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花を贈るその女性  作者: しも
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1.夏、海の見えるあの街で

何か特別で美しいオーラを放ち、全てを包み込むような優しい存在だった彼女の瞳は、どこか空っぽのようだった。それはまるで、まだ誰も足跡を付けていない真っ白な新雪のような。    



1.夏、海の見えるあの街で


8月7日 水曜日


風に踊らされて声を上げる2枚に重なったカーテン。その後ろから聞こえてくる窓の向こう側の蝉の声。僕はそっと目を開いた。細長くなった太陽の光が天井を照らしている。手探りで時計を探し、まだ半開きの目を凝らして時刻を確認する。11時4分。時計を持ち上げた右手を下して僕は頭の中でこうつぶやいた。「夏だ」


僕にとって20回目の夏は去年とそう変わりはなかった。ただ、いつかの夏と比べるならば色を失ったとでも表そうか。そんな感じのことを頭のどこかで思いながら立ち上がり、昨日冷蔵庫にしまい忘れた麦茶を飲んだ。リュックサックに参考書と筆箱、財布を収納し、ズボンだけ履き替えて鏡の前に立つ。寝ぐせが付いていない事を確認し、扇風機のコンセントを抜いて外へ出た。蝉の叫び声が耳を支配する。僕はいつもの喫茶店へと足を運んだ。


喫茶店の扉を開けて少し安っぽい鈴の音を確認した僕は、窓側とは反対に位置する壁際の角の椅子に腰かけた。窓側を避けるというのは、いつも長時間居座る僕の、喫茶店のオーナーとお客さんに対する配慮だ。まあ、特別な景色を楽しめるわけでもなく、客もまばらな田舎の喫茶店ではあるが。 どうせ分かっている注文内容を聞きに来たオーナーに、カプチーノとドーナツという言葉を託した僕は、筆箱と参考書を机の上に置いた。カランカラン。そんな時、僕はまた安っぽい鈴の音を聞いた。

 

扉を開けたその女性は、ただの白という空間に何か美しい色を垂らすような、しいて言えば薄藍色のような、そんなオーラを放っていた。僕より二つ前の壁際の席を選択した彼女は、オーナーに注文内容を伝え、カバンから筆箱と紙を取り出した。僕はそこで理性を取り戻し、視線を参考書に戻した。しかし、彼女という存在が頭の中から離れない。あの日以来、人間と関わることに興味を示さないようにした僕にとって、この感情は懐かしい感覚だった。なぜなのか。それはおそらく単にその女性が美しいというだけでないことは理解しているはずだった。今思うと、僕はその女性と何か近いものを感じ取っていたのかもしれない。

 

17時ごろだろうか。彼女は荷物をまとめ、オーナーに微笑みながらお辞儀をして店を出ていった。僕は、何時間もの緊張を解いたような感覚に陥った。それから1時間くらい後、僕は空になったカップと皿を重ね、荷物をまとめた。オーナーに「ご馳走様です」と伝えた僕は、安っぽい鈴の音を鳴らして店を後にした。

 

次の日、その女性は現れなかった。

     


8月14日 水曜日

 

僕は目を開いた。カーテンの隙間から通り抜けて壁に映し出される細長い台形の光。11時7分を指す時計。長時間稼働させていた扇風機は限界の合図を点滅させて止まっている。僕は支度を済ませ、扇風機のコンセントを抜いて外へ出た。相変わらず蝉は鳴き止むことを知らず、その短い命の中で誰かに気付いてほしいかの様にひたすら叫んでいる。僕はそんな蝉の声を無視しつつ喫茶店へと向かった。

 

店の扉を開けた。普段であれば、ここで安っぽい鈴の音を確認する。だが、この日はその音を確認する事を忘れていた。僕の記憶から消えつつあったその女性は、壁際の席でペンを滑らせていた。


自分のできる限りの速度で視線を壁際の角の席に追いやった僕は、その女性の前を通り、いつもの席に腰かけた。一瞬見えた彼女の手元には、書き途中の手紙のようなものがあった。彼女の字はとても洗礼された美しいものの様に思えた。そして17時を回った頃、彼女は先週と同じようにオーナーに微笑みながらお辞儀をして店を後にした。

 

次の週、その次の週も、彼女は水曜日になると喫茶店へ現れて僕の2つ前の席に座り、手紙のようなものをどこか遠くを見ているかのような表情で書き、17時あたりで店から出ていった。



9月2日 月曜日


鳴り響くアラーム。手探りで探した時計を目蓋の1ミリの隙間から覗いた。7時14分。いつもより重い身体を起こした僕は、顔を洗い、髪を直した。次にクローゼットの扉に手をかけ、少しカビの臭いをまとったシャツとセンタープレスがまだ消えていないズボンに着替えた。そして財布と一枚の破られた写真をポケットに収納し、扇風機のコンセントを抜いて外へ出た。蝉の叫び声とともに、雀が音色を奏でている。今日は祖母の5回目の命日だ。

 

僕は花屋を探した。花屋なんて滅多に行くことはないから、きちんと場所を把握していない。とりあえず商店街の方へと足を運ぶことにした。商店街は海辺のほうにある。歩いていると、少しずつ潮の匂いが風に運ばれ僕の鼻に到達する。その匂いの強弱で商店街までの距離を推測することが昔からの癖だ。カーブを抜け、そろそろ商店街とどこまでも続く水平線が見えてくるというところで、僕は見慣れないバンが止まっていることに気付いた。


バンの前には、直径20センチぐらいの白い筒に入れられた様々な色の花束が並べられていた。花の移動販売車を人生で初めて見た僕は、まるでそこだけ時空が歪んでいるかのような感覚に陥った。ともあれ真夏の熱気に今にも潰されそうだった僕は、商店街まで行かなくてよくなった事を少し幸運に思った。

バンの側方に回ると、看板があった。


『美しいお花と言葉、届けます』


とりあえず花屋で間違いないと察した僕は商品の吟味を始めようとした。しかし、ここで更なる時空の歪みを体感することとなった。

 

バンの中には、360度何色もの色に囲まれながらもそれを全て受け止めるような真っ白なオーラを持っている女性がいた。その女性は、どこか遠くを見ているかのような表情で何かを書いていた。そう、喫茶店で出会ったあの女性だ。その女性はこちらの存在に気づいたようで、ゆっくりと頭を上げた。そして彼女は、微笑みながら初めて僕に声を聞かせた。「いらっしゃいませ」。僕は一瞬時が止まったように感じた。


 そこからどのくらい間隔が空いたかはわからないが、止まった時を力で無理やり再稼働させるかのように僕は会釈をした。「どのようなお花をお探しですか」繊細なガラス細工にどこか温かみを含んだような声で彼女は僕に問いかけた。僕は祖母と父と自分が写った1枚の破られた写真を見せ「ここに映っている花を探しています」と返答した。その写真は僕が小学5年生の時に、父と祖母、そして()()()の母と行ったペチュニアの花畑で撮った1枚だった。


 彼女は特に表情を変えることもなく、「少々お待ちくださいね」と言ってバンの中から出てきた。迷いなくペニチュアの花を手に取った彼女は「こちらで良いですか」と僕に問いかけた。僕は「はい」とひと言だけ言うと、彼女は「包みますので少しお待ちください」と言ってバンの中に入っていった。バンに入った彼女は新しい紙を取り出し、ペンを動かし始めた。それは以前喫茶店で見た彼女と同じ姿だった。僕は少し躊躇したが、思い切って聞いた。「何を書いているのですか」。彼女は答えた。「私はお花と一緒に花言葉を届けているのです」そう言って彼女は書き終わった紙を僕に見せた。そこにはこうつづられていた。

 

ペチュニア

  花言葉『あなたと一緒なら心が和らぐ』


  大切な人と過ごした時間は

あなたの心に寄り添い続けます。


この花が、あなたとあなたの大切を繋ぎますように。


 その文章は、僕の心の空白にそっと入ってくるかのようだった。彼女は僕が読み終わったことを確認し、封筒に入れて花に添えた。僕は代金を払い、店を出ようとした。しかしその文章と彼女という存在は、僕の身体の部品を取り外していた。「信じるって何でしょうね。」僕は無意識にその言葉を発してしまっていた。すぐさま正気を取り戻した僕は、どちらから先にしたか思い出せないくらいの謝罪とお礼を済ませ、逃げるように店を後にしようとした。その時、彼女は今までとは少し違う表情と声色でこう言った。「聞かせていただけませんか」「私に教えてくださいませんか」。僕は逃げようとした足を止めた。「僕、人を信じることをやめたんです」

 

幼い頃の僕は人と話すこと、特に家族と話すことが何よりも好きだった。人並に純粋な恋もした。あの日まで。

何よりも大切だったあの人は、家に匂いだけを残してどこかへと消えた。父はアルバムから黙々と写真を抜き取り、一部分だけ破り捨てていた。僕は何も阻止することはできなかった。そして進みゆく時間すら阻止することができなかった僕は、心のどこかからひとつの機能を切り離した。


何も言わず、ただ僕の言葉に耳を傾けた彼女の表情は元に戻っていた。そして彼女はただひと言、こう言った。       


「明日、一緒に花を採りに行きませんか」


9月3日 火曜日


朝の6時。あと30分は鳴らないアラームを切った僕は、支度を始めた。いつもとは違う角度から入射してくる太陽の光。蝉よりも鳥の声のほうが大きく聞こえてくる。クローゼットから動きやすそうな服を適当に選択し、もろもろの準備を済ませた僕は、食パンを食べながら昨日のことを思い出して少しの恥ずかしさと後悔を覚えた。しばらくすると、外から少々燃費の悪そうなエンジン音が聞こえてきた。

 

バンで迎えに来た彼女は、相変わらず独特なオーラを放っていた。助手席に乗ると、車全体に広がる花の匂いに混じって彼女の控えめな香水の香りが漂ってきた。バンは燃費の悪そうなエンジン音をより大きくして出発した。

慣れない早起きをした僕は彼女から貰ったサンドイッチを食べた後、少し眠った。次に目を開けると、バンは止まっていた。目の前に広がる景色は、記憶から消そうとした懐かしい景色だった。

 

一面ペチュニアで包まれたその空間は、普通の人から見ればただの美しい景色かもしれない。しかし、僕の目から見たその景色は、どこか痛々しかった。彼女は僕に言葉を発する猶予を与えずに支度を始めた。僕に麦わら帽子、はさみ、バスケットを渡した彼女は、「行きましょうか」と微笑みながら語りかけた。一面のペニチュア畑をバックにしてこちらを振り向いた彼女の存在は、全てを包み込むようで、誰かにとても似ているように思えた。


「花を切る時は、導管を傷つけないように切れ味の良いはさみで、斜めにスパッと一気に切るのがコツなんです」そう言いながら彼女は僕に見本を見せた。彼女の合図で、僕は見様見真似で花を切った。おそらく上手くいったが、それははさみが入念に手入れされているからだろうと思った。切ったものは、挿し芽として使って花を増やしていくと教えてもらった。

 

黙々と作業を続け、バスケットがいっぱいになったところで僕は立ち上がって彼女を見た。ペチュニアに囲まれた彼女の姿はとても覚えのある光景で、僕の心を苦しませた。彼女はあの人の姿、あの人の温かさととても似ていた。考えないようにしようとすればするほど、記憶が蘇る。「やめてくれ!」僕は叫んでいた。

 

僕は地面に膝をつき、何も見えないように目を両手で隠した。あの日、あの人が僕を裏切り、僕の中から全てを奪い取ったこと。そして何もすることができなかった自分の心を思い出した僕は、手のひらに涙を擦り付けていた。その時、少しひんやりとしているのになぜか温かさを感じる腕が僕を包み込んだ。自分以外の人の鼓動を聞いたのはいつぶりだろうか。忘れてしまっていた人の温もりを肌で感じた僕は、涙がこぼれ落ちていた。

そして彼女は僕の耳元でただひと言、こう言った。


「頑張ったんだね」


今まで、人に励まされるということは何度もあった。でも、僕を認めてくれた人は一人もいなかった。彼女はそんな僕に、この言葉をかけてくれた。僕は、我慢していたものが全て流れ落ちた。ダムが決壊するかのように。僕は声をあげて泣いた。


9月4日 水曜日


カーテンの隙間を潜り抜けた太陽の光が台形の形をして天井に映っている。そこはいつもの天井だった。時計を確認すると、針は11時ちょうどを指していた。僕はズボンだけ履き替え、鏡で寝ぐせが許容範囲内であることを確認した。カバンに筆箱と参考書、財布を収納し、扇風機のコンセントを抜いて玄関の扉を開けた。蝉はいつも通り叫んでいる。いつもの喫茶店へと向かった。

安っぽい鈴の音を確認した僕は、壁際の隅の椅子に腰かけた。しばらくするとオーナーが手に何かを持ってこちらに向かってきた。「先ほど、若い女性の方があなたに渡してほしいとこちらを置いて行かれました」。オーナーの手には、紫色の花と封筒があった。封筒を開けると、見覚えのある文字が書かれた一枚の紙が入っていた。


シオン

 花言葉『遠方にある人を想う』

 

 私を信じてくれてありがとう。

  この花が、あなたとあなたの大切を繋ぎますように。


 僕は喫茶店から飛び出した。走り方を少し忘れていた僕の体は、予想よりも早く限界の合図を出してきた。僕はその合図を無視し、海の方へとにかく走った。やっとたどり着いたカーブを抜けると、そこにあった時空の歪みのようなものはもうなかった。あの女性はもうそこにはいなかった。



 何か特別で美しいオーラを放ち、全てを包み込むような優しい存在だったその女性の瞳は、どこか空っぽのようだった。なぜかはわからないが、僕はそう感じた。

この作品に興味を持っていただきありがとうございます。

今回、初めて小説を書かせていただきました。


今回のお話は、8割フィクション、2割実話のような、そんなお話です。

自分が心のどこかで感じている悩みを、この作品で文字にしてみました。ですが、どう完結したらいいのかまだ見つかっておらず、試行錯誤の連続でした。なので、心に正直になって悩んでいたあの頃にしてほしかった、こんな人に出会いたかったというのをそのまま書かせていただきました。


違和感を覚えるところなどたくさんあるとは思いますが、温かい目で見ていただければ幸いです。


移動販売は次の地へ向かいます。新たな悩みを抱える人、そして少しずつ見えてくる女性の内側をどうぞお楽しみください。


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