1.キレる老人 伯夷伝03
さて、二人は周の文王が老人を優遇してくれる、という噂話を聞いてとにかく旅に出る。
詳しく書かれていないので、どのような話を耳にしたかはわからない。が、予想はできる。多分、彼らが聞いたのは、太公望の話だ。
「周本紀」には、文王が老人を敬い、若い者を慈しみ、賢者に礼をつくし、昼になっても食事をする暇もないほど人をもてなしているという話がある。そのため、人材が殷から周に流れていったようだ。
老という字から、ボケ老人を思い浮かべてはいけない。老人は、年をとっているぶん知恵がある。要するに、経験豊富な人を中途採用しているということだ。
つまり、ここに周の文王の人事採用方針がわかる。文王は、経験豊富な使える人材を求めていたわけだ。二人は、文王にとりたてられることを期待していたのじゃないだろうか。
なぜそう思うかというと、中途採用で有名な老人がいるからだ。しかも、その人物はこの伯夷伝にも登場している。
中途採用の星、その人の名は、太公望。
太公望、といえば釣りの人。釣り、といえば太公望。彼は、伝説的な逸話の持ち主だ。その話はこう。
「斉太公世家」によれば、本当の名は呂尚という。彼が文王に仕えることになったきっかけというのがとても興味深い。それはなんと、占いだった。
彼は貧しいまま老い、魚釣りをしていた。別に魚釣りが趣味だったのではなく、食べていくための釣りだったのだろう。
文王は狩りに出かけ、占いによって運命の出会いをする。古代、オカルトやら占いは重要だった。文王は、狩猟前の占いで、狩りの獲物が『覇王を補佐する者』だという結果を得ていた。
え、狩りなのに獲物が人?な占い結果だ。普通、狩りの獲物は鳥や獣だろう。この時いったい何が、文王の胸中に渦巻いていたことか。
どこでどうなったのかはわからない。が、結果として彼等は出会う。文王は呂尚に出会い、語らううちに確信したのだろう。
「自分の祖父である太公が、言っていた。きっと周に聖人が現れ、周はその人によって栄えるだろう、と。あなたこそ、太公が長いこと待ち望んでいた人だ。」
すんごい殺し文句だ。釣りしてる貧乏な爺さんを口説き落とすのに、一国の王様が言うのだよ。ここまで言われたら、太公望だってヤルしかないと思っただろう。しかも、二人の出会いは占いで花丸のお墨付きだ。
太公が望んだ人、だから太公望。
すごくわかりやすいネーミングだ。スカウトのためのリップサービスも含まれていただろうが、このあたり、文王の人タラシというか、うまく相手を自分の側に引き込む才能を感じる。いったいそこで、二人は何を話したのだろうねぇ。
とにかく文王は、そのまま呂尚をお持ち帰りだ。占いのこともあっただろうが、そこで即断即決できる会話があったのだろう。早速、自分の師と仰いだのである。
こんな話が伝わっているので、彼は太公望と呼ばれた。釣り人のことを太公望というのは、彼が釣りをしていたからだ。
もっとも、「斉太公世家」には、これとは別の話も併記されている。それによると、太公望は学識があり、諸侯の間で就活をしたが相手にしてもらえなかったので周に向かった、という話や、任官せずに海浜に住んでいたが文王を慕って周に行った、という話なども並列して書かれている。
司馬遷君の時代において、すでに諸説あったらしい。もはや、どれが本当のエピソードなのか全然わからない。どの話もありそうで困る。
だが、一番面白いのはやはり、オカルトじみてる占いの話だ。名前の由来として、尤もらしく語られている。
まあどのエピソードをとってみても、太公望は順当にまっすぐな道を進んだ人ではないことはよくわかる。不遇時代が長く続き、就活にも失敗し、いろいろな挫折を経験している。官吏になれなかったので、貧乏だ。釣りでもしないと食べていけなかったのか、とも思われる。
とにかく、いろいろ苦労したんだろうな、という匂いがそこはかとなくする。
でもね、考えても見てごらん。挫折したり失敗したりした人というのは、それを乗り越える度、一回り成長すると思わないかい?まっすぐな道しか知らない人は、ある意味、他に選択肢のあることを気付かず進んでしまう人でもあるのだよ。
ダイヤモンドの原石も、誰かが見つけて掘り出し、傷をつけて研磨しなくては、ただの地中に埋もれた石ころにすぎない。呂尚という人は、原石だったのだ。自分であちこちぶつかって傷だらけになって、自分を磨いていた。文王はそれを見つけ、さらに研磨し、ふさわしい箱に入れたわけだ。
このような中途採用例があれば、自分にそれなりの自信のある人間なら、トライしてみたくなったことだろう。太公望は、どこかの国に仕官して特別な実績をあげた人でもないのに、文王に取り立てられた。だからこそ、文王はお昼ご飯もまともにとれないぐらい、自分を売り込みに来る客をもてなすはめになったのだ。
伯夷叔斉は、跡継ぎを譲り合ったという、一般的には美談を看板代わりにできる中途採用候補者だ。文王を慕って周に向かうのだ。厚遇を期待していてもおかしくはない。
ところがどっこい。事は二人の思った通りにはならない。二人があてにしていた人物、文王が故人となっていたからだ。
しかも、文王の息子武王は殷征伐への行軍まっ最中。二人はあろうことか行列に突然乱入し、武王の馬を引きとめて諫言する。このあたり、司馬遷君は実にドラマチックな書き方をしている。まるで自分の目でみてきたかのようだ。
二人は、これから戦場に臨もうとしている人達に向かって、空気を読まずにクレームを入れる。それも、思い切りもっともな正論を吐くのだ。
忠と孝にもとる、と言って。
おい、ちょっと待て、お前ら。どの口がそれを言う?!
思いだしてくれ。亡くなった親父さんのご指名蹴って、家出したのはどこの誰でしたっけ?普通それを孝にもとるとは言わんのかね、チミ達。
言いたいことはわかる。その正論が、そのまま通用すると思っていることがすごい。ここが、お坊ちゃん育ちらしい、怖いもの知らずなところだ。
だいたい、そういうことが言いたいのだったら、なぜ殷の紂王のところに諫言に行かないのか私は不思議でたまらない。彼等は実にご都合主義だ。表面的な忠だの孝だのには脳直で反応するくせ、その裏にある事情に関しては全然見ようとしない。
武王はここで、父文王の位牌を持って戦場に赴こうとしている。なぜ、そんなものをわざわざ持ち出しているのか?もちろん、意味もなくそんなことをするわけがない。
現代でもそれと似たような姿は、見ることができる。無念の死をとげた人の遺影を裁判所に持っていくような感じをイメージしてくれればわかりやすい。
周は今まで散々、殷に因縁をつけられてきた。そのせいで、文王は幽閉される憂き目をみている。それだけでなく、紂王に息子を殺され食べさせられた、というような話も残っている。(「史記集解」による)それはもう、かなり酷い目にあっているといっていい。
人材が殷から周に流れていくのも、無理はない。殷の紂王は、頭のいいタイプだったようだが、大変残忍なことを平気でする男だった。
「史記殷本紀」に、紂王は三公という自分を補佐する主要大臣三人のうち、二人を殺して塩漬けや干し肉にし、もう一人(これが文王)を幽閉しているという記述がある。殺された二人は、別に何か悪いことをしたわけではない。二人は王に諫言しただけだ。文王にいたっては、二人の末路を人づてに聞いて、溜息をこぼしただけで幽閉されている。実に陰惨だ。
無茶ぶりがすぎる。大臣でさえ、この有様だ。それ以下のものなど、王にとっては虫けらのようなものだったろう。
その残忍さは、周囲に見せつけるように発揮されていたから、自分の邪魔をさせないための牽制でやっていたのかもしれない。が、多くのおとなしいモブ達には、他人事とは思えなかっただろう。彼らを恐怖のドン底に落とし込むには充分だ。モブにとっては、いつ自分がそんな目にあわされるかわからないのだ。おちおち働いていられないじゃないか。
そんな紂王に諫言する気など、二人にはなかっただろう。だが、仮にも忠という言葉を口にするのなら、先に殷に行くべきだったのでは、と思うのだ。忠孝を口だけで掲げる前に、自分達が何をしたのか考えるべきだ。
確かに、下手したら殺されかねない場面だ。紂王なら、ためらいなく殺して、なかったことにしただろう。だが、相手は武王だ。ここで正論を吐いて武王がそれを受け入れたら、どうなる?彼らの扱いは、かなり劇的に変わったことだろう。
私は思うのだ。この二人に、そういう一か八かの打算がなかったと言い切れるか、と。文王はもういないので、武王に自分達の自己紹介もかねた売り込みをかけたとは思われないか?