。

 個人的な交流はあるものの、階級では町田の方が数段も上だ。上司の命令に背くことは許されない。

「確かに、麻生にも責任はあるわ。あなたが監視を怠ったわけだからね。そしてそれによって、大きな混乱を招くことになった。それなりの処分を下すつもりよ」

 町田は厳しい口調で言った。そしてその直後、こう続けた。

「でもその前に、私達に協力なさい。事態の究明と、その対応策を練らなければならないわ。いいわね?」

 麻生は町田の視線から、彼女の真意を読み取った。

 町田は麻生を庇おうとしているのだ。麻生は視線の先にいる町田に、目を鋭くして訴えた。馬鹿な真似はするな、と。

 付き合いの長い二人の仲だ。麻生の思いは町田に確かに伝わったはずだった。しかし、町田はそれをあからさまに無視した。町田は視線を逸らすと、その先に倉田を捉えた。

「所長、この度の事態は私にも責任があります。様々な要因を考慮せず、正しい対応を私自身も怠っていました。このような事態が、またいつ発生するか分かりません。今回の件を深く考察し、今回のようなパターンにおける対応策を他の臨床試験対象者へも正しく適応するためには、麻生管理官の協力が必要です。それを踏まえた上で、適切な処分をお願い致します」

 こいつ馬鹿か、と麻生は声に出さずに罵った。下手をすれば、彼女自身にも処分が下ってもおかしくはないのに。

 しかし、処分が軽くなるならばそれに越したことはない。このまま成り行きを黙って見守り、甘んじて処分を受けようと、麻生は意を決した。

 町田の口添えを耳にした倉田は低く唸りながら、考えていた。

 倉田の側近の部下や研究員の一部の者たちは不服そうな表情を滲ませていた。

 町田が言うことはもっとものように思える。しかし、このような事態になったことをそう易々と看過してよいものか――彼等のそんな胸の内の葛藤が部屋の空気に溶け込んで、麻生に届いていた。

「麻生管理官」

 倉田が口を開いた。緩みかけていた姿勢を改め、麻生が返事をする。

「これより、処分を言い渡す」

 その瞬間、倉田の言葉を待つ者が一斉に息を飲むのが分かるほど、静まり返った。町田でさえ、わずかに緊張した面持ちで倉田の口元を見つめていた。当の麻生は覚悟を決めているためか、微動だにせず、ただ処分の内容が告げられるのを待っている。

「町田研究室長のこれからの活動の協力に尽力せよ。その後、一週間の謹慎を命ずる」

 誰も声を発することはなかった。だが、ざわ、と空気が揺れ動いた。誰もがもの言いたげにしながらも、それが許されないということを理解し、敢えて歯向かおうとする者はいない。

 麻生の処分は、決定した。この程度で済んだのは、ひとえに町田の口添えのおかげだろう。

「謹んで処分をお受け致します」

 そう言って、麻生は一礼した。

「活動については、町田所長に指示を仰げ。町田くん、後は頼む。思い切りこき使ってやってくれ」

 そう告げた倉田の口元は、何処かにやりと笑っているようにも見えた。

「かしこまりました」

 町田は美麗な仕草で倉田に対し、深々と頭を下げた。

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