勇者と英雄〜我が始祖・望月春朝から〜
「真の栄光は、沈黙のうちに自分自身に打ち克つことから生まれ出てくる。その過程なくしては、たとえ敵国を征服し勝利を得ても何にもならず、ただ私欲の奴隷となるだけである」
サミュエル・スマイルズ『自助論』より
二千年前に活躍した望月春朝と言われたら、何を真っ先に思い浮かべるだろうか。
大半の人々は「初代勇者」、そう答えるだろう。
しかし、その「大半の人々」は実は平民などの大衆であることを認識している人は果たして幾ら居るだろうか。まあ、それも仕方のないことではある。彼らは童話や物語、戯曲などで多く取り上げられる初代勇者をそこで学び、同時に「勇者」に対して強い憧憬を抱くのだから。
だが、彼についての認識は社会階層が異なればかなり違ったものとなる。
例えば、平民でも知識人、また男爵や子爵などの中小貴族になれば彼は「勇者」でもあれば「英雄」でもある。
さらに、これが侯爵や公爵などの上流貴族、皇族、歴史家となれば彼への評価は完全に「英雄」となる。むしろ、彼らに勇者の中で最も勇者らしくないエレメンターは誰か。と問いたら、迷わず望月春朝と答えるだろう。
何故、このような齟齬が生じ、また私も含めてはあるが彼ら上位者たちは己の始祖でもある初代勇者を「英雄」と言うのだろうか。
答えは簡単だ。
始めに、一つ目の疑問に対する答えは「教育」だ。そもそも、望月春朝イコール初代勇者という認識を一般大衆が抱いている時点で、帝国の教育政策は成功していると言える。より限定して言えば、望月家の意向が適っているとも言えるのだ。
それを証明する様に、望月家は庶民にかなり人気がある。と同時に、強い期待も寄せられているのだ。そのため、政治家・企業家としての望月家は他の家を寄せ付けない程の信頼と信用が存在する。
もっとも、現在の一番人気は望月家よりも涼羽=ヴァトリー公爵と彼率いる特別諸般対策考案部隊なのだが。
次に、彼が上位層のエレメンターや非覚醒者の歴史家から「英雄」と呼ばれる理由だが、これは単に彼らが庶民より正しい認識ができているということに他ならない。
その正しい認識とは、勇者と英雄の定義の違いである。「勇者」と「英雄」の二つ、いやこの二人の違いについて聞かれた時、意外と正確に答えられる人間は少ない。
地球での辞書的な意味では、前者は勇気の有る者であり、後者は偉業を成し遂げた者を指すが、魔境ではかなり異なってくる。
魔境での一般的な意味を紹介すると、前者は悪魔を討ち滅ぼした者に与えられる称号、後者は戦争で偉大な功績を立てた者への称賛の言葉となる。
しかし、ここまでの説明しかできないとあれば、認識が甘いとしか言わざるを得ない。
なぜなら、勇者と英雄の根本的な違いを説明できていないのだから。
では、まずは勇者について説明しよう。
勇者についての記述は初代勇者の時代よりも前の地球、古代中国において確認されている。儒教で重んじられている『論語』の中に、「知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は慴れず」とあるのだ。
解釈としては、勇気の有る者は何事にも怯まず立ち向かい、正義を貫くというのが一般的だ。もちろん、「勇」は「無鉄砲」のことではなく、「やらない勇気」も含める。
これに沿って歴代の勇者を見てみると、なるほど確かに勇者はそうだ。死を恐れない、魔王を恐れない、悪魔を恐れない、正義を貫くことを恐れない、愛を信じることを恐れない、自由の責務を恐れない、自由を追い求めることを恐れない、人々の智慧を恐れない、過去を恐れない、理不尽を恐れない、そして、人々から恐れられることを恐れない、そんな存在が多い。唯一恐れたことは、逃げることだ。
しかし、望月春朝はあらゆることを恐れていたからこそ名を残した存在だ。死を恐れ、されど覚悟を決めた。大事な人を失うことを恐れ、されど大切な人を増やし続けた。正義を使うことを恐れ、されど正義を貫いた。裏切られることを恐れ、されど愛を信じ続けた。理不尽を恐れ、されど理不尽と戦い続けた。そして、人々から恐れられることを恐れ、されど人々のためにその強大な力を振るい続けた。
これは、勇者というよりも英雄の特徴であった。
次に、英雄の説明だ。
簡単に言えば、「英雄」とは「人々を戦争へと駆り出す存在」だ。確かに、内政、外交、政治で功績を打ち立てた英雄もいるが、考えてみてくれ。果たして、その中に直接的にしろ間接的にしろ、人を殺さなかった英雄はいるのか。答えは否。断じて否だ。
そもそも、少なくとも魔境において英雄と呼ばれる者達は皆戦争時に活躍しているのが多い。さらに、より人を殺した者程、後世においてその人気度は高い。望月春朝でさえ、助けた人間よりも殺した人間の方が圧倒的に多いのだ。その殺した人間の中には、自身によって戦争へと連れて来た者達も入る。
故に、彼は英雄と呼ばれることを嫌ったのだろう。その影響によるものか、勇者と呼ばれる存在は英雄とは真逆に救った人間の数が殺した人間のそれよりも多い。まあ、統計の仕方にもよるが。
これは余談にはなるが、「英雄色を好む」というだけに、春朝は妻が九人居た。これも、立派な英雄の特徴と言えるだろう。
加えて、英雄は人を従える存在であった。そのカリスマ性か、はたまたその人間性か。いずれにせよ、英雄には友となった人間よりも部下や臣民の数の方が圧倒的に多い。これは、勇者には無い特徴だ。世に有名な勇者とその仲間を思い浮かべてくれ。どうだろう、彼らは勇者の配下の人間だらうか。否、彼らは勇者の対等な仲間であり、生涯の親友であった。彼らは互いに背を預け合い、互いを信頼して魔王や悪魔と戦った。そこに、上下の関係は無かった。
言い換えれば、勇者は強い絆で横の関係を創るが、英雄はピラミッド型、もしくは完全な縦の関係を創っていたと言える。
望月春朝は確かに「仲間」を連れ添って戦場へと向かった。しかし、何時しかその関係は彼らの規模が増す毎に主君と臣下となっていく。そうして、戦場を駆け巡り、敵を屠り、味方に希望を齎し、そして、我を貫いた。最終的には、トイラプス帝国のナンバーツーである公爵家にまで出世した。
つまり、勇者と英雄には曖昧な境界線ではあるがその勢力の大きさにおいて区別されるとも言える。
この点においても、彼はもはや勇者ではなく英雄のエレメンターなのだ。
そもそもの話だが、勇気というのは意外にもその優先度が低く見られることがある。孫子の兵法には以下の様な記述がある。
「将とは、智、信、仁、勇、厳なり」
将軍、つまりリーダーに必要なのは、智慧と信頼、思いやり、そして勇気と厳格である、と説いているのだ。
ここで、一つ問いたいことがある。将軍と聞いて、真っ先に連想するのは何だろうか。
人によって違いはあれども、一定数の人々は「勇」と答えるのではなかろうか。しかし、リーダーに必要なのは常に冷静な判断ができる人であって、蛮勇で以て事に挑む者ではない。故に、孫子も「勇」を4番目に大切だとは述べるが、最も重要なものではないと説くのだ。むしろ、「勇」が有って、「義」が無ければ立派な人物であっても世を乱し、小人は盗賊となる。『論語』ではそう言っている。私も勇者と英雄が居たら迷いなく英雄に軍を託すだろう。
では、何故魔境の歴史は勇者という存在が必要だったのだろうか。
教会がエレメンターを統制し、教皇が悪魔を討ち、皇帝が国を治め、将軍が軍隊を率い、英雄が人々を導いた。はっきり言って、役は足りていたのだ。強いて言うのであれば、魔王の対となる者か。
無論、暗黒世界との戦争において、勇者は人々に勇気を与え、奮わせるプロパガンダとして重要な役割を果たした。それは歴史が証明しているし、実際勇者がいなければ敗北していた戦争もあった。勇者が人民向けの宣伝としての存在であったことは否めない。
だが、彼らの本質はそれではない。では、彼らの本質は何か、と聞かれれば最初に言ったことと全く逆になってしまうが、望月春朝を考えると自然と理解できる。
義を以て上と為し、学を好み、仁を実践する。彼らは自分勝手な「意」、決めた通りにやらなければ気がすまない「必」、一つの事に執着する「固」、自分の事しか考えない「我」の4つを捨てた。彼らには自分への執着はなく、しかし自己鍛錬を怠ることはなかった。英雄が「我」を貫く者が多いことを考えれば、勇者と英雄が全く異質の存在であることが分かるだろう。
英雄が前を切り拓き、民衆を導く存在とすれば、勇者は人々の横に立ち、彼らの「理想」を照らす存在であり、魔境にはエレメンターのみならず魔族にも非覚醒者にも必要な存在であったのだ。
つまり、勇者とは敵を討ち滅ぼした者のことではない。誠実であり、己に勝ち、欲望を克服した者こそが真の勇者なのだ。彼らの勇気とは、恐怖心の欠落ではなく、怖れの克服であった。勇敢な人が必ずしも仁を備えているとは限らなかったが、仁を備えた勇者が逃げ出すことは終ぞなかった。理不尽に抗う勇気があり、そしていつの時代も「未来」を「理想」へと変えていた。
その点においては、最も勇者らしくないと言われる望月春朝は、真の勇者であった。
4062年4月32日
パラディグマ学園中等部1年1組24番望月明衡
異世界ものと言えば「転生」や「魔王」と並んで「勇者」が代名詞になることもありますが、私ははっきり言って勇者がそこまで好きではありませんでした。最近は勇者を悪役にした作品も増えていますしね。
しかし、私が勇者を嫌った理由としては、本文で書いた様に『孫子の兵法』において将に求められる資質として勇気の優先度が低いこと。また、勇気は義が無ければ「盗」に、智慧が無ければ「蛮勇」に、先見の明が無ければ「無鉄砲」になり得るという危険性を孕んでいます。実際に、『論語』でも大事なこと(礼)を見失えば「勇」は社会を乱すものになる、と言っています。故に、勇気は正義と同様に嫌いな部類でした。そもそも、Braveの原義には「野蛮な」という意味がありますし。
勇者が嫌いな反動なのでしょうか、英雄や知者、仁者は大好きですがね。
しかしながら、今回「勇者と英雄」を書き、自分の考えを纏める内に考えが変わった、というよりは本来の「勇気」が見えて来て、そちらの勇気(courage)は気に入りました。
「逃げることに臆病な者が勇者である」
結局、この一言に尽きると思います。普段は勇気がある様に見える行動をする人が土壇場になって動けなくなる、または逃げ出す。そんな話は珍しいことではありません。
「義を見て為さざるは勇無きなり」
大事な場面でこそ怯まず立ち向かえる。そんな「真の勇者」になら私は成りたい、いや成らなくてはいけませんね。
ちなみに、こういう経緯もあり、主人公である山滉穎は英雄になることはあっても勇者になることはありえません。同様にして、感情が欠落した波俊水明と恐怖心があるのかも分からない完璧人間、虎武龍麒も勇者になる資格はありません。つまり、彼ら感情欠落ファミリーは絶対に勇者になることはできない、ということです。
今まで出たキャラクターの中で勇者になることができそうなのは、イヴァン=J=グランドウォーカーくらいでしょうか。