惨劇
昼間の晴天とは打って変わり、日が傾き始めてからというもの雨が叩きつけられるような勢いで絶え間なく降り注いでいる。
夜になっても止む気配のない雨にソフィアは妙な胸騒ぎを覚えていた。
いつまでも消えない不安を抱きながら、星の光も見えない暗闇と雨を、ソフィアはぼんやりと眺め続けていた。
「ソフィア、そんなに心配しないで。お父様もお兄様も一緒だから」
「ありがとう。クーデリカ」
ソフィアは、窓から離れるとクーデリカが寝ころんでいるベッドに腰をかけた。クーデリカの寝室に寝泊まりするようになって二日が経っていた。
憂いの表情を浮かべていたのはソフィアだけではなかった。
「でも、違うわ」
「え?」
「私が心配なのは、お母様よりもクーデリカ。貴方のことよ」
ソフィアの言葉に、クーデリカは目をかすかに見開くと、そのまま押し黙ってしまった。
俯くクーデリカをソフィアは目を反らすことなく、じっと見つめた。
長い沈黙が続いたあと、ソフィアに根負けしたクーデリカはようやく口を開いた。
「ソフィアったら、意地悪だわ。そんな顔をされたら黙ったままの私が悪いみたいじゃない」
口をとがらせて、ふてくされるクーデリカに、ソフィアは安堵した。感情を押し殺したように俯いているのは彼女には似合わない。
クーデリカの言葉を聞き漏らさぬようソフィアは彼女の腕を抱きしめ、側を離れようとはしなかった。
「最近ね、お母様の様子がおかしいの」
ソフィアは、昼間のことね、と頷いた。
「皆でいるときのモニカ様は普段通りだったわ。でもエドガー様、ルートヴィッヒ様の姿が見えなくなった途端、別人のようになってしまった。私がエドガー様の家に泊まるようになってから二日経つけど、あんなにも厳しい顔をするモニカ様は初めて見たわ」
どうしちゃったのかしら、と言い掛けたソフィアの言葉を遮るようにクーデリカは口を開いた。
「私を冷たい目で見るのは、私と二人きりの時だけだった。ソフィアと一緒に居れば、怖いお母様を見なくて済むと考えていたけれど、間違いだったみたい。正直、今のお母様は怖くて近寄りたくないわ」
「そんな……貴方の大切なお母様じゃない」
「わかっている。……ねえ、内緒にしていたけど、アン様にお母様のことを相談したの」
「お母さんに? なんで」
「私の両親とアン様は、私たちが生まれる前からの親友だってお父様が言っていたでしょう。もしかしたら、お母様は悪魔に憑かれたと思ったから」
悪魔、クーデリカから口から零れ落ちた突拍子もない言葉。
しかし、ソフィアは冗談ばかりと笑うことも、嘲ることもしなかった。
悪魔祓いの技を学ぶことができる聖都サンペトロ。
そこで修練を重ねたエドガー、ルートヴィッヒ、モニカ、そしてソフィアの母であるアン。彼らは手練れの聖職者として働いていた。
クーデリカはベッドから起きあがると、自分の引き出しから一冊の本を取り出した。ページが開くことができぬよう厳重に紐で縛られた書物をソフィアに差し出した。
「この本は?」
「アン様に相談したときに頂いたの。手放さないよう大事に扱いなさいと」
表紙はぼろぼろで、長い年月が経ったせいか所々が黄ばみ朽ちかけている。
差し出された本を手に取ろうとしたソフィアが腰を上げたその時、部屋の扉が乱暴に開かれた。
開け放たれた扉を見つめる二人の視線の先にいたのはモニカだった。
モニカは虚ろな瞳で能面のように無表情だった。
「お、お母様?」
クーデリカは咄嗟に本を背中に隠した。
恐る恐る声をかけらが返事はない。モニカは扉の前から一歩も動こうとはせず、ひとしきり部屋の中を見回した後、乱暴に開いた扉をそのままにして立ち去っていった。
「今の、本当にモニカ様なの?」
ソフィアは急いで扉を閉めると、必要がないと思っていた内鍵をかけた。
「今まではあんなことなかったのに。最近、お父様とお兄様が出かけるようになってから、段々と変わっていってしまった。だから、お父様たちがいない日は部屋に閉じこもるようにしているの。ごめんね、ソフィア。あなたを巻き込むような形になってしまって」
「気にしないで、私こそ今まで気付いてあげられなくて、ごめんなさい。あなたがこんな怖い目にあっているのなら、私がずっと一緒にいてあげる。モニカ様と二人きりになるのが怖いのなら、今度から私の家に泊まりに来ると良いわ」
「ありがとう、ソフィア」
「ただ、私の家のベッドは二人で横に眠れるほど広くはないわよ」
「あら、それならこうして体を寄せ合って眠ればいいわ」
二人は手を取り合うと、一つのベッドに体を横たえた。
「ねえ、ソフィア。今度一緒にサンペトロに行きましょうよ」
「行けるなら行ってみたいけど、馬車でもすごく時間がかかるのでしょう」
「馬車で十日以上はかかった気がするわ。でも教会に飾ってある人形を一緒に見たいの。凄くきれいなんだから」
「教会に人形が飾ってあるなんて不思議な話ね」
「なんて名前だったかしら。確か、デウスエク……。ごめんなさい、忘れちゃったわ。由緒ある人形で、誰にも操れない糸人形ってお兄様が言っていたわ」
ソフィアはクーデリカと他愛のない話をしているうちに、窓を叩く雨の音も、胸の中に渦巻いていた不安も気にならなくなっていた。
どれほどの時間が経っただろうか。ソフィアは横たえた体を起こし、視線を窓の外へと向ける。外の世界は未だに闇に包まれ、鳴り止まぬ雨が先ほどよりも強く窓を叩いている。
時折、闇夜に雷が走り、強く吹いた風は、ぎしぎしと窓枠を揺らした。
寝てしまっていたのね。
ソフィアの隣では安らかな寝息をたてるクーデリカがいた。
再び目を閉じようとしたソフィアの耳に、野太い叫び声が聞こえた。夢かと思う間もなく、二度三度と屋敷に全体に響きわたる絶叫に、クーデリカも飛び起きた。
「今の声は?」
クーデリカはソフィアの手を強く握りしめ、叫び声が聞こえた方向に視線を向けた。
「たぶん、玄関の方からだと思う。私、見てくる」
「待って、私も一緒にいくわ」
引き出しに隠した古い本を手に取ったクーデリカは、空いた手でソフィアの手をかたく握った。
ソフィアはクーデリカを守るように一歩に前に出るとドアノブへと手を伸ばした。
ドアの隙間から聞こえてくる雨音。
玄関の扉が開かれているようで、雨音が家の中にいてもはっきりと聞こえた。
冷たい風が通り抜けていく廊下は薄暗い。点々と置かれたランプの灯りを頼りに、ソフィアたちは廊下を進んでいく。
玄関を一望することができる廊下へとさしかかり、二人は息を殺しながらしゃがんだ。
階下を見下ろした彼女たちの視線の先にいたのは、二つの影だった。
一つの影は床へと横たわり、動く様子はない。もう一つの影は、倒れた影に重なるよう馬乗りになっている。
さらに両手を振り上げると、何度も何かを打ち付けていた。
二人は人影に気付かれぬよう、屈みながらじっとしたまま、その様子を見守った。
闇夜に段々と目が慣れてくる頃。ソフィアは凄惨な出来事を目の当たりにしていたことを理解した。
目を凝らした視線の先にあった影の正体は、二人がよく知る人物だった。クーデリカの父であるエドガー、そして母である、モニカだった。
モニカはエドガーに馬乗りになり、両手で握りしめた鈍器を幾度となく叩きつけていた。
鈍器と体がぶつかり合う度に鮮血がほとばしり、鈍器を振り上げる度に付着した血は至る所へ飛び散った。
モニカはエドガーが死んでいても、鈍器を叩きつけることをやめようとはしなかった。
ソフィアの隣で、どさっと物が落ちる音が聞こえた。
物音がした方を見ると一冊の本がある。
クーデリカの手からこぼれ落ちた本。その音に気がついたのはソフィアだけではなかった。全身を舐め回すような、じっとりと視線が二人に纏わりつく。
おぞましい気配を放つモニカが、こちらを見つめている。
鈍器と肉塊がぶつかり合う音が止んだ。モニカは返り血で全身を赤く染め表情のない顔で、じっとソフィア達を見ている。
硬直して動けないソフィア達を後目に、ゆっくりとした動作でモニカは立ち上がった。一歩、二歩とつたない足取りで歩きはじめたかと思えば、視線をソフィアたちに固定したまま、叩きつけるような足音と共に走り出した。