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シンゴ(13)

「面倒なことになったわ」

 シンゴの去った部屋で、町田がキンと冷たく張り詰めた声で呟いた。それは独り言だったのか、それとも麻生に向かって呟いたのかは分からない。

 麻生は何となく察しはついていたものの、確信はなかった。それ故に、町田の言葉を聞いた瞬間、間の抜けた声が唇から漏れ出した。案の定、町田の厳しい視線が麻生に突き刺さる。

「シンゴ君のことに決まってるでしょ」

 その視線に相応な、棘のある口調で町田が言い放った。

「あぁ、成る程。でも、何が面倒なんだ?」

 相変わらず町田は険しい顔付きをしている。彼女の頭の中は今、ぐるぐると回転して様々な情報を整理しているところなのだろう。いちいち耳と癇に障る麻生の締まりのない声が、彼女の思考を妨害する。

「うるさいわね、ちょっと黙ってなさい。今、色々考えてんのよ」

 町田が声を荒げる。それでようやく麻生は口を閉ざし、それなりに真剣な表情をしてみせた。麻生にそうさせるまでに、町田の雰囲気は張り詰めていた。

 町田はソファーの背もたれに全体重を預けるようにし、天井を仰いだ。蛍光灯の人工的な白い光が、瞼を閉じてもその存在を主張してきてうざったい。

 こうしていると、余計な情報が頭に入ってこない分、一つの思考に集中できるのだ。更に集中しようとして、町田は麻生に煙草の提供を求めた。

「また? 今度ちゃんと返してくれよ? 安くないんだから」

 一箱二十本入りで二千円。大して需要のない、高級な嗜好品として、煙草は存在している。彼らは一応、政府お抱えの組織の要人であるので、これくらいの贅沢は出来る身分ではあるのだ。

 天井を仰いだままの町田の赤い唇から、白い煙がゆっくりと立ち上っていく。彼女の瞳は焦点があっておらず、ぼんやりと空の一点を見つめていた。その瞳は思考の渦に陶酔しているのか、妙な色気があった。

「考えはまとまった?」

 頃合を見計らって、麻生は町田に尋ねた。煙草をくわえているせいか、彼の口元は普段よりも皮肉っぽく見えた。

「一応はね。まぁあんたの仕事を増やせば大丈夫だと思うから、安心なさい」

「どういうことだよ」

 さすがの麻生も、にやにやとしてはいられないようだ。眉をピクリと吊り上げ、あからさまに不満そうな表情で町田を睨む。

「シンゴ君の監視を強化なさい」

 町田は棘があるわけではない、強く鋭い口調で命令した。

「あ? 何でまた……別に問題ないんじゃないの?」

 仕事の中身を聞いても、麻生はいまいち腑に落ちないままだった。

 シンゴといるのは決して苦ではない。むしろ遊び甲斐があるので、くだらなくて堅苦しい仕事に勤しむことに比べればずっといい。町田の命令ならばと、進んで監視してやりたいところだ。しかし、どうしてそんなことをしなければならないいのかが全く分からない。

「あんた聞いてなかったの?」

 天井から麻生へと視線を移した町田の表情には、苛立ちと呆れが見て取れた。煙草の煙と共に、肺の奥からあらゆる感情を吐き出したような大きな溜息が吐き出される。

「M135が良くない方に作用している可能性があるのよ。いえ、本当に悪くなるのはこれからかしら。いずれにしても、今の彼は危険、と言えるわ」

「どう危険なんだ?」

「さっきも話したんだけどね……まぁいいわ」

 そう言うと町田は半ば面倒臭そうに、さっきした話と重複する部分と併せて話し始めた。

「今シンゴ君の中にはある願望がある。そして彼はまだそれを認識してはいない。故に、その願望を意識的に達成することは出来ない。けれど、それを達成しないことなしに、彼の精神状態の安定は得られない。問題は彼自身がそこからどうするかなのよ」

 どういうことだと言わんばかりの麻生の反応を見て、町田は自ら続きを語り出した。

「M135が精神に作用するのは、既に周知の事実よね。報告書や、実験のデータを見ても、それはもう間違いないわ。興奮剤に似た効果が現れるのは、麻生も知ってるでしょ? 興奮剤を服用してるときの心理状態がどんなか……想像できる?」

 麻生は少し髭の伸び始めた顎に手を伸ばして、如何にも考えているという風なそぶりを見せた。

「妙にハイになるんだよな? それに、怒りやすくなったり……とか? 気が大きくなるんじゃないのか?」

 その通りと、町田は軽く笑う。鼻で笑うような吐息が、張り詰めた空気を揺らした。

「普通の興奮剤ならそう。気が大きくなり、喪失した自信なんかを強制的に引き出す。過剰な自信により、自分がやることに間違いなんてない。そう思うようになるの。それでハイになれる。でも、M135はそうじゃない」

 町田は麻生に不敵な笑みを向けた。

「M135はあくまで従順で強靭な部下を生み出すためのもの。そこらの野蛮な興奮剤とは違うのよ」

 野蛮。その言葉を使って、町田は他の化学者を堂々と見下す。私は他の奴とは違う、と。

「M135を飲んだ者にはね、強い暗示がかかってるの。絶対的な自信と、絶対的な服従の暗示がね。シンゴ君をご覧なさい。ここに来たときより、ずっと聞き分けが良くなったでしょ?」

「あぁ、そうだな。おかげで面白くない」

 瞳の中に退屈を映し出した麻生がそう言うと、町田は乾いた声で笑った。「あんたはまぁそうでしょうね」と、独り言のように呟く。

「でもね、バランスが難しいのよ。絶対的な服従を実行するには、自信の欠如が必要なの。そうでしょ? 自信に満ち溢れた者は、必ず他者を支配しようとする。そんな正反対の感情の狭間なら、不安定になるのは当然」

「無茶苦茶じゃないか」

 麻生が皮肉を込めた笑顔で言う。

「無茶苦茶なのをどうにかするのが、M135の力でもあるのよ」

「は?」と、再び麻生が間の抜けた声をあげた。町田は、そのリアクションを待っていたと言わんばかりの笑みを溢す。

「服従によって、自信を増長させるのよ。人間というのは、常に善くあろうとし、そうあるために努力する。そして、それでいて安定を求める。絶対的な服従の下ならば、安定が得られる上に、努力を評価されることで、更にそれを継続させることが出来る」

「そんなうまいこといくもんなのか?」

「うまいことさせんのが私の仕事よ」

 町田の目に鋭さが宿る。しかし、その次の瞬間、それは憂いに満ちた。

「こんな世の中で、自信を何処かになくしてしまって、迷いと絶望に襲われて、いつしか心さえもなくしてしまう。そんな人たちを救いたい。……あなたも同じでしょ?」

 迷い。悲しみ。苦難。

 町田はすがりつくような目で麻生を見た。いつもは巧みに隠されている町田のそんな弱々しい心を、麻生は見ていられなかった。

 すい、と視線を落とし、力なく返事をするのが精一杯だった。

 ところが、町田はすぐに強さを取り戻した。さっきの儚げとも言えるような目の色は、すっかり消え失せている。

 町田はいつもの強さを持つ口調で話し始めた。

「シンゴ君は今、不安定な状態にあるのよ。彼が服従する拠り所となっているのは、恐らくアサカちゃんね。今も、これからもそうであるはずよ。彼女のためなら何だって出来る……そんなことを考えているはずよ」

「あぁ、確かにあいつはそんなことを言ってたよ。アサカがいたから今まで頑張れた、とかな」

「そして、その思いはM135の作用で強まっているはず。それと同時に自分を過信する思いもね」

「じゃあ、やっぱり問題なんかないんじゃないのか?」

 何を察するでもなく呑気にそう言う麻生に、町田はほとほと呆れ果てたと言うようなため息をついた。

「いい? M135の効果が完全に定着するには、時間がかかるのよ。個人差はあるけどね。信念や強い意思を持つ人間は特に時間が必要なの。彼もそんな人間の一人ね。自己の意思と、薬の効能による意思との狭間で苦しめられるの。せっかく確立したアイデンティティーが揺るがされたら、不安定になるのは当然。……今のシンゴ君は、そういう状態だと推測できる」

 なるほど、と呟く麻生の声色は、本当に理解したのか疑わしくなるほど軽かった。

「だから監視を強化しろって?」

「そうよ。監視というよりは、彼の心情を出来るだけ汲み取って頂戴。何をどんな風に考えているのかをね」

 町田がそう言うと、麻生は馬鹿馬鹿しいと嘲笑うような笑みを浮かべた。

「俺はあいつの兄貴じゃないんだけどな」

「でも、彼はそれなりにあんたのこと信頼してると思うけど?」

 麻生にも勝るとも劣らない嘲笑を浮かべ、町田は言った。「そうだといいけどな」と言う麻生の表情は相変わらず掴み所がない。彼は一体、どんなことを考えているのだろうか。彼の本質を知りうるのは、いつも彼のみである。いや、彼自身も知りえてはいないのもしれない。

「頼んだわよ。あなたも、彼を失いたくはないでしょう?」

「……話は終わり?」

 町田の問いに、麻生は答えようとはしなかった。答える意思のない者に、答えを求めるのは野暮なことに過ぎない。

 麻生の問いに対し、町田が肯定の意を伝えると、彼は飄々とした、それでいて何かを避けているかのように思わせる足取りで部屋を出ていった。

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