シンゴ(9)
シンゴが倒れたのは、栄養失調と極度の肉体的、精神的疲労によるものだと診断された。
薬剤の開発を行なっているため、ベースの医療設備は完璧であり、医療スタッフもしっかりと揃えられている。そのため、シンゴへの対応は迅速だった。
倒れてから十分もしないうちに粗方の治療等は終了し、治療室のベッドに寝かされた。
アサカは為す術もなく、その行程をただ見つめているだけだった。医療スタッフの一人が彼女をしっかりと見守ってくれていたおかげで、アサカの不安はある程度、軽減された。
しかし、唯一の頼りであるシンゴが倒れてしまったことは、アサカにとって恐怖そのものだった。
アサカはシンゴが眠るベッドの脇に置かれた椅子に根を張ったかのように、そこから動こうとしなかった。
点滴の雫が、規則的に落ちていく。
音のない空間の中で、それだけが密やかに時を経過を示していた。
細い管の先にある、痩せ細ったシンゴの腕が彼の今までの苦労を物語っている。真っ白なシーツが敷かれたベッドに横たわっている彼の姿は、余りにも痛々しかった。
アサカとシンゴの二人だけしかいない、やけに清潔感に溢れた狭い空間の中に、ノイズが走った。
「兄ちゃんの様子はどうだ」
麻生だ。
町田からシンゴの監督係、言わば世話役を任じられたため、ここにやって来た。
白に支配された世界に、黒が滲んでいく。
アサカは訳が分からないなりにも、麻生達に敵対心を覚えていた。ただ兄の態度に倣っているだけなのか、彼女の中にある本心からなのかは分からない。
じっと、小さな瞳で麻生を見つめる。
「お嬢ちゃんまでそんな顔で俺を見るなよ。これでも心配してんだ」
そう言って麻生はアサカの隣に立ち、シンゴの寝顔を見つめた。
「まだ起きないか……まぁ無理もないかな。今ぐらいは寝かせといてやるか」
椅子はアサカが座っているものしかないらしい。麻生は仕方なく、ベッドに腰掛けた。
必然的に、麻生の視界にはアサカとシンゴの両方が映り込む。
アサカの目にはシンゴしか映っていないのか、麻生を気にかけるような素振りはない。
――兄貴に似て、いい目をしやがる。
「兄ちゃんが起きたら話すつもりだったが……お嬢ちゃんに先に言っとくか」
そう呟くと、アサカが麻生を見た。その幼さに相応しくないくらい、凛とした瞳で。その目に見つめられると、何故か全てを見透かされているような気持ちになり、落ち着かない。
「今、上ではお嬢ちゃんについての話し合いがされてる。お嬢ちゃんを、臨床試験の対象者とするかどうか、のな」
アサカは一瞬だけ、大きな丸い瞳を更に大きく見開いた。
「まだ結果は出てないんだが、明日には決まるだろう。一応、お嬢ちゃんも審査の対象にはなっていたから、すでにデータは揃ってるんだ」
自分の言っていることは、目の前の少女にどのくらい伝わっているのだろう。気にしたところで、どうしようもないのだが。
その時、シンゴがゆっくりと目を開いた。麻生の話し声に反応したようだった。
「お、起きたか。いや、俺が起こしちまったのか」
皮肉っぽい笑顔を浮かべ、麻生はシンゴの顔を覗き込んだ。続いてアサカが。
「……ここは?」
「ベースにある治療室だよ。お前倒れたんだよ」
意識がはっきりしていないのか、シンゴは焦点の合っていない虚ろな瞳をしていた。アサカが心配そうに彼の目を見つめ、腕を布団越しにぐっと握り締める。
「栄養失調と過労だ。今日のところは、そのままゆっくり休んどけ」
麻生はベッドから立ち上がり、低く呻きながら背筋を伸ばした。
「また明日の朝に来る」
そう言い残すと、麻生は飄々とした様子で治療室を出ていった。
再び室内が静寂に包まれた。
シンゴはそっとアサカの頭を撫でた。
「ごめんな、心配しただろ。もう大丈夫だ」
掠れた声がシンゴの唇から漏れ出す。アサカは相変わらず無表情で動きを見せることはなかったが、シンゴにはその隠された思いが手に取るように分かった。
気を失ってはいたが、アサカのその表情を見ただけで、彼女が如何程に心配していたことが分かった。
「こっちおいで」
シンゴは少し上半身を起こして掛け布団をあげ、アサカを中へ誘った。
ベッドの脇にある窓の外に光はない。もうすっかり夜になってしまっている。時刻は分からないが、すでにいつもアサカが床についている時間になっているのは間違いないだろう。
それにも関わらず、余り眠くなさそうなのは気が張っているせいだろう。いきなりこんな事態に巻き込まれたのだから、仕方ない。
決して広くはないベッドに二人で横たわる。アサカの体が小さいため、割りとスペースは残されている。
――見慣れない天井だった。
ぼんやりと見つめた白い天井。それが白であると頭では認識しているのに、感覚的には、暗闇が果てしなく目の前に広がっているように感じた。
瞼を閉じたとしても、その暗闇は消えることなくただ深まるだけ。
アサカにはこの空間がどんな風に見えているのだろうか。
そんなことを考えているうちにシンゴの意識は深い暗闇に包まれた、眠りの世界に落ちていった。
麻生の声で目を覚ましたシンゴとアサカは、ゆっくりすることもないままに町田のいる研究室に連れていかれた。
「おはよう。気分はどう?」
机にもたれかかった町田が優雅な口振りで尋ねる。鮮やかに彩られた唇の端が引き上げられている。作られたその表情を、笑顔と言うのは何となく躊躇われる。
「相変わらず最悪だ」
「そう、残念だわ」
そのやり取りを聞いた麻生がシンゴの背後で笑った。何処かで聞いた会話だ。
「まぁとにかく座って頂戴」
散らかってるけど気にしないで、と町田は付け加えた。
町田の私室と化している研究室は、本当に散らかっていた。様々な書類や見るからに難しそうな専門書があちらこちらに積み上げられている。それらはピサの斜塔のように危うげに傾いて、今にも崩落してしまいそうだった。
革張りの立派なソファーの上にも同じような小さな塔が建てられていたため、麻生とシンゴはそれを床の上に降ろした。それでようやく座るスペースは出来たが、足の踏み場は更に少なくなってしまった。
「じゃあ、昨日の話の続きをするわ」
町田はソファーに足を組んで座った。その隣に麻生が、向かい側のソファーにアサカとシンゴが腰掛ける。
町田はひたすらに、NSOが開発した新薬について淡々と語り続けた。
新薬について、というよりはそれを服用する場合における説明であった。
必ず一日一錠は服用すること。目安は一日三錠を食後に、ということだったが、全国民の服用を義務化するという場合を考慮した際、出来るだけ気軽に飲めることが重要であると判断したため、このようにしたのだという。
副作用は最小限に抑えてはいるが、吐き気や目眩、場合によっては軽い発熱を伴うことがあるとのことだった。その他の副作用はこれからの臨床試験の結果を見て判断するそうだ。
精神の安定と、その他の能力の活性化を主たる目的とした薬なので、精神面での副作用が出る可能性があるという。どんな症状が出るのかとシンゴが尋ねても、臨床試験でのデータが不足しているため、断言して言えることは今のところはないと言われた。
更に、これからの生活についての説明がなされた。
至って普通の生活をしてもらって構わないということだった。ただし、毎日の検温と健康状態についての問診、定期的な健康診断のチェック、また、薬の成果を計るための活動などがある。それ以外は、何も気にしなくていいとのことだ。
臨床試験の対象者全員に個室が与えられるらしい。個室のある居住棟には、一部のNSO社員も入居しているため、有事の際には彼等に言ってくれれば対処するとのことだ。麻生も居住棟に住んでいるのだという。
「以上だけど、質問は?」
シンゴは首を横に振った。
「今更だけど……これから臨床試験対象者として生活してもらうことに、異論はある?」
シンゴの目付きが一瞬鋭くなった。その表情を見た麻生の脳裏に、昨日の光景がよぎった。
「穏便になれよ、櫻田シンゴ君」
すかさず麻生が口を挟む。その目にはシンゴ以上の鋭さが宿っていた。まさに、空気を断ち切るような目だった。
「俺は……アサカが平和に暮らせるなら何でもいい。だから、アサカにはいつ、どんなときでも最善の対応をしてくれ。それを守ってくれるなら、俺はどうなっても構わない」
麻生の視線が功を奏したようだ。シンゴは鋭さをなくした穏やかな目でアサカを見つめながら、そう言った。
「一つ提案があるんだけど」
と、町田が今までにない少し遠慮がちな口調で言った。態度も少し控え目に見える。シンゴは、目でその内容を尋ねた。
「彼女、失声症なんでしょう?」
「どうしてそれを」
あぁ、お前には言ってないか、と麻生が呟いた。不安と疑問を抱いたシンゴの視線が町田から麻生へと移る。
「君等の基本的なデータは収集済みなんだよ。家族構成やら年齢やらはもちろん、生活のパターンまでな」
「お前等、俺達を監視してたのか」
怒りのこもった低い声でシンゴが言う。殴りかかる準備は出来ている、固く握られた両手がそう語っているようだ。
「悪いな、それを仕事にしてる奴がいるもんでね。野暮なことだってのは十分分かってるが、仕方ないんだ。許せ」
麻生の言葉からは、謝罪の気持ちなんてものは微塵も伝わってこない。しかし、ここで逆上すれば、自分の首を締めることになると感じたシンゴは、時間をかけて心を沈めた。俯いて、唇を噛み締める。
話を戻すわよ、と町田の冷静な声が緊迫した沈黙を破る。
「どうかしら、あなたの臨床試験の傍ら、彼女の失声症の治療をしない?」
シンゴは一瞬、拍子抜けしたように呆然とした顔をした。それを見た町田がくすり、と小さく笑う。
「ここにはもちろん、精神科のエキスパートも在籍しているわ。彼女のそれ、精神的ショックが原因なんでしょう? それなら、専門家の下で治療に専念すれば、治る可能性は十分にあるわ」
シンゴは目の前にいる二人と、アサカの顔を見比べた。アサカは自分の話をしているということが分かっているのだろう。内容までもを把握しているかは分からないが。
どうかしら、と再び町田が言い、シンゴの返答を急かす。黙ったままのシンゴの様子を見かねたのか、町田は更に続けた。
「もっとも、私達が開発した薬を飲めばあるいは……ね。でも保障はない。そんな賭けに、あなたは挑まないでしょう?」
「そりゃあ」
「じゃあ、薬の力に頼らずに治療してもらった方がいいでしょ? 彼女の声をもう一度聞くことが出来る、その喜びはあなたにとってかけがえのないもののはずよ」
畳み掛けるような町田の言葉に、シンゴは思わず黙り込む。その様子を、隣に座ったアサカが何処か不安げに見つめている。
「アサカを……頼む。治してやってくれ」
暫しの沈黙のあと、シンゴが微かに震えた声で言った。
「分かったわ。こっちで話をつけておくから。また麻生を介して連絡するわね」
その言葉を聞いたシンゴは、訝しげな顔をした。その表情を見て、町田は思い出したように言った。
「あぁ、あなたの監督係に麻生を指名したのよ。言うのが遅れたわね」
麻生はにやにやと笑っている。よろしくな、と軽い口振りでシンゴに挨拶の言葉を告げる。
「どうしてこいつなんだ」
苛立ちを露にしてシンゴは荒々しく言った。
「だって、麻生がどうしてもって言うもんだから……ね、麻生」
町田はそう言って、意味深な目を麻生に向けた。麻生はへらへらと掴み所のない笑みを浮かべるばかりだ。
そんな二人を目の前に、シンゴは深いため息を漏らした。
「じゃあ、これからよろしく頼むわね。シンゴ君、アサカちゃん」