フィクションを楽しむ
私は物語が好きだ。架空の物語が好きだ。
別に、荒唐無稽なのが良いという意味ではない。現実に起こっていない、物語が好きなのである。現実に起きていたら眉をひそめるようなことも物語でなら楽しめる。現実でないから、無責任に登場人物に同情したりできる。酷い目に合っていてももっとやれって言える。だってフィクションで、現実の話じゃないから。
でも、世の中には架空の物語を現実の物語と同じに扱おうとする人もいるらしい。
何それ。
XXXXという描写は問題があるとか。■■■というテーマを扱うのは不謹慎だとか。登場人物が○○○という属性を持っているのは現実にそうである人たちへの配慮が足りないとか。
なんだそれ。架空の話だぞ。現実じゃないんだぞ。お前たちは現実と虚構の区別がついていないのか。
例えていうなら、動物園でぐでーっとしているライオンを愛でているのに、サバンナの野生のライオンはそんなんじゃない!!って言ってくるようなものだ。私は動物園の堕落したライオンが好きなんだよ。野生のとか知らん。
でも、その区別がつかない人たちに配慮してあげるのが世間的には正しいらしい。そういう人たちに虚構は虚構だって理解させる方がいいんじゃないかなぁ。無理?そっかぁ。
別に私だって倫理的に問題のある表現があること自体は否定しない。それがフィクションでなければ楽しめないとも思う。フィクションの、作り事だから無責任に楽しめるのだ。でもそれは倫理的に問題のあることに限った話だろうか?
だって、人が争ったり、誰かを憎んだり恨んだり、嫉妬したり、傷つけあったり、誰かを殺そうと思ったり、恋焦がれたり、主張を勘違いされたり、他者の悪事の責任を押し付けられたり、理不尽に虐げられたり、自分を決めつけられたり、病気や怪我で苦しんだり、逆恨みされたり、そういうことが現実にあったら恐ろしいじゃないか。物語で描かれるようなことが現実にも起こったら、怖いじゃないか。
勿論、物語で語られることが全部現実に起こりえないことだけでできているとは思っていない。どうかすると、現実に起こりうることも沢山描かれて、それを魅力に思う人も沢山いることは知っている。でも、私が好きなのは動物園のライオンなのだ。サバンナのライオンはお呼びじゃない。
戦争も喧嘩も恋愛も浮気も恋の鞘当てもいじめも××も○○○も■■■も競争も闘病も殺人も事件もすれ違いも勘違いも何もかも、現実にあったら怖い。楽しめない。檻の中のライオンだから愛でられる。何も隔てるものなく目の前にいたら愛でられない。だって、いつ襲われるかわからないから。
現実には物語に語られるような特別なことは何もない平穏無事で、それがいい。それでいい。何も起こらなくていい。私は、物語のようなことが現実に起こって欲しいとは欠片も思わない。恋も争いも何も起こらなくていい。ただ淡々と生きて、虚構を愛でていられればそれでいい。私は何も特別でないモブの一人でいい。
痛いのも苦しいのも悲しいのも全部架空の物語でいい。現実に倫理規定の表現制限なんてないから、全ては実行者の良識次第だ。そういう良識を備えていない人間が現実に存在しているというなら、それが怖い。虚構を現実にしてしまうものがいることが怖い。
現実は物語のようにいかない。その通りだと思うし、そうでなければ困る。現実がドラマチックである必要はない。歓びの前後に苦難がくる必要はない。ただ穏やかに続いていけばいい。それでいい。それがいい。何も起こらなくていい。物語にならないささやかな日々でいい。
野生のライオンがどんな風に生きるのか、知らないわけではないけれど、私は動物園のライオンの方が好きだ。堕落して、穏やかで、大きな猫みたいになったライオン。檻の中で平和に惰眠を貪っていられるライオン。いいじゃないか、野生の精悍さがなくても。本猫たちはそれなりに満足して生きているよ、多分。
私がもし野生のライオンを見る機会があっても、そんなのはテレビの向こうでいい。あるいは、サファリバスの窓越しでいい。直接対面するなんてまっぴらごめんだ。危険なものにわざわざ自分から近づく趣味はない。
私は物語が現実に起こっていない、起こらないことだと思っているから楽しめるのだ。現実の問題を持ちだしてこないでほしい。私が楽しんでいるのは虚構だ。
これも虚構の独白だよ、多分ね。