山門の別れ 恋願寺は縁結びの寺
寂しいものですね。
運命って変えられないのでしょうか。
あのとき、もっと何かができなかったのかと、後悔するばかりです。
でも、万が一にもチャンスを与えられたのなら……
石段の段差は低く、急でもなく、長いわけでもない。
上るのに苦労はしない。
ところどころ苔がはえて、丸みをおびて、優しささえおぼえる。
終わりもすぐ先にあり、上りきれば、枯れ葉が散らばる参道へと続く。
涼太はゆっくりと上る。
ひとつひとつの石段を、一歩、一歩、大切に踏みしめながら。
恋願寺は錦秋のときを迎えていた。
モミジとカエデの赤茶けた葉と、イチョウのからし色が境内を染める。
九年前の同じ時期、晴美と最初のデートをした場所がここ恋願寺だった。
ふたりにとって、ここは特別な場所だった。
この日、涼太はひとりで参道を歩いていた。
ここにやってきたのは、自分の、晴美との気持ちを整理するためだ。
今日でけりをつけて、前に進もうと思っていた。
最初の石段に足をかけたときだった。かすかに背中に温かいものを感じた。
何だろう。この気配は?
誰かが後ろからついてきている?
首を少し後ろにひねると、愕然とした。
涼太の数歩後ろを晴美がついてくる。
彼女が現れるなんてことは予想していなかった。
涼太は前を向くと、動揺を気づかれまいと、苔がはりつく石段を、黙って上り続けた。
晴美は、一定の間隔をおいてついてくる。
涼太のほうも、自然と、晴美が遅れないようにと気をくばる。
晴美のこの日の服装は、お気に入りのベージュのロングコートだ。
境内を吹き抜ける秋風に、肩先まで伸ばした髪がなびく。
前髪が顔にかからないようにと指先でおさえる。
涼太のほうもこの日は、紺のスーツを着て、ウールのコートまではおって、オシャレをしていた。
大切な時間となった。
庭先の花にとまった蝶を、子どもが、手のひらで包み込むときのように、そっと慎重に扱う……。
石段を上りきると、立ち止まってみた。遠慮がちに、首をひねって、眼鏡の隅から後ろを見る。
ちょうど三段下の石段の途中で、晴美は立ち止まっている。
晴美のほうから声をかけてくるようすはない。
こちらから話しかけようかと、しばらく思案に暮れる。
おあつらえ向きの言葉が出ないため、ふたたび晴美に背を向けて歩くことにした。
彼女のほうも何事もなかったように残りの石段を上り、そのまま後ろからついてくる。
こうした時間が続くと、昔を思い出す。
涼太は面と向かっていわなかったが、以前から晴美の態度に少しばかり不満があった。
晴美は夫に甘えることをしない女性だ。
ふたりが並んで歩いていても、晴美は一度たりとも、涼太に自分の腕をからめてくることはなかった。
ここでも同じだろうか?
横にきて並んで歩いてはくれないのだろうか?
後ろに首をひねり、晴美のようすを確認する。
いっこうに、隣に身体を摺り寄せてくる気配はない。
すました顔で、三歩後ろを歩いてくる。
涼太は前を向いたまま、「晴美」と、名前を呼んでみた。
返事がない。
もう一度呼んでみた。それでもない。
「晴美……、晴美」
不安になって、くり返し呼んでみた。
しばらくして、晴美がおっとりとこたえる。
「はい。聞こえていますよ。何度も名前を呼ばなくっても……」
何はともあれ、返事をしてくれたのでホッとした。
「そうか……。ぼくの言葉、聞いていてくれているのか……?」
「もちろんですわ」
嬉しかった。
後ろから晴美がついてきてくれる。視界のすみではあるが、顔をほころばせて晴美がいてくれる。
恋願寺は都心から電車とバスとで、一時間ほどかかる多摩地区に位置する。
丘陵地にあり、山門をくぐると、広い境内に、本堂のほかに点々と、釈迦堂などの数棟のお堂がある。
すべてを見て回ると、かなりの時間が必要となり、それなりの散策コースになる。
宿場町であったために、寺の周辺、とりわけ門前には、多数の蕎麦屋や土産物屋が並んで栄えている。
また名前が示すように縁結びの寺としても知られ、デートコースにもなっている。
季節がら、枯れ葉が散らばる参道が続く。涼太の靴の底でサクサクと音がする。
「この前、この寺に来たのはいつのことだったかなぁ?」
返事はない。考えているのだろうか?
しばらくして、後ろから晴美はこたえた。
「あれは確か四年前でしたよ」
晴美にいわれ、涼太は仰ぎ見る。
頭上をおおう樹冠のすき間から空が見える。
都会のスモッグのため地上付近の空は曇っていたが、上空は晴れ渡っている。
涼太は足元に視線を落とすと、小さくため息をついた。
「そんなに前のことだったか……」
四年前というと、息子の星也がまだ二歳にもなっていなかった。
歩いても、大人の足にはついてこられず、ちょっとした移動の際にはベビーカーを利用していた。
当時も、今、歩く参道を、星也が眠るベビーカーを涼太が押して、晴美と三人で歩いた。
つい先ほど上った苔がはえる石段は長さにして七~八mほどある。
石段の前で、立ち止まったときのやり取りをおぼえている。
「星也を起こして、手を引っ張りながら石段を上ろうか?」
星也が眠るベビーカーを、石段を跳ねさせながら、上っていくわけにはいかない。
星也はおぼつかない足取りだが短い距離なら歩ける。
夫婦ふたりで手を引っ張れば上れないこともない。
「気持ちよさそうに眠っているのに、おこすのはかわいそうですよ」
おもむろに晴美がこたえた。
「では、どちらかが星也を背負って、どちらかがベビーカーを持って上ろう。……といっても、ぼくは星也を背負いなれていない。目をさまして、機嫌を悪くさせたらやっかいだ」
無言で晴美はうなずいた。
その顔はにこやかで不服そうではなかった。
晴美は慣れた手つきでベビーカーから星也を抱き上げると、眠ったままの幼児を身体の前にしがみつかせるようにして抱いた。
子どもを背負わずに、抱き上げた母親の姿を見て、涼太は感心した。
星也の大きさになれば、抱っこするのは重いだろうに――
涼太は、大学の研究職で力とは無縁の生活を送っていた。
石段は、晴美が星也を抱いて、涼太がベビーカーを持って上った。
母親に抱かれて、星也は幸せそうに眠ったままだ。
石段を上りきったところで、またベビーカーに戻した。
家族の、ひとつの懐かしい思い出だ。
参道がふた手に分かれるところまできた。いっぽうは本堂につながり、他方は、樹々でおおわれ、奥まったところにある釈迦堂へとつながる。
「なぁ、晴美。本堂にいってお参りをするか?」
晴美は涼太の後ろで、うなずいた。
「いいですねぇ」
参道を本堂のほうへと向かった。
途中で参道から横にそれ、灌木で囲まれた細い石段を下りると、本堂前の広場に出る。
晴美は心もとない足取りでついてくる。
恋願寺の本堂は浅草の寺のように大きなものではない。それでも、重厚な瓦屋根と、くすんだ木造の壁は歴史を感じさせてくれる。
それに、太い柱には人々を優しく迎え入れてくれる落ち着きがある。
本堂の真ん前の、目につくところに『浄財』と描かれた賽銭箱が置かれている。
見物客でごった返すほどには観光地化されておらず、秋の行楽シーズンであるが、参拝者はまばらである。
おみくじ売り場の前を通り抜け、本堂の前にゆくと、数人であるが、順番待ちで賽銭箱の前に並んでいる。
あい変らず晴美は一歩斜め後ろにいる。
涼太はスボンのポケットから小銭入れを取り出した。ジャラジャラと音がする。
なかを見ると、あいにく、目当ての五円玉がなかった。
十円玉にするか、五十円玉にするかで迷ったが、穴が開いている硬貨は縁起がよいと聞いたことがある。
「晴美のぶんも用意したから」
五十円玉二枚を抜き取った。
晴美は、「ありがとう」と口元をほころばせると、「わたしのぶんも一緒にお願いしようかしら?」と、自分の賽銭も投げてくれといった。
涼太が後ろを見ると、これまでと同じように、晴美は涼太の視線から逃れるように、背に隠れた。
見られるのがいやなのだろうか? それならしかたがない……。
いわれるとおり、ふたりぶんを涼太は投げた。
硬貨は賽銭箱の格子にぶつかり、音をたてて消えていった。
手を合わせながらも、祈願する内容に戸惑った。
もとより、この日、恋願寺に来たのは、新しく人生をやり直せるかどうか、自分の気持ちを確認するためだった。
それが、どうしたことか晴美が現れて、いっしょにいる。
涼太の胸のうちは、季節外れの桜の開花を前にしたときように、戸惑いと喜びで混乱していた。
手を合わせ、チラリと晴美を横目で見ると、うつむいて目頭に指先を当てていた。
涼太の視線に気がつくと、何食わぬ顔で両手を合わせた。
泣いていたのか……。
涼太は気がつかぬふりをして一礼した。
晴美に気を取られたこともあり、何も願わずに終わった。
お参りを終え、本堂の前から離れると、遅れて晴美もついてくる。
「わたしのぶんもありがとう」
礼をいう。
お参りをすますと、カップルは必ず、本堂のかたわらにあるおみくじ売り場へ寄る。
涼太が誘ってみると、晴美はこうこたえた。
「……あなた。わたしのも……、引いてくださる?」
その返事はとぎれとぎれで、戸惑いがちだった。
涼太のほうも少し考えたが、「ああ……、いいとも、ふたつな」と確認した。
最初巫女さんは、「おひとり様ですね」と、ひとり分の金額をいってきたが、それを涼太は夫婦ふたり分だといって、二本引かせてもらった。
売り場から少し歩いたところで、晴美に聞いてみた。
「今、右手と左手に一本ずつおみくじを持っている。晴美は右か左のどちらがいい?」
晴美は後ろから、少し首をのばすと、涼太の手元を覗き込んだ。
「そうね。涼太さんが左利きだから、わたし、涼太さんの右手のおみくじにするわ」
「わかった。では、これを」
手渡そうと、後ろに身体をひねると、晴美は隠れん坊のように立ち位置をずらして、涼太の背中にまわった。
「涼太さんが、わたしのも見てくださいますか?」
相も変わらず、背中から伝えてくる。
ここに来ても、自分では何もしようとしない。お参りの次には、おみくじもか……。
ふたりの間に気まずい沈黙が流れた。
涼太はひとつため息をついた。
「……。そうだな。ぼくが見るよ」
晴美に背を向けたまま、自分のおみくじから開いた。
「吉とでた」
くじの内容を読み上げる。
肩越しから晴美の視線を感じる。
「涼太さん。よかったじゃないですか。待ち人来る、となっているわ。すっぽかされることはないようね」
晴美はクスッと笑い、楽しそうにいった。
言葉の内容に、涼太は一瞬どぎまぎしたが、知らない顔をした。
「では、わたしのも」
せかされるように、涼太は晴美のおみくじを開いた。
一目見て、涼太は見せないようにと、慌てて手の中に隠した。
そんな涼太の態度に、晴美は気落ちしたようにいった。
「見せたくない内容だったのですね? わたしは気にしませんから、見せてください」
隠し通すのもおかしなことだった。
涼太は観念して、斜め後ろにいる晴美に見やすいよう、身体をひねっておみくじを見せた。
「あら……、凶……。どんなことが悪いのかしら?」
涼太からは見えにくい位置に立っていたが、晴美の表情はわかる。
それまでの穏やかな笑顔が消え、真顔を通り越して青くなっている。
「大病に注意と書いてあるわ。そんなこと……」そういったきり、口を閉じてしまった。
何とも気まずい雰囲気がふたりの間に流れた。
涼太は黙ったまま、おみくじ売り場をあとにして参道へと出た。
おみくじなんて引かなければよかった。
晴美の辛い過去を想い出し、胸が苦しくなった。
しばらく歩くと、何だかおかしなことに気がついた。恋願寺にきて、石段を上るときから背中に感じていた、晴美のほんのりとした温もりがなくなっていたのだ。
涼太が慣れ親しんだ、日溜まりのような温もりが……。
さきほどまでは、その温かを背中に感じていたのだが、それが今はない。
後ろを振り返ってみた。
……いない。これまで、涼太の斜め後ろを、影のようについてきた晴美の姿がない。
あたりを見回した。樹々に囲まれた参道が長々と続いているだけで、誰もいない。
涼太は焦った。
このまま晴美は姿を消してしまうのか?
自分ひとりが残されてしまうのか?
まるで、隠れん坊の鬼のようじゃないか!
慌てて来た道を引き返し、本堂のある広場まで戻った。
まばらに参拝客がいて、これまでの寺の風景と変わったところはない。
晴美だけが姿を消して、涼太の後ろからついてこない。
ひとりになった涼太は気落ちして、おみくじ売り場の横にある、おみくじ掛けの前に立った。
晴美は自分のものが凶と出たから、傷ついたのだ。
涼太は強く首を横に振りながら吐き捨てた。
「おみくじなんてもの、真に受けるやつがどこにいる! こんなものお遊びで、何回でも引いたらいい。おみくじと一緒で、人生も何回でもやり直せたらいい」
おみくじ掛けの横に張った繩に二人のものを結びつけると、泣きたい気持ちを抑えて、先ほどと同じように灌木で囲まれた細い石段を上った。
晴美がいなくなったことで脚がひどく重く感じた。
腕時計を見ると、まだ、待ち合わせの時間には間があった。
置いてきぼりにされて、涼太はひとりになった。
こうして枯れ葉を踏みしめていると、気分的なものだろうか、枯れ葉の嵩が増したように思える。
足裏から伝わる音は、ぽっかりと穴の開いた胸のなかで寂しく響いた。
晴美への後悔ばかりが胸にこみあげてくる。
恋願寺に足を踏み入れてからというもの、晴美のことも含めて、これからの人生への迷いで、堂々巡りを繰り返すばかりだ。
だが、嘆くばかりでは、この先の自分の人生にも、息子の星也のためにも、プラスにならない。
そのことはわかっていた。
おぼつかない足取りで歩いていると、いきなり晴美の声がした。
「涼太さん。ごめんなさい」
斜め後ろを見ると、申し訳なさそうな顔をした晴美が立っていた。
「気分が悪くなって、涼太さんについていけなくなりました。少しだけ、日当たりのよいベンチで休ませてもらっていました」
立ち去ったかと思っていたのに、晴美が再びついてきてくれた。
いったん落ち込んだ涼太の心が、ふたたび舞い上がった。
だが、その喜びもつかの間、すぐに肩を落とした。
二度目に、姿を見せてからの晴美は湿っぽく、より無口になっていたのだ。
涼太が話しかけても、返事を中途半端に
「ええ……」とか、
「いいえ」とか繰り返すばかりで、黙りこんだりもする。
いくら鈍感な涼太でもわかった。
晴美は隠れて泣いていた。
ふたりの間には気まずさばかりが膨れ上がった。
涼太は会話が得意なほうではない。
もっと会話を続けなければいけないと思うと、焦って、よりぎくしゃくする。
商社や銀行に進んだ同級生たちはどんな調子で話を盛り上げているのだろうか?
こんなとき、大学の助教なんて職業はなんの役にもたたない。
枯れ葉を踏む音だけが、ふたりの間で交わされる会話になった。
気づまりだ。でも、晴美とはこうしていたかった。
途切れ途切れにしか言葉が出てこなくとも。
「天気もよいし……、この寺の境内は……、あちらこちらに、いろんなお堂があるから、少し回るか?」
晴美を誘うのに、こんなに緊張したのは、いつ以来のことだろう。
まだ、ふたりが大学院にいて、涼太が晴美に初めてのデートに誘ったときと似ている。
こちらが断られやしないかと不安でドキドキなのに、晴美のほうはもったいぶっているかのように、なかなか返事をしない。
秒針が進むごとに、喉の渇きがひどくなり、胸が高鳴ってくる。
しばらくたったのち、晴美は少し聞き取りにくい声で、
「そうですね。紅葉もきれいですし……」
と、OKの返事をくれた。
樹木が途切れると、横向きの風が参道を吹き抜ける。
足元の枯れ葉がザワザワと音をたてて流されていく。
後ろにいる晴美は、片手で顔にかかる髪をとめて、もういっぽうの手でコートの襟もとを押さえている。
吹きさらしの箇所が終わると、再び、秋を焼く無数の葉たちが周りを彩る。
従前のように穏やかに歩くふたりに戻った。
迷ったすえに涼太は、疑問に思っていることを口にした。
晴美の声が時折、遠くから聞こえてくるみたいで、聞き取りにくい点についてだ。
「今日の晴美は少し声が変だよ。喉の調子が悪いのかい? 風邪でもひいたのか?」
後ろに目をやり、晴美を見た。
即座に、晴美は涼太の視線の隅へ身をかわすと、首を横に振った。
「いいえ。とくに風邪をひいたわけではありません。涼太さんの気のせいですよ」
「ははは……。ぼくの気のせいか。それならよかった」
おみくじの件があって、晴美に対して神経質になりすぎているようだ。
ハラリと、一枚の枯れ葉が落ちて、涼太の髪の毛のうえにのった。
「あれあれ」
手を伸ばして枯れ葉をはらった。
すると、もう一枚、今度は肩に落ちてきた。
同じようにはらった。境内の樹々にからかわれているみたいだ。
晴美がくすりと笑った。
「何がおかしい?」
涼太が問うと、晴美は笑いながらこたえた。
「思い出したんですよ」
「何を?」
「あなたとの初めてのデートのことです」
涼太はいっぱく置いてこたえた。
「ああ……、そうだった。初めてのデートはここだったね」
恋願寺が、ふたりの初デートの場所であることは百も承知していたが、晴美にいわれて、思い出したようなフリをした。
「そうよ。ふたりとも大学の院生だった。あなたが博士課程にいて、わたしは修士課程にいて、研究ばかりしていたころ。あなたに初めて誘われて、ドライブでここに来たのよ」
「そうだったなぁ……。初デートのとき、この恋願寺を歩いたことをおぼえている」
「あなたって、院生の博士課程で、安い収入のくせして、贅沢にも中古でも車を買ったのよ。そして、運転をはじめて間がなく、隣に最初に乗せるのが、わたしだったのよ」
もう九年も前のことだ。
涼太は晴美のいうことをすべておぼえていたが、改めて口にされると恥ずかしくて、忘れているふりをした。
「そうだったかなぁ? あまりおぼえていないなぁ」
晴美はおかしくてたまらないといったようすで笑いをこらえている。
さらに質問してきた。
「では、当時なぜ、恋願寺にドライブに来たのか、おぼえていますか?」
機嫌を取り戻したかのようで、口調が軽やかだ。
それもおぼえていた。
だが涼太はあえて間違えた。
「う~ん。景色がいいからかな?」
「まぁ、あなた。とぼけるの。ほんとうはおぼえているでしょう」
嘘は通じない。晴美は、むくれたふりをしながら、
「都会の運転は慣れていないからダメだといって、運転がしやすい多摩にある、このお寺を選んだのよ。ぼくが事故らないように、助手席で監視していてくれって。はっきりと、おぼえているわ」
そういったあと、晴美はクスクスと笑った。
楽しい。こうして甘えてくれるのはいつ以来だろうか。
晴美とのこんな日が再び来るなんてこと思ってもいなかった。
「アハハ、そうだったか」
涼太が笑うと、晴美も明るく笑った。
「懐かしいなぁ。あのころはふたりともずいぶん若かった」
「でも、あのころ、あなた、すごくはりきっていた」
ふたりの出会いは都内のS大学での実験室であった。
涼太は大学院博士課程で生命科学の研究をしていた。
生命に関する原理や現象を、遺伝子操作などを用いて解明し、発展させようというものだ。
晴美も当時、同じ学科の院生であり、実験やレポート作成などの作業をきっかけに、ふたりはつきあうようになった。
涼太が二十七歳、晴美が二十三歳のときで、彼女は修士課程の一年目であった。
出会いから二年後にふたりは結婚した。住まいは、涼太の職場に近い、日当たりのよい2LDKのアパートだった。
晴美は、一生を研究分野に捧げることへの迷い、自分の能力の限界から、結婚を機に大学院をやめた。
しばらくは、近所の会社で事務をしていたが、星也が産まれると、家庭に入り息子との三人の家庭をしっかり守ってきてくれた。
参道をおおう樹々の葉が、すれ違う人たちの顔の色までを、淡い黄色や紅色に染める。
首をひねって後ろを見る。
優しい顔の晴美がついてくる。
丘の斜面に沿って歩くうちに一本の杉の大木があった。何かに引き寄せられるように、涼太の足が止まった。
目の先には、樹に隠れるように小さなお堂があり、堂の手前には延命観音像と記された小さな看板が立っていた。
恋願寺は縁結びで有名だが、長生きを願う観音像もあるようだ。
そのことはあまり知られていない。
「こんなところに延命観音像があったんだ……」
後ろの晴美の顔を盗み見すると、表情がこわばっていた。
「お参りしてゆくか……?」
ここでも、幾度と繰り返される沈黙があった。
「そうですね……」
時間をおいて発せられたその言葉は消え入りそうなものだった。
視界の隅に映る彼女は、心なしか肩を落としている。
延命観音像の賽銭箱は小箱が置いてあるだけだ。
お堂の奥に隠れるように、小さな仏像が立つ。
恋願寺においては、延命に関してはさほど関心を持たれていないのだろう。
涼太は観音像の前に進んだ。少し足元がふらつくのがわかった。
この観音像にお参りしてもよいものかどうか躊躇した。
だが、涼太の身体は、堂の奥で陰ってはいるが、悲しみを受け入れるような優しさをたたえた容貌の、その仏像に引き寄せられていった。
後ろの晴美を見ることができなかった。
賽銭箱に黙って硬貨をふたつ放り込み、瞼を閉じて手を合わせた。
周囲の音はいっさい聞こえない。
だが、静謐であろうはずの刹那に、涼太の胸は、内からの叫びにさいなまれ、しめつけられた。
これまで抑えてきた感情が噴き出してきた。
しゃくり上げた。
「ここに……、お参りに来るべきだった……」
言葉を絞り出しながら、泣いた。
「晴美の乳がんを何とかして治してやれなかったのか……」
そういったあと、時間が凍りついた。
涼太は言葉にしたことを悔いた。晴美を背にしているのに、何てことをいってしまったのか!
今、この場で延命観音像に告げた
――何とかして治してやれなかったか――
という言葉は、血を吐く思いで、これまでに何百回、何千回と心のなかでくり返した言葉だった。
涙ですべてのものが滲む目で、後ろを見る。
晴美はここにきても、視野の隅にしかいてくれない。
涙で揺れる晴美が手を合わせて頭を下げていた。
ついと顔を上げると、涼太を見た。
眉を寄せて困惑した表情で、小さくため息をついた。
駄々っ子を見るときのような、困惑した目をしている。
「わたしが、もっと自分の身体に気をつけていればよかった……。テレビでは、若いタレントさんが闘病する姿を報道して、多くの人が悲しんでいたのに……。まさか、自分がなるとは……。自分は若いから他人事だと思って、乳がんの検診どころか、健康診断にもいっていませんでした。すべて、自分の不注意が手遅れの原因でした」
涼太から一歩下がったところで、しおれた顔をして立ちすくむ。
二年前に晴美は、三十歳という若さで、乳がんでこの世を去った。
この日、涼太は恋願寺の前のバス停で人と会う約束をした。
最初から車で早めに来て、待ち合わせの時間になるまで、境内を歩こうと決めていた。
恋願寺には死んだ妻の晴美とも何度か歩いたことがあり、彼女との思い出がつまっている。
あえて、この地を歩くことで、死んだ彼女への思いを断ち切ろうと考えた。
ふたりで過ごした楽しい時間も、涼太との三人の時間も、そして、彼女が病に倒れ死にいたるまでの悲しい時間も、すべて、この場で精算する。
晴美への未練は、今日のここまでだ。
心の整理がつけば負い目を感じることなく、待ち人と会える。
そう心に決めて、紅葉の参道を歩いていた。
そのうちに、背中に温かいものを感じた。
言葉ではうまく表現できないが、その温かさは、何だか慣れ親しんだ、近しい人がそばにいるような落ち着きを与えてくれた。
さらに歩くと、背後から誰かがついてくる気配がした。
まさか? そんなことはない。
そう思いながらも、ゆっくりと横目で後ろを見た。
すると、涼太の背中に隠れるようにして、この世にいないはずの晴美がいた。
くっついて、後ろから歩いてくるのだ。
驚いた。
これは目の錯覚なのだろうか? 涼太はくるりと、後ろに身体を向けてみた。
すると晴美は、真正面から見られるのはいやだ、といった感じで、巧みに涼太の斜め後ろに回り込んだ。
試しにもとのように前を見て、もう一度、振り返ってみた。
同じだ。
うまくかわされた。
何だか遊ばれているようだ。
晴美は涼太の背中側、それも視野の片隅にしか入ろうとはしなかった。
でも、晴美が今こうして涼太の背中についてきてくれたことは事実だ。
ここにいる晴美は『幻』なのだろうか?
『幽霊』なのだろうか?
それはわからない。
涼太の周りの風景は何も変わっていない。
確かに恋願寺にいて、その参道を歩いていた。
そこに死んだはずの晴美が姿を現した。
おかしなことなのだが、現実におこっていることなのだ。
晴美の出現に動揺したが、どんな形であろうと、晴美と会えたのだから、この時間を大切にしたいと考えた。
晴美のほうへはなるべく視線を移さないようにして、何食わぬ顔で歩くことにした。
いっしょに本堂でお参りをして、おみくじを引き、途中、晴美が姿を消すことがあったが、その後、延命観音像に立ち寄った。
今も晴美は涼太の背中にいる。
涙であふれた目を閉じると、手を合わせて何度も何度も頭を下げてお参りをした。
三年前のある日。平凡であるが、穏やかで満ち足りていた、ふたりの生活は終わりを告げた。
暑い夏が終わり、これからは過ごしやすくなる。
そう思った矢先のことだった。明け方の晴美のこんな言葉からだった。
「涼太さん……。わたしの右胸にしこりがあるの」
寝室で布団にすわる晴美は、張りつめた表情で胸を触っていた。
カーテンのすき間からは薄い明かりが差し込んでいた。
夫婦ふたりの布団の間では、保育園に通い出したばかりの、あどけない顔をした星也が寝ている。
涼太は星也を起こさないようにと、晴美の布団へと移動して、晴美の押さえる胸を触ってみた。
涼太も同じことを感じた。
いやなしこりがあった。
その日、晴美は星也を保育園へ送ってから、病院にいくことにした。
涼太は大学の助教となり毎晩研究室で夜遅くまで研究をする日々だった。
すべての助教は将来認められ、教授になることを夢見て、昼も夜もなく、食事の時間も抜いて働く。
涼太も同じだった。
夜遅く、アパートに戻ると晴美から病院での結果を聞いた。
「日を改めて、ご主人さんと来てください」
それが、主治医の言葉だった。
後日、涼太は休暇をとって晴美とともに病院へいった。
晴美はしきりに、
「わたしのために仕事を休ませてしまってすみません。涼太さんの研究に支障をきたしたりすることはないでしょうか?」
と、大学での仕事を気にした。同じ大学院にいたから事情がよくわかっているのだ。
普段ならさほど気にかけないだろうに、照明の暗い待合室は、ただ、ただ、湿って陰気だった。
主治医から病状を告げられたあと、ロビーチェアーで、ふたりは寄り添った。
忘れもしない主治医の放った一言ひとことを……。
医師がどれほど、親身に優しくつくろおうと、その言葉は、アイスピックで心臓をめった刺しにするようなものだった。
ふたりの生きる希望、夢、未来を殺していった。
乳がんを発症しており、リンパ節まで転移していた。
残された時間も長くないという。
ふたりはこの先に待つ現実におののき、手を握り合って震えた。
微かに伝わる相手の手の温もりだけにすがった。
延命観音像の前で、涼太は大きく頭を垂れた。
感情がたかぶり、しゃくりあげた。
「晴美の病状が……、どんどん悪くなっていくのに……、ぼくは何もできなかった!」
言葉は途切れ途切れにしかでない。心の叫びだった。
「仕事にばかりかまけていたからいけなかったのだ! 大学で助教止まりではいけないと……、それだけで頭がいっぱいだった。晴美のことも、幼い星也のことも……、ほうりっぱなしにした!」
顔を上げることができなかった。目を強く閉じた。
まぶたの裏側では、こんなときでさえ日々目にする論文の英文字が飛びはねた。
文字が熱い涙にぬれて、滲み、揺らぎ、重なった。
こんな涼太の血を吐くような叫びを聞いて、晴美はどんな言葉を返してくれるのか?
黙って、背後に立ったままだ。
怖くて後ろを振り向けない。
しばらく間をおいて、晴美の声がした。
「さきほど、おみくじを引いたあと、姿を消してしまってごめんなさい。病気のことが当たっていて、動揺してしまいました。悲しくて……」
涼太は納得する。
晴美はあらためて、涼太の名を呼ぶ。
「涼太さん」
涙声でなんとかこたえる。「な……、何だい?」
息を大きく吐き、晴美は一拍置いた。
背中から聞こえる声に耳をそばだてる。
「わたし……、もっと生きたかった」
晴美、わかっているよ。辛かっただろう。涼太は口に出さずにうなずいた。
「乳がんで余命いくばくもないと宣告されたとき、辛くて、辛くて、この世の地獄だと思いました。何でわたしなの……と」
返す言葉はない。
「自ら命を絶って、死のうとも思いました。でも、でも、わたしには、あなたと星也がいる。幼い星也を残して死ねない。わたしは、死ねない」
生前、晴美は自宅のアパートで療養していたとき、涼太に背を向けては鬼気迫る顔をしていた。
涼太はその顔に気づいたが黙っていた。
それは、どんな魔物とも闘って生きようという意思だったのだ。
晴美の話す一言ひとことが涙で濡れている。
「だけど、医学って残酷ね。医者の診断通り、わたしの命は削られていった……。これが運命だったのです」
辛い。もう、晴美の言葉を聞けない。
「わたし、生きたかった。星也の成長を見たかった! あなたと一緒に歳を重ねたかった!」
血を吐くような叫びだった。
晴美の闘病の姿が狂ったように涼太の頭のなかで暴れまわる。
胸の前で手を合わせながら、祈るように晴美の名前を呼んだ。
晴美――、晴美――、声にならない。
二年前の病院のベッドで晴美は最期の苦しみに耐えていた。
呼吸器をつけ、やせ細った顔には血の気がなく、大きく胸を上下させていた。
幼い星也が掛布団に顔を埋めながら泣いている。ママ、ママと泣き叫ぶ。
涼太が晴美の手を握る。
骨と皮だけで血管が浮き出ている。
すでに手を伸ばし、星也に愛情を伝える力もない。
皮肉なことに、呼吸だけはゼェゼェと大きな音を出す。
苦しみながら、途切れ途切れに、夫と息子に最期の言葉をくれた。
星也には、「ママがいなくても……、パパと一生懸命……、がんばるのよ」と。
ただ、ただ、晴美にしがみついて泣く星也。
そして涼太には、
「短い間だけど、涼太さんと暮らせて……、とても幸せでした。星也はまだまだ手がかかるのに……、お願いね……、ごめんなさい……」
それが別れの言葉だった。
涼太はベッドにしがみついて泣き叫んだ。
「晴美ぃ! ぼくと星也を置いていかないでくれ!」
ものいわぬ延命観音像がたたずむ。
静寂があった。
しばらくして、
「あなた……」
後ろに立つ晴美は、穏やかな物言いをした。
これまでの血を吐くような語り口は鳴りを潜めている。
「あなたはわたしたちのために、ほんとうにがんばってくれました。そして、わたしが死んだ今でも、星也といっしょにがんばってくれています」
晴美は気を取り直したようにいう。
涼太は大きく首を横に振る。
「ここに延命観音像がいたのなら何百回、何千回でも、お参りに来るべきだった」
晴美への謝罪の気持ちをこめた。
「そんなに気に病むことないんですよ」
その口調は涼太に寄りそうようにやさしい。
「ぼくはダメな夫であり、父だった!」
いきなり晴美の声が高くなり、
「そんなことありません!」
きっぱりと否定する。
「あなたは、わたしと星也のために一生懸命働いてくれた。わたしの看病もしっかりとしてくれた。何をこれ以上、望めますか? それは横着というものです。あなたは、わたしにとって、かけがえのない夫であり、星也にとっての立派な父でした」
「うぅぅぅ……」
涼太は両手で顔をおさえるとうずくまった。
肩が大きく震えた。
震えを止めようがなかった。しゃくりあげて泣いた。
晴美のかたわらで、まるで母親に見守られる幼子のように泣きじゃくった。
こんなに泣いたのは、棺に入った晴美の姿を見届けたとき以来のことだ。
どれほど泣いただろう。
涼太の涙が少しおさまると、晴美が優しく話しかけてきた。
「あなた。わたしが死んでから変わりましたね」
涼太はうずくまったまま聞く。
「どういう意味?」
「星也に対してよ」
「星也……? そうかなぁ?」
このおっとりした調子は、何だか昔の夫婦のやり取りのようだ。
「ええ、しっかり星也のことを見ていてくれる。あなたの御両親がよくアパートに来て、可愛がってくださいますが、決してまかせっきりにしない。土日には必ず、ふたりで朝ご飯と夕ご飯を一緒に食べて、お風呂にもいっしょに入ってくれる。日曜日には遊園地にもいったりしてくれる」
遊園地とは先月の日曜日に、小田原スパーランドに星也とふたりで遊びにいったことを指しているのだろう。
これまで星也と行楽地にいくときは、涼太の母もしくは父にもついてもらっていたが、星也も五歳になったから、ふたりだけでいってみようと思ったのだ。
小田原スパーランドにいる幼い子どもたちはきまって母親がついていた。
星也は、他の子どものように母親と一緒でないため、時としてうらやましそうな顔をしたが、父と二人の時間を楽しむことに努力してくれた。
まだちびっこのくせして、大人の涼太に気を遣うなんて、十年早いと思いながら、星也の優しさが嬉しかった。
「星也も少しずつ成長してきている。父と男の子ふたりでの、男通しのつき合いにも慣れてきている」
涼太が鼻声でこたえると、晴美が背中で微笑むのがわかった。
「今日は、あなたがひとりで出かけるのに、御両親のところにあずけてきてくれたのですね? お義父さまもお義母さまも星也のことをかわいがってくださるから安心です」
「うん。親父とお袋にはほんとうに世話になっている……」
星也のことは、今のところ両親に頼りっきりだった。晴美が死んでから、星也の世話に困って、アパートを、両親が住む家の近くにした。保育園の送り迎えから、今日のように休みの日に、涼太が外出をするときも、両親に頼っている。
晴美の返事がない。何を思うのか?
しばらくして、
「あなた……」
そう呼ぶ声は、これまでと違って、涼太の耳には女のたくましさを感じさせた。
今、背後にいる晴美は幻ではなく現実なのだと思えた。
すぐにも晴美の腕を引っ張って、門前にある蕎麦屋のテーブルにつきたい。
向かい合わせにすわり、面と向かって話し合いたい。
そうすれば、もう一度、晴美と一緒に暮らすことができる。
そんな涼太の気持ちをよそに晴美は続けた。
「今日みたいに星也のことをご両親に預けられるのならいいのですが、いつもそうとは限りません」
晴美のいうとおりだ。両親に頼りすぎている。
「あなたにもいい人が必要です。今日、この恋願寺を歩いていたのは、待ち合わせの相手が来るまでの時間つぶしのためでしょう。その相手とはお見合いをして、つき合おうとしている彼女でしょう?」
涼太は言葉につまった。
恥ずかしさで顔がほてるのがわかった。
「晴美……。そんなことまで……」
晴美は知っていた。
この日は、最近つき合い出した彼女とデートをするために待ち合わせをしていた。
恋願寺前の山門のバス停に彼女は降り立つが、それまでの時間、晴美のことを自分の心のなかで精算するために、境内を歩いていたのだ。
相手の女性は三か月前に叔母に紹介された。
幼い星也もいることだし、晴美が死んでから二年経つから、再婚を考えてみたらどうかと勧められた。
彼女は涼太より六歳若い。晴美と比べると二歳若い。
初婚であるが、相手の涼太には子どもがいてもいいという。
何かに打ち込んでいる、探求心のある男性が好みだそうだ。
現在は銀行に勤めているが、結婚したら家庭に入ってもいいそうだ。
これから会う彼女のことを指摘されて、黙り込んでしまった涼太を、晴美はきっとおかしく見ているのだろう。
「いいんですよ。優しそうな人じゃないですか。星也もなついてくれるといいですね」
「晴美!」
振り返ると、晴美はスルリと身体の位置を変えて、またまた涼太の斜め後ろにまわった。
「恋願寺の山門の前のバス停で、彼女と待ち合わせしているのでしょう。ふたりでお寺のなかを散歩して、それからあなたが駐車場に停めてある車でドライブするのでしょう」
「何でそこまで……」
狼狽する涼太に対して、晴美は変わらず優しく微笑む。
「今日、わたしは涼太さんに最後のお別れをするために、ここに来ました。あなたのことは何でもわかるから……。まもなく彼女との約束の時間ですよ」
気がつくと、いつのまにか、涼太は歩いていた。
目の前には瓦屋根の山門がある。
晴美と話しているうちに、延命観音像から、山門まで歩いてきていたのだ。
山門をくぐり、そこから出た先は寺の外だ。
門前には多数の店が建ち並び、そこに人が集う。
食事で蕎麦屋に出入りする人がいれば、土産物屋の軒先に集まる人もいる。
そして道路脇にはバス停があり、まもなく待ち合わせの時間となり、彼女の乗ったバスが到着する。
どうしたらよいのだ?
涼太は山門をくぐることに躊躇した。
足がすくんで、参道に張りついたように前に出なくなった。
すると、うなじのあたりに温もりを感じた。
晴美のものだ。
晴美は歳若くしてこの世を去り、幼い子どものことも気になり、この世に戻りたいのだ。
もう一度、星也と三人で暮らしたいのだ。生き返って家族でやり直したいのだ!
晴美……。自分のところに戻ってきてくれ。
そういいかけたとき、いきなり強い力で背中を押された。
はっきりとは聞こえなかったが、
「さぁ、ゆきなさい」
と、耳元でいわれたようだった。
空足を踏んだように涼太は山門をくぐった。
境内から外の世界に出ると、あたりを見回した。
――晴美がいない。
ひとりぼっちだった。
今一度、山門から境内に足を踏み入れて、見回してみた。どこにも晴美はいなかった。
呆然とたたずむ涼太のかたわらを、見知らぬ参拝者たちが山門から出てゆく。
つられるように涼太もふたたび山門をくぐり、外へ出る。
蕎麦屋や土産物屋が建ち並び、そこに人々が集まる。食事をしたり、親しい人への土産物をさがしたりで、思い思いの楽しい時間を過ごしている。
涼太はそんな人々とは無縁だった。
この世にひとりぼっち。
置いていかれた。
晴美はもういない……、あらためて思い知らされた。
立ち止まったままその場にいると、どこからかともなく晴美の声が聞こえた。
――涼太さん。
見回したがその姿は見えない。
今度は声だけだ。
それも、とてつもなく遠くからのように聞こえた。
霊界からなのだろうか?
――何だい? 晴美。
声に出さずに問いかけた。
――いつまでもわたしのことなど思っていないで、新しい人と前を見てください。
たとえ遠くからだろうと、そのひと言、ひと言が涼太の心に響いてきた。
――幼い星也には母親が必要です。これから会う彼女と星也と三人で仲良く生きてください。生きゆく人たちは、過去にばかりとらわれないで、今を、そして明日を、幸せになろうとしなければなりません。それがわたしの思いです。
――そうだな。晴美のいうとおりだ。
うなずいた。
――涼太さん……、しっかり……、しっかり生きてください……。
その声は、風に揺らぐ紅葉の擦れる音に紛れるように、次第に聞こえなくなっていった。
涼太の目には何も入ってこなくなった。
目を閉じているわけではない。
かといって、焦点が合わないまま、どこか一点を見ているわけでもない。
「そうか……、晴美はいないのか……」
涼太は置いていかれたと知った。
どれほどの時間がたったのかしれない。
長いようで短かったのかも、それもわからない。
放心したまだった。
肩にそっと温かいものが触れた。
やわらかな手のひらが、遠慮がちに涼太の肩に触れた。
われに返り、目をしばたたかせた。
するとそこには、オリーブ色のコートを身にまとった、待ち合わせの相手である、銀行員の彼女が立っていた。
ショートカットの前髪が風で揺らぐ。
ハンドバッグを両手で持ち、恥ずかしそうに少し首をすくめる。
声をかけても気がつかない涼太に
「どうかされたのですか?」
と、微笑みかけてくれた。
(完)
さようなら。
これからのことはわからないよ。
でも、旅立ったきみのことを悲しませないような人生は送りたいよ。
きっと、きみはいつも僕のことを見ているんだろうなぁ。