シンゴ(14)
目の前にある扉を開くことが出来なかった。
いつもなら、そこに扉があることを忘れているように通り抜けることが出来るのに。
この扉は、開けることが出来ないのではない。ただ単に、その先にあるであろうものを恐れているのだ。
何があるかも、分からないのに。
アサカが自分を待っている。
早く迎えに行かなければ、アサカが心配する。不安になる。
けれど、アサカと対峙することが怖い。
神沢に、自分の思いを伝えるのが、本当の思いを探られるのが怖い。
突然、体が揺れた。横からの衝撃が加わり、バランスを崩す。
シンゴはその次の瞬間には事態を理解していた。
アサカだ。
漆黒のビー玉をはめ込まれたような瞳が、シンゴの顔を見上げている。
表情のない彼女は、まるで精巧なからくり人形のようだ。
「はは、シンゴ君、大丈夫?」
アサカが来た方向からのんびりと歩いて来ているのは、神沢だ。いかにも好青年であると言わんばかりの爽やかな笑顔を、余すことなくシンゴとアサカに振り撒いている。
「大丈夫ですよ。神沢さん、ありがとうございました」
神沢のようにはいかないが、シンゴも彼に対して最良の笑顔を向けた。
「構わないよ。グラウンドで遊んでたんだ」
神沢が二人の元に辿り着いた。笑顔以外の表情が欠落しているのかと思うほど、神沢は完璧な笑顔を維持していた。
「グラウンドで?」
シンゴは神沢の言葉を繰り返して、それを確認した。何かの間違いなのではないかと思ったのだ。
シンゴと麻生がグラウンドで暴れまわっていても、アサカはいつもそれを傍らから見つめているだけで、参加することはなかった。
彼女が元気に遊び回る姿など、久しく目にしていないことをシンゴは神沢の言葉で回顧した。
「そうだよ。彼女と同年代の子達が、ここにもいるからね。十人にも満たないんだけど……彼等の遊びに混ぜてもらえないかと思ってね」
「そうなんですか」
シンゴは衝撃を受けていた。
アサカに自分の手元に置いておくことに固執し過ぎていた余りに、大切なことを忘れてしまっていた気がしたのだ。
シンゴは後悔の念に駆られた。
「ちょっとゆっくり話さないかい? お茶でも飲みながら」
無意識のうちに俯いてしまっていたシンゴに、神沢が優しく声をかけた。シンゴの胸の内を僅かながらも察した故だろう。
神沢に誘われるままに、シンゴは扉の奥へ進んだ。
いつもと何ら変わらない、清潔感に溢れた診察室だ。見慣れたこの風景がやけに胸にしみるように感じた。
アサカがパタパタと足音を立てながら神沢のあとをついていく。その様子はペンギンの雛を思わせる。その姿をシンゴは少し後ろから離れて見ていた。
――まただ。
また、妙な感じがする。身体の末端から微弱な電流が流されているようだ。指先が微かに震えているのが、自分でも分かる。
心が、震え出す。
アサカを見ていると、徐々に電圧が上がっていくようだ。違和感が増幅していく。
心が、重くなる。
それに比例して、身体が重くなっていく。地球の引力がうんと強くなったのかと思うほどだ。身体が、重くて仕方ない。
動けない。
「シンゴ君?」
その声にはっとする。
神沢が心配そうな面持ちで、シンゴを見ている。その脇に佇んでいるアサカも同様に。
アサカの視線は、シンゴの全てを貫くようだった。何もかもを、突き刺していく。
何を言えばいいのか分からず、シンゴは咄嗟に謝った。声が震えてはいないかと不安になった。
いつものように、アサカは別室に連れられていった。神沢の元で働く女性スタッフが、アサカに柔らかな笑顔を向けるのを見て、シンゴはほっとした。
パタン、とドアが遠慮がちな音を立てて閉まった。
それを見届けてから、神沢がため息混じりに話し出した。
「浅香ちゃんのためになるかなぁと思ったんだけどね……」
珍しく、神沢が意味深なことを口走った。同時に、シンゴの中には不安が過ぎる。
不安げなシンゴの視線が神沢に次の言葉を急かす。
「シンゴ君も、思っていたんじゃないかい? 彼女がずっと自分といることは、果たして本当に彼女にとっていいことなんだろうか、って」
やはり、神沢は先程のシンゴの心情を察していた。さすが、というべきだろう。
「はい……その通りです」
「うん、僕もそう思ったんだよ。だから今日、彼女を子ども達のところに連れていったんだ」
神沢の目には落胆の色が窺える。表情も何処かどんよりとしていて暗い。でもね、と逆接の言葉で神沢は繋げた。
「彼女はいつもと変わらなかった。いや、いつもよりずっと退屈そうだった。一人の子が声をかけても、たまに反応するくらいだ。そのうち、周りの子ども達が嫌がって近付こうとしなくなった……」
神沢の口からはため息が漏れ出し、シンゴはため息を吐き出すことさえ出来なかった。喉を押さえつけられているような切なさが、シンゴに覆い被さる。
――自分のせいなんだろうか。自分が、アサカの他人との交流を遮断してしまっていたから、だから、アサカは他人と触れ合うことをやめてしまったのかもしれない。
「俺の……せいなんでしょうか」
知らず知らずのうちに、そんな言葉がシンゴの口から溢れ出していた。
神沢の表情がわずかに曇る。
「そんなことはないよ。むしろ、君の判断は正しかったと思う。家族を失ったショックが、彼女をああしてしまったんだ。そんな時に、彼女を支えられるのは君しかいなかったんだから」
神沢は半ば必死になりながら、シンゴを励ました。
神沢も、このベースの構成員だ。薬による精神への影響については、人一倍理解している。故に、不安定な状態に陥りやすいことも知っているのだ。だからこそ、彼を落ち込ませるわけにはいかない。アサカの為にも。
「君がいたから、アサカちゃんは生きていられた。それが尊いことであることは、彼女も察しているに違いないよ。君への信頼も、それが分かっているからこそだ」
そう言われたものの、何処かわだかまりが残っているような表情のシンゴに、押しの一手を加える。
「君は、何も悪くない。シンゴ君は、アサカちゃんに絶対に必要な存在なんだ」
神沢は何とか彼の中の自信を維持させたかった。そうでなければ、アイデンティティーのバランスが――。
「そう……ですよね。俺が……アサカを守るんだ。俺じゃなきゃ駄目なんだ」
シンゴは、自己暗示をかけるようにぶつぶつと呟いた。
その様子を見た神沢の背筋に、不気味な悪寒のようなものが走った。
M135の、真の威力を知った気がした。
つい数秒前まで消え入りそうな目をしていた少年が、自分が発したたった一言で蘇り、今はこんなにも瞳を輝かせているのだ。
――町田所長…あなたはなんてものを……。
「神沢さん、ありがとうございます。俺、最近何だか気分が重くて……憂鬱になってたんです。でも、今の神沢さんの言葉で、元気が出ました」
本当に明るくなった。まるで別人のようだ。風貌が変わってしまったようにさえ思うほどだ。
神沢の脳内を支配しているのは、畏れ。
彼に対してではなく、薬と、それを生み出した町田への畏れだ。彼は言わば、その二つを体現しているに過ぎない。しかし、それこそが畏れの対象にすり替わってしまう。頭の中ではそう理解していても、目の前の畏れに対しては、もはやひれ伏すしかない。
「そうか。良かった。本当に大丈夫かい? 何か心配なことがあるなら、いつでも相談に乗るからね」
神沢の笑顔がわずかに崩れている。さっき見せた完璧な笑顔は、もうない。辛うじて笑顔は作っているが、それを見るものに本心を悟られかねない、不器用な笑顔だ。
「大丈夫ですよ。俺のことより、アサカの方を頼みます。神沢さんのこと、俺、信じてますよ」
にっこり、とシンゴが微笑む。決して悪意のない笑顔ではあるが、その表情からは異常な執着心のようなものが見て取れた。アサカに対するシンゴの執着心が、明らかに露見した。
「あぁ、分かってるよ。期待を裏切らないように、しっかり努力しよう」
神沢も、シンゴに笑顔を返した。しかし彼の背筋には、妙な汗が流れ落ちていた。違和感を悟られぬよう、細心の注意を払う。
「じゃ、今日は帰りますね」
快活な口調でシンゴが神沢に別れを告げる。神沢がこんな明るいシンゴの声を聞くのは、もちろん初めてのことだった。
「あ、ああ。お疲れ様。また三日後においで」
はい、というやけに明るいシンゴの声が白い壁に吸い込まれていった。
別室にいたアサカと共に、シンゴが診察室を出て行く。その様子は、とても幸せそうだった。この暗い世の中では、あれ程幸せに満ちた表情が逆に不気味に思える。
神沢に絶大な違和感を残したまま、シンゴは去って行った。