シンゴ(11)
それから更に三ヶ月が過ぎても、アサカの症状は改善されなかった。
以前に比べ、意思表示(首を振るだけだが)やそれぞれの動作は活発にはなったが、相変わらず感情が表に出ることはなく、声を発することもなかった。
堅く、心を閉ざしたままだった。
一方のシンゴは、見違える程の変化を遂げていた。周囲の人間とも、積極的に関わるようになり、研究スタッフやカナコ、麻生ともこの所は多く言葉を交わしている。
シンゴ自身には、それが薬のおかげであるという自覚はない。毎日、毒々しい色をしたカプセル状の薬を飲むことにも、抵抗はなくなっていた。毎日の習慣として、当たり前に受け入れていた。
「おい、シンゴ。野球すっぞ」
シンゴとアサカの住まう部屋に、麻生が突然押し入ってきた。娯楽用に保管されている、グローブと金属バットをこれ見よがしに担ぎながら。
「またかよ。仕事は?」
うんざりした顔でそう言うシンゴだが、その表情は明るかった。口元には偽りのない笑みが溢れている。
「ったく、お前までそんなしけたこと言うなよな。なぁ、アサカ」
アサカは小首を傾げる。アサカに振るなよ、とシンゴがため息混じりに言う。
「ほら、早くグラウンド行くぞ。一発かっ飛ばそうぜ」
バットをブンブンと振り回しながら、麻生は駄々をこねるようにシンゴに訴える。
「何で俺達があんたに付き合わなきゃならないんだよ。こっちは毎日実験だの何だので体動かしてんだから、ちょっとぐらい休ませろよ」
「いいじゃねぇか。ほら、行くぞ!」
ずかずかと部屋に入り、シンゴの腕を強引に引っ張る。
ぶつぶつと文句を言いながら、シンゴは立ち上がった。麻生に引きずられてグラウンドに向かうシンゴの後を、アサカが親鳥を追う雛のように、とことことついていく。
季節はすっかり春になっていた。ぽかぽかとした日の光が心地いい。しかし、一度日陰に入れば、取り残されている冬の寒さが肌を刺すようだった。
人工芝のグラウンドには、幾つかのグループが春の訪れを喜んでいるように戯れていた。
バレーボールをしたり、輪を作って談笑していたりと、とても一研究施設であるとは思えない程、活気に溢れていた。
カキーン、と高らかな金属音がグラウンドに響き渡った。
「こんの馬鹿力!」
グローブをはめたシンゴが、空高く美しい弧を描いて飛んでいく白球を身を翻しながら目で追う。
「この俺を相手にしょぼい球投げるお前が悪いんだよ」
さながらガキ大将のように横柄な態度で麻生が叫ぶ。
「早く取ってこい」と、バットを振り回しながら言う麻生の声に、シンゴは悪態をつかずにはいられない。舌打ちをして、遥かグラウンドの端まで遠慮なく飛ばされたボールを追いかけていった。
青々とした芝生の上に転がる白い点に、誰かが近付いていくのが見えた。
「すいません」と、シンゴはその人物の耳に届くように声を張り上げた。両手を大きく頭上に掲げ、こっちに投げてくれと言う代わりにその手を大きく左右に振る。
「野球してんの?」
その人物はボールを拾い上げると、それを投げずにシンゴに言葉を投げてきた。
「はい」
「俺も混ぜてよ。キャッチャーやるからさぁ」
「おう、やれやれ」
彼の申し出にそう言って返事をしたのは、シンゴではなく、その遠く背後に立っている麻生だった。
小さく見えた人影はボールを放り投げ、こちらに駆けてきた。
シンゴのグローブの中に、ボールが飛び込んできた。
その数秒後に、シンゴの元に男が辿り着く。
「俺、藤田。藤田マサヤ。よろしく」
彼は慣れたような感じで自己紹介をした。シンゴもそれに倣って、自分の名を彼に告げる。
「早く戻ってこい!」
振り返ると、麻生が地団駄を踏んでいた。
「分かってるよ! 黙って待ってろ」
シンゴは怒りを含ませた声で叫んだ。
「あれ? あれって麻生さんじゃないの?」
マサヤはシンゴの肩越しに麻生を見ながら言った。
「知ってるんだ」
マサヤが頷く。「当たり前じゃん」と、知っていることが常識であると言わんばかりの勢いで言った。
「あの人、変わり者だって有名だよ。あれで、肩書きは結構いいらしいし」
不思議だよな、と悪戯好きの子供のような笑顔でマサヤは言う。
麻生が結構な身分なのは何となく知ってはいたが、それが本当だというのは半信半疑だった。が、マサヤの言葉でそれが事実であることをもはや認めざるをえなくなった。何となく、癪だ。
また一人、友人が増えた。以前なら、煩わしいとさえ思えたそのような関係が、今は心地よかった。
麻生は、投げても打っても滅茶苦茶だった。
本人は、世が世なら俺はプロ野球選手になっていたと豪語している。その腕前は悔しくも確かであった。
常に、無駄に本気で挑んでくる麻生のせいでシンゴは疲労困憊だった。マサヤは終始にこにこしながらキャッチャーに徹していた。一体何がおかしいんだと尋ねたくなる。
麻生の投げる球にはバットを当てることさえ叶わない。それが分かり、わざとバットを振らずに見送っていると、ちゃんと振れと文句をつけてくる上に、拗ねる。
シンゴが投げれば、常にホームランだ。その度に罵声を浴びせられ、走らされる。
もう二度とこいつと野球をするのは御免だと、シンゴは心の中で誓った。
日が暮れてきた頃、ようやく麻生から解放された。「またやろうな」と告げ、暢気に去っていく麻生の背中がかつてないほど憎たらしかった。
マサヤは当たり障りのない別れの言葉を告げ、自室に帰っていった。
部屋に戻ると同時に、シンゴは床に寝転がった。まさに満身創痍だ。明日必ず訪れるであろう筋肉痛が今から恐ろしく思えた。
目を瞑って横になっていると、シンゴは知らず知らずのうちに眠ってしまった。
――夢を見ていた。
何もない空間で、幼い少女がじっとこちらを見つめている。
その瞳を見ているうち、自分の中に妙な感情が沸き立ってくるのを感じた。
心の中だけに留めておき難い、強い衝動。その感情にはどんな言葉も似合わない。
瞬間、考えるよりも先に、体が動いた。
そして――
息が止まったような苦しさを感じて、シンゴは飛び起きた。その反動で、さっきまでの光景は消し飛んだ。
乱れた呼吸を、ゆっくりと整える。
夢の内容は忘れてしまっていた。しかし、それが嫌悪に値するものであることを妙に激しく打つ鼓動と呼吸が物語っている。
ふと目をやると、自分のすぐ隣でアサカが布団もひかないまま寝息を立てていた。
何時間ぐらい、こうしていたのだろう。
そういえば、食堂に夕飯を食べに行かないままだった。果たしてアサカはちゃんとご飯を食べたのだろうか。いや、恐らく食べてはいないだろう。
シンゴは壁にかけられた時計を見た。部屋は暗かったが、夜光塗料のおかげで時計の針が何処を差しているのかは分かった。
時刻は、ちょうど日付が変わろうとしている頃だった。
十畳程の広くも狭くもない部屋に、シンゴはいつものように二組の布団を敷いた。まだアサカが部屋のほぼ中央ですやすやと眠っているので、一組は半分に折り畳んだままだ。
「アサカ、布団ひいたから、ちゃんと布団で寝ろ」
アサカの体をゆさゆさと揺すり、彼女を静かに起こす。
――その時、シンゴの中には奇妙な感情が渦巻いていた。
アサカの細い肩に触れた瞬間、心臓が大きく脈打った。
今までにも何度も味わったことのある感情とも言えるし、初めて感じるもののようにも思える。その得体の知れない感情を前に、シンゴは動揺を隠すことが出来なかった。
規則正しいリズムで寝息の立てていたアサカの呼吸が、そのリズムを乱した。目を擦りながら、丸めていた背筋を伸ばす。
「ほら、布団入んな」
シンゴの感情には敏感なアサカに、心に潜む動揺を覚られぬよう注意しながら囁く。
アサカはもそもそとゆっくり体を動かして、布団の中に潜り込んだ。
慣れた手付きで布団を掛け直しているシンゴの手は、やけに熱を帯びていた。見ただけでは分からないが小さく震え、痺れているような感じだった。
再び安らかに眠り始めたアサカの隣で、シンゴはその手を強く握り締めた。