婚約破棄された伯爵令嬢が、幼なじみ執事と結婚するまで ~身分差があっても、幸せになってみせます!~
本当の愛ってなんだろう?
17歳の秋、わたしの人生は大きく変わってしまった。
わたしは自分の部屋の椅子に腰掛け、大きくため息をつく。そして、顔を上げた。
「あのね、ユリアン。わたし、婚約を破棄されちゃったの」
「ははぁ、婚約を破棄されたのですか……って、ええっ!?」
わたしの言葉に、目の前の少年は驚いた顔をした。
彼は黒と白の執事服をビシッと決めていて、見た目通りの執事だ。金色の髪と青い瞳が印象的で、美少年で背も高いんだけれど、ちょっと線が細いのは好みが分かれるかもしれない。
でも、わたしはそんなユリアンのことを気に入っていた。
名前はユリアンで、わたしより一つ年下の16歳。ユリアンは、わたしに七年前からずっと仕えてきてくれた幼なじみの執事だ。
わたしにとっては、弟みたいな可愛い存在だった。
そんな彼に、わたしは婚約破棄されたという事実を淡々と伝えたわけだけれど……。
「なんで固まってるの?」
「だ、だって、驚きますよ! あまりにも重大な話です!」
「そうかしら?」
「そうですよ!」
ユリアンはぶんぶんと首を縦に振る。まあ、ユリアンの言う通りなんだけれど。
わたし、すなわちキュイ伯爵家の長女マリヤは、ボロディン侯爵家の嫡男との婚約を破棄されてしまった。
それまでのわたしは、何不自由なく、順風満帆な人生を送っていた。
このルーリ王国でもそれなりの地位の貴族に生まれ、今通っている王立学園を卒業したら侯爵夫人として暮らすはずだった。
でも、それは変わってしまった。
わたしは王都のお屋敷にいる。そして、自分の部屋で、テーブルの前の椅子にちょこんと座っていた。
ユリアンはその隣に立って、紅茶を用意してくれていた。
そんなユリアンがわたしを見つめる。
「どうしてお嬢様が婚約を破棄されるんですか?」
「本当の愛を見つけたんですって。つまり、他に好きな人ができたってこと」
わたしは肩をすくめる。
婚約者のニコライ様に、わたしはそれなりに好意を持っていたと思う。かっこよくて優しい人だった。
婚約は家と家同士の取り決めだったけれど、10歳のときには決まったことだったし、わたしはこの人と結婚して人生を送るんだな、とずっと思っていた。
だから、婚約を破棄されたのは、けっこうな痛手だ。でも、あまり現実感はないし、ショックでないのはどうしてだろう?
きっと、わたしはニコライ様にそれほど興味がなかったんだと思う。
ニコライ様は真実の愛を見つけたと言った。それはなんだろう? ……恋愛なんて、わたしには無縁だった。
家と家の婚約を無視してすら、多くの問題を抱えて、突き進んでしまうような衝動。
ニコライ様に対する怒りはないけれど、それほどの情熱を持てたことに、少し羨ましいなと思ってしまう。
ユリアンが憤った表情で言う。
「お嬢様は何の落ち度もありませんのに……」
「あら、わたしに何の落ち度もないってどうしてわかるの?」
わたしがくすっと笑うと、ユリアンは少し顔を赤くした。
「だって、僕はずっとお嬢様のおそばに仕えていますから。お嬢様のことなら、わかります」
「ふ、ふうん」
そう言われて、わたしは少しどきりとする。
あれ?
どうしてどきりとしたんだろう?
わからないまま、わたしは言葉を重ねる。
「うちの伯爵家も最近は落ち目だし、それにわたしも……そんなに特別魅力的ってわけでもないでしょうし」
わたしは、部屋の姿見に写る自分の姿をちらりと見た。まあ顔立ちはそれなりに整っているけれど、くすんだ灰色のロングの髪も、同じく灰色の瞳も、華やかさがない。ついでに、女性にしてはけっこう高身長なのもマイナスポイントだ。
わりと真面目な性格なので、王立学園での成績はかなり優秀な方だったけれど、それは男性からしてみれば、敬遠される要素な気もする。
いわゆる女の子らしい可愛い面もないし……。
こうして分析してみると、ニコライ様がわたしを捨てて、真実の愛(?)に走ったのも理解できる。
わたしって冷めてるなあ、と思う。
気になるのは、現実的な問題ばかりだ。
これからは、困ったことになるのが目に見えている。
たとえわたしに何の落ち度もなくても、わたしは捨てられた女ということになり、次の婚約に支障が出る。お父様は、ボロディン侯爵家とのつながりを頼りに落ち目の伯爵家を立て直すつもりだったし、それもダメになるわけだ。
ユリアンは紅茶を注ぎ終わると、わたしの前にティーカップを置いた。
そして、寂しそうに微笑む。
「お嬢様は魅力的でないなんてことはありませんよ」
「気を使わなくてもいいのよ?」
「いえ、マリヤお嬢様こそ、世界で一番魅力的な女性のはずです」
ユリアンの言葉に私は驚いて、まじまじとその青い宝石のような瞳を見つめてしまう。ユリアンは照れたのか、目をそらした。
わたしはくすっと笑う。
「それって、ユリアンもそう思ってくれているってこと?」
わたしは何気なくそう聞いてみる。照れて否定するかと思ったのだ。
けれど、ユリアンはティーポットを片付ける手を止めた。
「僕にとって、お嬢様はとても魅力的で可愛らしい女の子です!」
そう言って、ユリアンはその美しい顔に、優しい笑みを浮かべた。
ふたたび、心臓がどくんと跳ねるような不思議な感覚に襲われる。
わたしは自分の感情が何なのかわからないまま、聞いてみる。
「具体的には、わたしのどこが可愛いの? 教えて」
「そ、それは恥ずかしいですから……」
「婚約者に振られて傷心中の女の子のお願いを、聞けないの?」
わたしがからかうように言うと、むうっとユリアンは頬を膨らませた。そして、ツンとした表情で、でも白いほっぺたを赤くして、言う。
「僕がそんなこと言ったら、後で絶対からかうつもりでしょう?」
「しないしない」
わたしが両手を広げて「大丈夫」という仕草をしてみせると、ユリアンはくすりと笑った。
「絶対、からかうつもりでしょう。でも、僕はお嬢様のそういういたずら好きなところが、可愛いと思うんです」
「へ?」
「普段は真面目で優秀なお嬢様が、僕にだけはいたずらっぽく振る舞うのは、結構好きですよ」
予想外の言葉に、わたしはうろたえる。わたしはユリアンを上目遣いに見る。
なにか言い返そうと思い、でも、出てきたのは自分でも予想外の言葉だった。
「ユリアン……見た目は褒めてくれないの?」
まるでねだるみたいになってしまった。ちょっと恥ずかしい。
ユリアンは微笑む。
「僕なんかが褒めなくても、お嬢様は顔立ちも人形のように整っていますし、スタイルだって抜群に良い美少女じゃないですか。みんなからそう言われてきたでしょう?」
「……ニコライ様はそんなこと、言ってくれなかったわ」
「なら、代わりに僕が言ってあげます。ダイヤモンドみたいな灰色の瞳も美しいですし、淡い銀色の髪も綺麗なのに……」
ユリアンはわたしを見下ろすと、椅子に座るわたしの髪を、そっと撫でた。
わたしが口をパクパクさせた。何か言おうと思ったけど、何も言葉が出てこない。
嫌……じゃない。ユリアンに触れられるのは、心地よくすらあった。婚約者だったニコライ様とは、ダンスのときに軽く体に触れられることはあったけれど、こんな感情は起きなかった。
わたしが戸惑っていると、ユリアンは手を放し、ペコリと頭を下げる。
「すみません。少しやりすぎてしまったかもしれませんね」
「あ、謝ることじゃないわ。その……嬉しかったし」
わたしはちらりと部屋の鏡を見ると、そこには頬を真っ赤に染めている自分がいた。
ユリアンも少し恥ずかしそうに言う。
「お嬢様、照れていますね」
「ユリアンがわたしを恥ずかしがらせるようなことを言うからよ。わたしを照れさせるために、あんなふうにべた褒めしたんでしょう?」
「いいえ、全部、心からそう思っていますよ。それに、恥ずかしがっているお嬢様も可愛いなあって思います」
そう言うと、ユリアンはその繊細な指先で、わたしの頬に触れた。わたしは顔から火が出るような恥ずかしい気持ちになり、ユリアンの柔らかい指先が頬を撫で、わたしの心をかき乱す。
わたしが見上げると、ユリアンが小さくつぶやく。
「僕が婚約者だったら、お嬢様のことを捨てたりなんて絶対にしないのに」
「ゆ、ユリアン?」
わたしが名前を呼ぶと、ユリアンはハッとした顔をした。そして、目を伏せる。
「い、今のは忘れてください」
「……わたしも、ユリアンが婚約者だったら良かったのにって思うわ」
わたしがそう言うと、ユリアンは一瞬、嬉しそうな顔をして、それから寂しそうに微笑んだ。
「それは……不可能なことですから」
わかってる。わたしとユリアンでは身分が違う。
名門貴族の娘であるわたしと、平民のユリアンが婚約することは普通なら無い。ユリアンはわたしに仕える執事で、わたしはそれ以上のことをユリアンに望むことはできない。
でも……ずっと一緒にいたのに、わたしは気づいていなかった。
わたしは、ユリアンのことが好きなんだ。
婚約を破棄されたことよりも、そのことに気づいてしまったことが、わたしには衝撃だった。
そんなユリアンの手が、わたしの頬に触れている。
「それでも、僕はお嬢様の味方です。忘れないでください」
そう言って、ユリアンは微笑んだ。
急にわたしは、今の状況を意識した。
自分の部屋で、男の子と二人きり。わたしの頬にユリアンの手が触れている。
考えて、わたしは自分の頬が熱くなるのを感じた。
わたしはユリアンを上目遣いに見て、そして、少しだけ甘えるようにユリアンに身を寄せる。
「ねえ、ユリアンはわたしのそばにいてくれるよね」
「お嬢様が望む限り、いつまでも」
ユリアンはわたしの耳元でそうささやいてくれた。それは、少しくすぐったくて、とても嬉しい言葉だった。
☆
わたしはユリアンのことが好き。
でも、どうすれば良いんだろう?
わたしたちは幼なじみで、そして主従だった。わたしが主で、ユリアンが執事。
そんな関係が七年前に会った日から、ずっと続いてきていた。
それを今更変えるなんて……できるだろうか?
身分差のことはあるし、そもそもユリアンがわたしの思いを受け入れてくれるとは思えない。
わたしが伯爵家の娘だから、仕えるべき主だから、ユリアンはそばにいてくれる。
でも、そうでなかったら?
身分や立場を取り払ったとき、わたしとユリアンのあいだに何が残るか、わたしにはわからなかった。
「ねえ、リサはどう思う?」
わたしは一連の経緯を話してから、目の前の従妹に尋ねた。
従妹のアリサは、ティーカップをちょこんとテーブルの上に置くと、わたしを灰色の目で上目遣いに見た。
彼女の綺麗な茶色の髪が、ふわりと流れるように揺れる。その人形みたいな顔がほんのりと赤く染まっている。
わたしより二つ年下のアリサは、わたしが嫉妬してしまうぐらいの美少女だ。
今、わたしとアリサは、お屋敷の客間でソファに腰掛けて、向かい合って紅茶を飲んでいた。
アリサは、わたしの母の弟の子供にあたる。わたしの母はチャイコフスキー公爵家という名門大貴族の出身だ。
だから、アリサも公爵令嬢として貴族のなかでもかなり高い身分を持つ。
しかも、王太子アレクサンドル殿下との婚約も決まっているし、容姿端麗な美少女だし、頭も良いし……。
非の打ち所がないと思う。たった一つ、アリサに欠点があるとすれば自信がなくて、いつもおどおどとしていることだった。
アリサの妹のエレナは華やかな美人という感じで、比較すると、清楚でお淑やか系のアリサは、目立たない。
そのことで、アリサは劣等感があるみたいだった。アリサは人付き合いもあまり得意ではないみたいだし……。
でも、わたしはエレナよりアリサのほうが好きだった。アリサとは昔から仲良しで、お互いなんでも相談できる。
わたしも冷めた性格のせいで、どちらかといえば学園では浮いている方だったので気が合うのかもしれない。
だからアリサのことは愛称でリサと呼んでいるし、アリサもわたしのことを「マーシャ」と愛称で呼んでいる。
アリサは恥ずかしそうに微笑んだ。
「マーシャ姉さんが……その……」
「恋愛話をするなんて意外?」
こくこくとアリサはうなずいた。
まあ、わたしもアリサもそういう話題をしたことがない。わたしもまったく興味がなかったし。
アリサは婚約者の王太子殿下と疎遠なことが悩みみたいだけれど、それは恋愛話とは少し違った。
「しかもマーシャ姉さんの好きになったお相手がユリアンさんだって、驚いちゃった……」
「貴族でもない人を好きになるなんて、おかしいと思う?」
わたしはアリサに否定されたらどうしよう?と不安になった。けれど、アリサは首を横に振った。
「おかしいことなんて全然ないと思う。最近では貴族と平民の結婚だって、増えているし……」
「け、結婚?」
「うん。えっと、想像しちゃった?」
普段は大人しいアリサが、ふふっと笑ってからかうように尋ねる。
わたしとユリアンが結婚……。
想像すると、顔が赤くなってくる。
「そ、そんなことできるわけないわ」
「そうは思わないけど。その……こんな言い方は良くないかもしれないけれど、マーシャ姉さんは婚約の話がなくなったんだから、恋人を作っても問題ないと思うし……」
「でも、お父様がきっと新しい婚約者を探してくるわ。それに、わたしが有力な貴族に嫁がないと、うちの家も困っちゃうし。それにユリアンだって、わたしのことなんて……きっと何とも思ってない」
わたしは早口でそう言った。考えれば考えるほど、ユリアンへの思いを成就させるなんて、非現実的だ。
でも、アリサは優しく言う。
「大事なのは、周囲がどうかじゃなくて、マーシャ姉さんがどうしたいかじゃない?」
「で、でも、わたしは望んだことを望んだ通りにできる立場じゃない。貴族の娘だもの」
「それは誰だってそうだよ。わたしだってそう。けれど、だからこそ、自分の望みを実現するために周りを変えていかないといけないんじゃないかな」
内気なアリサにしては、珍しくはっきりとそう言いきって、それからアリサは顔を赤くした。
「偉そうなことを言ってごめんなさい。わたしには、そんな強い望みなんてないもの。マーシャ姉さんが羨ましい」
「そ、そう?」
「うん。だからこそ、マーシャ姉さんには、自分の望みを叶えてほしいな。わたしには……できないことだもの」
わたしははっとした。アリサは恵まれた境遇に生まれているけれど、それは自由であることを意味しない。
ただの伯爵家の娘のわたしと違って、アリサは未来の王妃となることが決まっている。
わたしなんかより、ずっと重い責任を負っている。
そう思えば、わたしの抱える問題なんて、それほど困難じゃない。伯爵家を立て直して、自分で自分の道を決められるように家族を説得して……そして、ユリアンにわたしを受け入れてもらえばいい。
簡単じゃないけれど、一歩を踏み出すことはできる。
「ありがとう、リサ」
「わたし、お礼を言われるようなことは何もしていないよ?」
「リサのおかげで決めることができたもの。……わたし、ユリアンに好きになってもらえるように努力してみる」
アリサはちょっと驚いた顔をしたけれど、でも、すぐに優しくうなずいてくれた。
☆
「え、えっと、お嬢様……」
ユリアンが戸惑ったような顔で、わたしを見つめる。
ここは王都にある王立学園の時計塔。その最上階だった。
ユリアンも伯爵家の一員として、わたしのすぐ下の学年で教育を受けている。
とりあえず、ユリアンとの仲を深めるために、デート?らしきものをしてみることにした。ついでに、ユリアンがわたしをどう思っているか、探ってみよう。
わたしたちが共通で知っていて、お洒落でロマンチックな雰囲気のある場所。それで無理なく誘える場所。
となると、学園の時計塔の最上階だった。アリサもそう言っていたし……。もっともわたしもアリサも恋愛経験がないから、不安だけれど……。
それにこの時計塔に昇るのはわたしも初めてだ。
今は夕方で、この時間に学園にいる人間は少ない。だ、誰にも邪魔されないはず……。
この最上階から一歩上がれば、王都の美しい街並みを一望できる展望台がある。
でも、ユリアンはどこかそわそわしている。
「あのう……お嬢様……」
「な、なに?」
ユリアンの落ち着かない様子の理由に、わたしは思い当たった。
「ゆ、ユリアンって……もしかして高いところが苦手?」
「実はそうなんです……」
ユリアンは青い顔のまま、えへへと笑った。
しまった……!
良い雰囲気になるどころか、ユリアンが怖がるようなところに登らせてしまうなんて……。
やらかした……と思う。
これでは展望台から王都を眺めるどころの話ではない。
でも、とユリアンが言う。
「お嬢様が僕をここに連れてきたのは、なにか理由があるんでしょう?」
「そ、そうなの……えっと……」
実はあなたのことが好きだから、とは言えない。
そういえば、何も言い訳を考えてこなかった。
わたしが慌てていると、ユリアンは何かを察したのか、くすりと笑った。
「展望台、上がって王都の景色を見てみましょうか」
「でも、ユリアンは高いところが苦手なんでしょう?」
「お嬢様がいれば、平気かもしれません。一歩を踏み出してみないと、何も新しい景色は見えませんから」
そう言うと、ユリアンは意を決した様子で階段を上がった。
ど、どうしたんだろう……?
わたしは慌ててユリアンの後をついていった。
強い風が吹き抜ける。
展望台の中央には大きな鐘がつけられている。時計塔はかなりの高さで、柵こそあるけれど、眼下には王立学園の校舎、そして王都の町が広がっている。
家々のガス燈やロウソクが、黄昏時の町に幻想的に浮かび上がる。秋の夕暮れが、魅惑的な景色をもたらしていた。
こんなに綺麗な風景が広がっているなんて、知らなかった。
ユリアンは呆然と立ち尽くしていた。景色を見ることもできず、目をつぶっているみたいだ
「やっぱり、怖い?」
「そ、そうですね。情けないですが……」
「ううん。わたしが悪いんだもの」
せめてユリアンを少しでも安心させてあげたい。
わたしは一瞬ためらって、それから、ユリアンの手をそっと握った。
男の子にしては小さくて、柔らかい手を、わたしの両手が包み込む。
ユリアンがびくっと小さく震える。
「お、お嬢様……?」
「ごめんね。こんなところに連れてきて」
「いえ、お嬢様が僕をここに連れてきてくれて嬉しかったですから」
「どうして?」
ユリアンは目をつぶったまま、少し顔を赤らめた。
「ここは学園のデートスポットとして有名なんですよ」
「え? そうなの?」
「はい。ここで告白すると、卒業後もずっといっしょにいられるだなんて、そんな噂があって、みんな信じているんですよ」
し、知らなかった……。
貴族が多い王立学園も、当然、生徒同士の恋愛はある。下級貴族は婚約者が決まっていないことも多いし、この学園でお相手を探すこともある。
そして、仮に婚約者がいたとしても……それ以外の相手と恋愛に陥ってしまうことは少なくなかった。
誰かを思う気持ちは、自分で抑制できるものじゃない。
わたしの婚約者が真実の愛を見つけたと言ったように、そして、わたし自身がユリアンを好きになってしまったように。
ユリアンはゆっくりと目を開き、そして、わたしの手をぎゅっと握った。
時計塔の鐘が鳴る。
ここには、わたしたち以外に誰もいない。
「……綺麗な景色ですね」
「平気なの、ユリアン?」
「はい。いえ、平気ではないですが……でも、勇気を出して見てみる価値のあるものだと思いました」
ユリアンはそう言って微笑んだ。
「怖がっていたら、美しいものも大事なものも見ることができませんから」
「……そうね。わたしもそう思う」
一歩を踏み出してみなければ、できないことがある。
ユリアンが優しく、わたしを青い瞳で見つめる。
自然と見下される形になる。ユリアンってこんなに大きかったんだ。
「最初に会ったときは、わたしの方が背が高かったのにね」
「僕もお嬢様も大人になりましたから」
そんなふうに、ユリアンがささやく。
わたしたちは幼なじみで……でも、わたしはその先へと行きたい。
急に握った手が意識される。
わたしが慌てて放そうとすると、ユリアンがそっとそれを押し留める。
「ゆ、ユリアン?」
「ここで告白したら、ずっと一緒にいられるっていうジンクス、お嬢様は信じますか?」
「わ、わたしは……」
普段のわたしは、冷めた人間だ。そんな合理的じゃない話、根拠がなければ信じない。
だけど……。
「えっと、ユリアンは笑うかもしれないけど……信じてみても、いいかも」
「笑いませんよ。僕もそう思っていますから」
そこで、ユリアンは深呼吸した。その言葉の意味を考え、それに思い当たるよりも、ユリアンの行動の方が早かった。
ユリアンはわたしをまっすぐに見つめて言う。
「僕はお嬢様のことが好きです」
わたしは衝撃のあまり、立ち尽くした。
嬉しい、という感情より先に、「どうして?」と「わたしから言おうと思っていたのに」という思いが湧き起こる。
「そ、それって、幼なじみとしてって意味? それとも主人としてって意味?」
「もちろん、そのどちらとしても、僕はお嬢様のことを好きですよ。でも、僕が言いたかったのはそうじゃありません」
「女の子としてのわたしを好きって言ってくれているの?」
「はい。お嬢様は、僕にとって世界で一番魅力的な女性です」
ユリアンは恥ずかしそうに言うと、うつむいた。
「わかっています。お嬢様みたいな美しくて優秀で優しい人と、僕では釣り合わないって。それに、僕とお嬢様は身分が違いますし……。でも、お嬢様が婚約を破棄されたのを知って……伝えずにはいられなかったんです。受け入れていただけるなんて、そんなこと――」
ユリアンの言葉が終わる前に、わたしはユリアンに抱きついた。
びっくりした様子で、ユリアンが固まる。
「お、お嬢様!?」
「わたしも……ユリアンのことが大好き!」
わたしは甘えるように、ユリアンにしなだれかかる。
ユリアンは耳まで顔を真赤にして、わたしを青い宝石のような瞳で見つめていた。
「そ、その……本当ですか?」
「嘘なんかで大好きなんて言わないもの」
「で、でも……」
「ユリアンはわたしのことが好き。わたしもユリアンのことが好き。何も問題ないでしょう?」
「だ、抱きつかれるのは少し恥ずかしいです」
「昨日は平気な顔で、わたしの頬を撫でたくせに」
「あ、あれは……背伸びをしていたんです! 落ち込むお嬢様の力になれればと思って……」
「本当?」
「ええと、単純にお嬢様に触れてみたいなと思ったのもありましたが……」
「……ユリアンのエッチ」
「い、いやらしいことは考えていませんってば!」
「だったら、いやらしいことを考えずに、背伸びして、わたしを抱きしめ返してよ」
わたしがいたずらっぽく言うと、ユリアンはおずおずとわたしの腰に手を回し、そしてぎゅっとわたしを抱き寄せた。
ひときわ強い風が展望台を吹き抜ける。秋の風はそれなりに冷たかったけれど、少しも寒くは感じなかった。
だって、ユリアンがわたしを抱きしめてくれているから。
「ここで告白したら、一生一緒にいられるのよね?」
「そ、そういうジンクスはありますけれど……」
「なら、それを本当のことにしてほしいな」
わたしが甘えるようにねだると、ユリアンはこくりとうなずいた。
「必ず……僕がお嬢様を幸せにしてみせます」
「うん、わたしもユリアンの力になりたい」
これからどうすればいいのか。問題は山積みだ。
身分差、家のこと、お父様たちの反対、わたしの将来、そしてユリアンとの関係。
困難はいっぱいだけれど、きっと乗り越えられる。
貴族と平民の結婚だって珍しいことじゃない。
アリサのように、わたしたちを応援してくれる人もいるはずだ。
先のことは不安だけれど、楽しみでもある。
これからは、主従じゃなくて、恋人としてユリアンと一緒にいることができるから。
そんなとき、人の気配がした。わたしは慌ててしまう。
二人で抱き合っている姿を見られるなんて……困ってしまう。
ううん、困ることはないんだけれど。わたしたちはもう恋人なんだし。
展望台の入り口に、カップルがいた。一人は小柄な可愛らしい女の子で、でも、わたしの知らない子だった。
でも、もう一人、背の高い男性はよく知っている。
「ニコライ様……」
わたしの元婚約者がそこにはいた。ニコライ様は驚いたように、茶色の目を見開く。そして、その銀色の髪が風に揺れる。
「マリヤ……その……」
そっか。ニコライ様も、「本当の愛」を見つけたお相手とここにデートに来たらしい。
少しおかしくなってしまう。
ニコライ様は気まずそうに目を伏せる。
わたしは、ユリアンを抱きしめたまま、ニコライ様に微笑む。
「そんな顔をしないでください。ニコライ様が婚約破棄をしてくれたおかげで、わたしも『本当の愛』を見つけられたんですから」
「執事なんかが君の相手なのか」
その言葉には、それほどの悪意は含まれていなかったと思う。純粋な驚きだったのだろう。
けれど、ユリアンを軽んじるような発言を、わたしは許せなかった。
「……ユリアンはわたしの大事な幼なじみで、大事な執事で、大事な恋人です。ニコライ様なんかよりもずっと優しくて素敵でかっこいいんですからね? わたしはもう、貴方なんかに何の未練もありません」
わたしはそう言うと、ニコライ様は屈辱を感じたような表情を浮かべたが、相手の女の子がニコライ様の服の裾を引っ張ると、仕方なさそうに時計台を降りていった。
わたしとユリアンは顔を見合わせ、くすっと笑う。
ユリアンはわたしの耳元でささやいた。
「お嬢様みたいな素敵な婚約者を捨てるなんて、きっとニコライ様は後悔しますよ」
「そうかしら? でも、ニコライ様のことなんて、もうどうでもいいわ。わたしにとって大事なのは……ユリアンだもの」
わたしがそう言うと、ユリアンは照れてしまったのか、口をパクパクさせた。
可愛いな、と思う。
これからはユリアンの可愛いところもかっこいいところももっと知っていけるんだよね。
「ねえ、ユリアン」
「な、なんでしょうか、お嬢様?」
「お嬢様って呼び方、変えてみない? マーシャって、愛称で呼んでほしいの。だ、だって……わたし、ユリアンの恋人でしょう?」
わたしが勇気を振り絞ってそう言うと、ユリアンは顔を耳まで真っ赤にして、でも、嬉しそうにうなずいた。
「え、えっとマーシャ……?」
「ありがとう、ユリアン」
ユリアンはわたしに告白してくれて、わたしのことを愛称で呼んでくれた。
だから、わたしからも、ユリアンに思いを伝えなくちゃ。
わたしはそっとユリアンに顔を近づける。唇が触れるほどの近さになり、わたしはどきりとする。
このまま唇にキスをしたら……想像して、我ながらはしたないかもって思う。
でも、いつかはそんなことができる日が来るはずだ。
今は……。
わたしはユリアンの頬に口づけをした。
それでも、ユリアンは十分にうろたえていた。
わたしはくすっと笑う。
「いつか、ユリアンから唇にキスしてほしいな」
「で、ですが……それは恐れ多いというか……」
「わたし、ユリアンになら何をされてもいいもの」
わたしはからかうように、でも、本音を言う。
ユリアンが望むなら、わたしはきっとなんでも受け入れてしまう。
ユリアンがわたしの望みを叶えてくれるから、わたしのそばにいてくれるから。
大切なものはすぐそばにあるって、わたしは知らなかった。
本当の愛を、わたしは見つけたんだと思う。
幼馴染執事とのイチャイチャでした……!
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