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シンゴ(10)

 シンゴとアサカがここで暮らすようになってから、ちょうど三ヶ月。ベースの生活にも慣れ始めた頃だった。ちょうどシンゴが薬を服用し始めてから二ヶ月半が経った頃である。

 シンゴの状態に変化が現れ始めた。

 以前はアサカ以外には笑顔を見せず、ベースの研究スタッフの呼びかけなどにも滅多に答えなかったシンゴだったが、この頃から相手が他人であっても、頻繁に笑顔を見せるようになった。

 臨床試験の一環である内職のような地道な作業にも、積極的に取り組むようになり、確実に薬の効果が現れていると誰もが感じていた。

 それと期を同じくして、シンゴにも友人と呼べる存在が出来た。


「シンゴ君、アサカちゃん」

 いつものように、シンゴがアサカと一緒にベースの中庭にあるベンチに座っていると、一人の女性が声をかけてきた。

 熊井カナコだ。

 彼女はシンゴと同様に、臨床試験対象者としてベースで生活を営んでいる。年は二十二歳で、シンゴから見ればかなり大人の女性だと感じられた。

 百人程いる臨床試験対象者の中で彼女とシンゴが出会ったのは、もちろんベース内での活動がきっかけだった。

 最初に声をかけたのは、カナコの方だった。彼女も最初は誰にも心を開かず、かなりの人見知りで内向的な性格だったが、薬の効果が出たようで、以前の様子とは比べ物にならないほど社交的になった。その結果、シンゴにも接触を試みたのだった。

 話をしてみると、カナコとシンゴの境遇は酷似しており、それで意気投合したのだった。それによってシンゴは少しずつ、カナコに対して心を開いていっている。

「カナコさん。今日の検査、もう終わったの?」

 シンゴはカナコに笑顔で対峙した。まだ少しひきつったような笑顔ではあるが、大きな変化であることに変わりはない。

「うん、終わったよ。シンゴ君は今日検査ないの?」

「俺は明日」

 カナコは、そう、と言うと、柔らかな笑みを浮かべた。

 二人は少しぎこちなさを持ちながら、他愛のない会話を楽しんだ。

 ほぼ毎日のように、二人は会話を交わしていた。その時間に差はあるものの、シンゴはカナコとの会話を間違いなく楽しみにしてはいた。

「あ、そろそろ行かなきゃ。検査の時間だ」

 そう言ってベンチから立ち上がり、アサカの手を引いて歩いていこうとするシンゴに、カナコは間の抜けた表情を向けた。

「え、検査は明日だって……」

「俺の方はね。今日はアサカの検査の日なんだ」

 まぁ検査って言うか、診察かな、とシンゴは上目遣いで空を見つめながら呟く。

 そうなんだ、とぼんやりと口に出したカナコは、前屈みになってアサカの頭を優しく撫でながら「アサカちゃん、行ってらっしゃい」と別れの挨拶を告げた。アサカはただ、カナコの目を見つめている。

「ほら、カナコさんにバイバイしな」

 シンゴがアサカの手を握ってそう言うと、空いた方の手をひらひらと動かした。カナコは笑顔で手を振り返す。

「じゃあ、カナコさん。また」

「うん、またね」

 カナコは研究棟に向かう二人の後ろ姿を見送った。小さなアサカの手を曳くシンゴが若い父親のように見えて微笑ましく思うと共に、シンゴの背中に今も色濃く残る苦労の色を見て、カナコの胸はきゅっと痛んだ。




「お、来たね」

 診察室に入ってきた二人をそう言って出迎えたのは、アサカの主治医を担当している神沢だ。まだ三十代の若い医者だ。

 基本的にベースの医療スタッフは皆、年齢が若い。臨床試験対象者の年齢になるべく近い方が信頼関係を築きやすいだろうという、上層部の計らいだ。

 しかし、若さというのは時にとんでもない爆発力を見せる。万が一の事態を引き起こさないとも限らないので、上層部は若い医療スタッフの統率に余念がない。

 若くして研究所所長に任命された町田は、お堅い上層部と年若い医療スタッフや研究員の間に立ち、最悪の事態を避けるための橋渡しの役目を担ってもいるのだ。

「先生、今日もお願いします」

 シンゴは患者用の椅子に座ったアサカの背後から、神沢に挨拶をした。

 他の医療スタッフには未だに少し無愛想なシンゴだが、神沢に対しては比較的穏和に接している。アサカの失声症の治療のためには、神沢が必要だと思っているがゆえだろう。

 神沢は自身の研究のためでもあると言いながらも、アサカの治療に熱心に取り組んでくれていた。あらゆる手段を行使して、何とかアサカの声と感情を引き出そうとしている。シンゴも神沢のそういった真摯な態度を見るうち、彼は信頼に足る人物であると思い始めていた。

 神沢はアサカのことだけでなく、シンゴのことも気にかけてくれている。

 アサカの感情を取り戻すには、シンゴの存在が不可欠であると、神沢は言う。

「アサカちゃん、今日も絵を描いて遊ぼうか」

 神沢はいつも、診察を遊びの中に取り入れる。少し前から、絵を描くことで心理状態を読み取るということに取り組み始めた。

 最初は警戒していたのか、色鉛筆を手に取ることさえなかったが、シンゴと神沢も一緒に絵を描き、二人で呼びかけることで少しずつ変わってきた。

 今では、率先して色鉛筆で真っ白な紙に様々なものを描き出す。三人で出来上がった絵を見せ合うのが気に入ったようだった。

 神沢がアサカ用のスケッチブックと色鉛筆を机に置くと、アサカはそれを素早く手にとった。その様子を見て、神沢はくすりと笑った。

「アサカちゃん、やる気満々だねぇ。じゃあ今日は、鳥さんを書こうか」

 さぁ、シンゴ君も、と言って神沢がシンゴに紙とペンを手渡す。色鉛筆は、アサカが使う分しかない。シンゴはいつも安っぽいボールペンで、何かの資料の裏側に絵を描く。

 シャッシャッという小気味のいい摩擦音が三人の手元から生み出される。絵を描くとき、決まって三人は黙り込む。

 最初は半ば馬鹿にしながら絵を描いていたシンゴも、いつの間にか真剣に描くようになった。それというのも、神沢の描く絵がやたらと上手いからだった。

 妹のいる手前、他の奴に負けるわけにはいかないという、幼さゆえの見栄と対抗心がそうさせたのだった。

 それだけでなく、絵というのは描いた人の心を表すパラメータでもあるのだという神沢の言葉を聞いて、少し真剣に描いてみるのもいいかと思ったのもあった。

 ――鳥、か。

 咄嗟にシンゴの頭に浮かんだのは、真っ黒なカラスだった。

 食糧を得るために奴等がついばんでいるものを奪っていた日々が、何となく懐かしく思われた。

 鋭く尖った、大きなクチバシ。頭のいい奴等のクチバシからは何か禍々しい言葉が語られてもおかしくないと、シンゴは幾度も思ったりした。

 悪魔を連想させ、青い空を切り抜く大きな黒い翼。獲物を掴んで離さぬ、カラスの狡猾さと執着心を象徴するかのような、やけにたくましい足と爪。何もかもを黒に染めてしまうかのような、漆黒の瞳。

 いつの間にかシンゴの手元にあった真っ白な紙は、消失していた。ただ黒に染まっていた。

 自分で描いたものではあるが、その憎々しい姿に背筋がぞくりとした。

 ふと神沢の方を見ると、彼は僅かに眉を寄せて、穴が開くほどシンゴのカラスを見つめていた。

「すいません、咄嗟に思い付いたもんだから……」

 神沢の表情を目にしたシンゴは、何だか悪いことをしてしまったように感じ、反射的に謝った。

「あぁ、別に構わないよ。こちらこそ、すまないね。随分リアルだったから、少し驚いたんだよ。シンゴ君も、絵が上手くなったね」

 シンゴの言葉と感情を掻き消すように、神沢は矢継ぎ早に言った。

 ――違う。絵が上手くなったからじゃない。これは、俺の――。

 シンゴは神沢に見えないよう、机の下で強くボールペンを握り締めた。ボールペンが小さく軋むほど。

「お、アサカちゃんも描けたかな」

 僕に見せておくれ、と言ってそっと手を差し出す神沢に、アサカはスケッチブックを手渡した。

 神沢はほう、と声を漏らした。しばらくスケッチブックに描かれたアサカの絵を見つめると、「シンゴ君もご覧」と言って、スケッチブックの面をシンゴにも見えるようにした。

 その絵を見た瞬間、シンゴの表情が凍り付いた。曖昧な笑顔を浮かべることしか出来ない。無理な方向に引っ張られているように、頬がひきつる。

 スケッチブックに描かれた鳥は、四羽。それが鳥だということは分かる。

 しかし色とりどりに描かれているそれらの鳥達には、鳥として決して不可欠なものが欠けていた。

「アサカちゃん……鳥さんの羽は、何処に行っちゃったのかな?」

 恐る恐る、という感じで神沢がアサカに尋ねる。

 アサカが描いた鳥には、翼がなかった。

 スケッチブックの紙面には、翼のない鳥達がのたうち回っていた。クチバシと足のついた魚のように、滑稽な姿をした鳥達。

 シンゴは、ぐっと奥歯を噛んだ。

 アサカは、酸性雨に侵された湖のように不気味に澄み渡った瞳をゆっくりと窓の外に向け、その視線を人差し指でなぞった。

「空……?」

 シンゴが小さく呟く。

「鳥さんの羽は、空に行っちゃったのかな?」

 アサカの意向を確認するように神沢が言うと、アサカは空を見つめたまま頷いた。

 瞬間、シンゴは胸を何か強い力で締め付けられたかのように感じた。何も、言葉が出てこない。

「鳥さん達の羽は……鳥さん達を置いて、飛んでってしまった?」

 神沢が言うと、アサカは再び頷いた。その反応を見て、神沢はふむ、と呟き、口元を触りながら何か思案しているようだった。

 息が詰まるような重苦しい空気の中、アサカはただ青い空を見つめている。


 その後、神沢はアサカを別室に移動させ、シンゴだけを診察室に残した。

 診察のあとにシンゴと神沢が話をする間、アサカはいつも別室でアニメのDVDを見る。

 アサカが隣からいなくなった途端、シンゴの肩にとてつもなく重いものがのしかかり、シンゴは頭を抱えて机の上に突っ伏した。

「シンゴ君」

 神沢が遠慮がちに声をかけた。

 シンゴは顔をしかめて、神沢を見る。細めた目の奧に、苦しみをたたえて。

「神沢さん……アサカは、どうしてあんな絵を……鳥を……どうして……」

 翼を失った鳥。それはどう考えても、何か悪い印象しか与えない。シンゴの心には、絶望に似た溢れていた。

「シンゴ君、落ち着いて。前から言ってるけど、君がしっかりしなきゃいけないんだ」

 辛いとは思うけど、と神沢は消え入りそうな声で独り言のように言った。

 神沢の言葉を聞いたシンゴが背筋をゆっくりと伸ばし、深く深呼吸をしたのを見届けてから神沢は話し始めた。

「鳥っていうのはね、自由の象徴なんだ」

 描いた鳥が羽ばたいていれば、精神的に満たされており、比較的自由を感じていると思われる。しかし、そうでない場合は何かにとらわれ、精神的に満たされた状態ではないのだと、神沢は言う。

「けれど、アサカちゃんの鳥は、飛ぶための翼さえも失ってしまっていた……」

 鳥の翼は、空へ飛んでいってしまったのだと、アサカは言った。鳥を、その本体を見捨てて。

 それがどういったことを表しているのかは、シンゴでも察しがついた。絶望的だと。命綱なしで、崖っぷちに突き出されたようだ。

「アサカは……自由になることさえ、諦めてしまってるのかな……」

「そういう風にも考えられるね」

 神沢は先程のアサカのように空を見つめながら言った。

「けれど、こんな風にも考えられないかな」

 神沢とシンゴの視線が結び付く。

「アサカちゃんの鳥は、翼に見捨てられたんじゃなく、自ら翼を持つことを辞めたんだと」

 疑問だらけのシンゴの視線を受け、神沢は補足した。

「翼がなくても、生きていける。翼なしで生きていく術を見つけ、そうしていくことを選んだ。プラスに捉えると、そうも考えられる」

 シンゴの目に、窓から射す光が映り込む。

「諦めちゃ駄目だよ、シンゴ君」

 シンゴは、小さく頷くのが精一杯だった。頷いて下を向いた拍子に、きつく閉じた瞳から何かが溢れだしてしまいそうだったので、シンゴは咄嗟に目元を押さえた。

「確かに、アサカちゃんの精神状態は、非常に難しい状態にある。……深い傷を負ってしまったんだね」

 神沢は眉間に皺を寄せてシンゴを見つめながら言う。アサカを思うシンゴの痛みがひしひしと伝わり、神沢さえも胸が痛む。けれど、その痛みに負けてはいけないと、自身を鼓舞する。

「けれど、きっと大丈夫だよ。まだ幼い彼女の治療は難しいけれど、逆に、だからこそ希望もある。精神的に大きく成長するのはこれからだからね。それを軸にしながら、上手く成長をいい方向に促すことが出来れば」

 目元を押さえたまま俯いて、自分の声が彼に届いているのか疑わしくなった神沢は、シンゴの名を呼んだ。

 ゆっくりと顔を上げたシンゴの表情は、痛々しかった。彼の苦しみが、ありありと刻まれている。

「君がアサカちゃんを信じなきゃ。辛いと思うけど、頑張って」

 ありきたりな言葉でしか励ますことの出来ない自分を、神沢は恨めしく思った。

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