第一話「彼女の場合(前編)」
「ここで作者が登場人物に、あえて間違ったセリフを言わせているのがポイントだな。別に、作者自身が間違って覚えているわけではなく、そういうキャラクター描写なわけだ」
国語教師のダミ声に混じって、トントンと、チョークで黒板を叩く音が聞こえてくる。
「『相手のためにならない』という使い方、これは若者によく見られる誤用であり、本来は『他人だけじゃなく、回り回って、自分にも良いことがあるから』というニュアンスなわけで……」
教壇に立つ中年男性には、板書が多すぎるという悪癖があった。いちいち全て、教科書から黒板へ書き写す必要などないのに。
そのせいであろうか、彼は黒板に顔を向けてばかりで、ほとんど生徒の方を見ていない。真面目に授業を聞いていない生徒がいても、彼は気づかないらしく――あるいは見て見ぬ振りを決め込んでいるらしく――、注意することは全くなかった。
だから、この時間は、勝手に他の科目の勉強をしたり、居眠りをしたりという生徒が多く……。
窓際に座る佐知子は、授業を聞き流しながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
理系に進むつもりの佐知子にとって、国語は重要科目ではない。そもそも受験科目に含まれていない大学もあるし、仮に必要だとしても、配点比重が小さかったはず。
それでも少しは、授業が耳に入ってきてしまう。特に「『わけではなく』『なわけだ』『なわけで』と同じような言い回しを続けるのは、国語教師にあるまじき表現力ではないか」と、鬱陶しく感じる程度には。
気分転換の意味で、視線を空へと向ける佐知子。
数日前までの雨降りが嘘のように、澄み切った秋晴れの空だった。どこまでも続く一面の青には清涼感があり、教室の窓ガラスと自分の眼鏡を通して見ていても、自然の美しさが伝わってくる。
目にするだけで、心にわだかまるモヤモヤが――思春期特有の不穏な想いが――、軽くなっていくようだった。
自分でも気づかぬ程度に笑顔になった佐知子は、ふと、視線を下に落とす。今の時間、体育の授業をしているクラスはないので、校庭はガランとしていたのだが……。
土のグラウンドの端に植えられた、何本かの大木。その近くを、一匹の茶色が歩いていた。
「……犬?」
頭に浮かんだ考えを確認するかのように、小声で呟く佐知子。
ブルドックやプードルなど、犬といっても色々な種類がある。佐知子は、それほど犬には詳しくないのだが……。
それらカタカナで表記されるような種類の犬ではない。その程度は一目でわかった。少し狐っぽい顔立ちが特徴的。日本の犬の、代表的な品種。確か、芝犬という名前だったはず。
第一印象は『茶色』だったが、焦げ茶色のような濃い『茶色』ではなくライトブラウン。それもブラウン一色ではなく、顔の下半分とか、胸や腹など体の内側――佐知子の場所からは見えにくい部分――は、白くなっているようだ。
遠目でわかるのは、それくらいだった。周囲の物体と比較すると、それなりの大きさがあるようなので、いわゆる豆柴のような小型犬でもなければ、これから成長する子犬でもない。立派な成犬なのだろう。
そうやって観察しているうちに……。
「えっ?」
授業中だというのに――それでも一応は周りに聞こえない程度の小声ではあったが――、驚きの声が出てしまった。
問題の芝犬が顔を上げて、まるで佐知子を見返すかのように、校舎の方に視線を向けたのだ。
佐知子は、犬と目が合ったような気になるが、
「まさか、ね。こっちは教室の中、あっちは外の校庭。だったら、私の視線に気づくわけないし……」
と、小さく首を振った。頭に浮かんだ考えを、かき消すかのように。