魔の森④
佐直汐音だった頃は運動なんて休日のストレッチくらいしかやっていなかった。
おかげで先のザルートル兵のようにスムーズに動けるなんてことはなく、ツアー初っ端の馬車にも飛び乗ることすらできずに情けない痴態を晒していた子とは記憶に新しい。
しかしそれは比較対象が悪いだけなのである。そもそも素人と軍隊では食事量から違う。カロリーを消費し効率よく栄養を摂取して身体を作って……などという高尚な生活が一般人にできるわけがないのだ。それもビールをガッツリ呷っていたような女に。
そう考えれば魔素で作られた生後1ヶ月ほどの身体が約30年の生活が染みついた身体より若いことには変わりないし、メンテをしなければ軽いジョギングですら筋肉痛の起こっていた転生前より確実に軽く動くことができていた。文字通り身体を変えたのだから。
そんな赤子同然の肌荒れを知らない身体に追加して「気が向いたからランカー目指すわ」なんて言いあうようなゲーマーと形容しがたいレベルのエンジョイ勢ではあったものの色々なゲームを渡り歩いてきたその経験から、アルマはスライムの攻撃パターンを見抜く程度の頭もあった。
多勢だが弱点を予め教えられていた事と、その体高が己の膝以下だった事。そして何より空を飛ばなかったことが大きいが一人で対処できるかと不安に思っていたアルマをいい意味で裏切ってくれた。
だからこそその変化に気づいてしまった。
足元に注意を払いながらスライムを探し、範囲外に逃げてから火を放つ。
(パターンが変わった……)
個体数200と少し。
増殖しかけていた分を含めれば300をゆうに超える数を、足を狙う指を避けながら小火のみで処理していたアルマは数分前からぴたりと攻撃が止んでいたことに気づいて静かに作戦をシフトした。
最初は巨木の根本にへばり付いているだけだったスライムが巨大な沼の中で円を作るように陣取りはじめたのはゲーム上での経験とはいえやはり不自然にしか思えない。まるで何かを守るかのようである。
「トークアプリ……は流石に欲張りすぎるか。せめて電話があればなぁ……」
こんなことで呼び出すのも申し訳ないしと脳裏に小一時間ほど前にピーンナから召喚用として渡されたクラッカーを思い浮かべてポーチを上から摩り、少し考えてから手をおろした。アルマは発煙筒や狼煙のような物だと考えていたので様子がおかしい程度で使うべきではないと考えてしまったのである。
なお固定電話に似た通信機はアルマがないと決めつけているだけで普通にある。ザルートルの鎧に必ずついているものはトランシーバー的なものなので同じ鎧を持つ者同士でしか通信はできない。
実際はミランダがピーンナに隠して注文したいくつかのうちの一つなのでアルマが手渡されたものの効果は違うのだが、本来はただの召喚筒である。簡易召喚陣を組み込まれているのでその場に近い人間をランダムで僅か数秒以内に己の元に転移させる効果を持つ物だ。
一応準高級アイテムではあるが、帝国騎士団では必須の物資だったし市場にも普通に流れているのでピーンナはアルマが既知であるとしてその効果を教えていなかった。
アルマはわざわざこちらに馬を走らせる彼らの手間に対して申し訳ないし時間がかかるなら逃亡時にやるべきだと考えていたので、ほぼノータイムで空間転移できるのを知っていたら今頃は尻側に着けられている糸を引っ張っていた。死霊魔術が使えないならぼっちになった意味はないし。別にインパクトのある技を見せつけてきゃあきゃあ黄色い声を飛ばしてほしいわけでもないし、まあそもそもそんな技を持っていないんだけども。
足元の不安定な沼の中で激しく回避を行っていたせいで視界を狭める頬かむり状態だったローブはとっくに肩の上にまで落ちてしまっていた。
これはこれでごわついて違和感があるのだが解いて泥を吸わせてしまえば汚れるわ重くなるわで不快指数は増えかねない。動き回る己の足にスライムが張り付こうとして来ないので巨木のようにへばり付かれることはないだろうけれども。
ポーチの中に入れられれば良かったのだがローブが入るほどの大きさはない。
「残り50とちょっとなんだけど、まだ大きな個体残ってるのかなこれ……」
視力が特別良いわけではないが目視できる範囲に最初にごろごろしていた程度の大きさの物は見当たらなくなっていた。
一回り小さめの個体じゃダメだろうかと小さく零せば逃げまどっていた小さなスライム達は脈の動きを弱めてみせる。
まるで息を潜めているかのような行動に一瞬心が痛んだ気がしたがいちいち言葉の通じない別の種族に気を割いていたらきりがないと持ち直す。
注意を払いつつ、ロッドを落としたときに付着したものが乾きだしたので手で払った。薄い膜となった泥はぺりりと音をたて燃え尽きた指と同じように剥がれ足元に浮いた。
その直後である。
気を抜いていたわけでは決してなかったのだが流石に視界の端からの攻撃には反応できるわけがなく。
一瞬でそれは顎をかすめる。アルマは横髪を一束犠牲にし、さらに露出した顔に赤く線を引いた。
節くれだった指だがその大きさは今までの比ではない。
透明なゼリー体の中で保護されていたはずの脈までが泥から露出した。どうやらその脈の先が一本ずつ例の指に繋がっていたらしい。
いくつもの関節を持つ長い指は鞭のようにしなり枝分かれした脈ごと生命を誘う様に揺らぎ方々に散った。
その様子にまるでイソギンチャクだと錯覚しながらアルマは数多の指の動きに注視する。
確実にアルマが敵対生命であることはばれていたはずだったが、初手不意打ちかと思われた指はアルマを越え木の根本へと伸びた。いくつかはそのまま巨木を貫いて見せたことにより指の強度と殺傷力までもを否応なく確認させられた。
と沈んだ指達はしっかり本体から続いた触手であったことを理解させるかの如く指全体を脈動させ、沼の中からお目当ての者を引きずりだした。
それはアルマが燃やしたはずのスライムの残骸であった。
ゼリー体の部分は解け、指は燃え尽き泥の上に薄い焦げた皮を落としたが泥中に潜っていた不透明の脈の部分はピクリとも動かないが形だけはアルマの火力が弱かった為に無事だったらしい。
器用に引っこ抜かれた脈の残骸の底、小さいカケラのようなものがついている。それは流石に物知らずであるアルマにも見覚えがあった。
「魔石!」
ずるりと指の先が開き脈の残骸を溶かし啜りながら根本へと戻っていく。
根本で蛇腹を作り縮んでいくと最後に残り滓と魔石を本体であるゼリー体の頭上へと落とした。
重力に従い落下しゼリー体に当たる瞬間、本体の半分ほどの大きさの口が飛び出てきて魔石ごとその中に吸い込まれていった。
その姿は正しくバケモノであった。
ピーンナが別れる前にぼやいていた《消える魔物の死骸⦆はおそらくこれに回収されたのだとアルマは気づいてしまった。
斃してきたスライムが全て魔石ごとアレの腹に収められていく。
あれだけの数だ。魔石が吸収されればおそらくモンスターとしての格が上がってしまうのは目に見えている。
だがアルマにはそれを止める術はない。
必死にロッドを本体の根本に向け火を放つがアルマの炎は大きさも火力も弱い。無数の指の触手の身代わりによって防がれてしまう。
自切によって消費した触手は捨てられそこから新たな指が生え、同じように死骸の回収が行われる。
近場の死骸が呑み込まれ、指はより遠くへと触手を伸ばし、アルマに減らされた分を倍へと増やし手数でカバーして行こうということらしい。
「いやいやいやいや」
ふざけるなよ、と引いて強張った口元がおもわずといった様に漏らす。
ずるりと沼の中を引きずるいくつもの重い音から離れようと身体は未だに死骸を貪る巨大スライム本体に向けたまま足を動かし倒れた巨木の元まで戻る。
背中にトンと木肌が触れたので、根に足をかけ引っ掴み駆け上ると巨木の影に隠れるべく飛び降りた。
泥が跳ねその顔までもを盛大に汚すが目の周りだけを袖で拭うとアルマは急いで魔物辞典のページを捲った。
着々とスライムの前に形成されていく兵に先ほどミランダたちが倒したはずのワーグが混ざっていたのである。




