第十七話 名前。
帰りの電車は空いていた。
並んで座る私たちは、ずっと無言だった。
残り二駅になったところで、私は気になっていたことを口にする。
「あのね……さっきのことなんだけど……」
「気にすることはないさ。昔のことを話したくないって気持ちはわかるし、無理に聞きだそうとも思ってない。話せるようになったら聞かせてくれよ。一生教えられないっていうのなら、それでもいい」
「それもあるけど……違うの。松原くん……、さっき私を……紅葉って、呼んだ……よね?」
「へっ!? あっ……、あぁっ!!」
松原くんの顔が一瞬にして朱に染まった。たぶん私も同じような顔になっていると思う。
この反応を見る限り、松原くんは無意識に、私の名前を呼んでいたのだろう。
「ごめん、その……気分悪くさせて。あいつに釣られて、つい」
「きっ、気分は悪くなってない――から大丈夫。そういうつもりで言ったんじゃなくて、ただ気になったっていうか……」
「な、ならよかった」
電車が駅に停まる。再び訪れる沈黙。
どうしても松原くんに言いたいことがあるのに、うまくきっかけをつかめない。
電車が動きだす。
彼の息遣いだけが聴こえる。
今まで、松原くんが私を引っ張ってくれていた。私を変えようと頑張ってくれた。それなのに、私は進むのが怖くて、変わることを恐れて、彼の善意にしがみつくばかりだった。
私から変わろうとしなければ、何も変わらない。
『まもなくぅー蒼浦ぁー。まもなくぅー蒼浦ぁー』
チャンスは、今しかない。
「「あのっ!」」
彼が何を言いたいのか、何となくわかる。
でも、ここだけは譲れない。ためらっていてはダメだ。
緊張で震える喉から、私は声を絞りだした。
「名前で呼んでも、いいよ」
澄んだ茶色の瞳が私を見つめる。
「本当に……いいのか?」
「二人きりのときだけなら」
これが今の私にだせる、最大限の勇気だ。
あのときの記憶も彼女の呪いも消えたわけではないし、まだ目の前は真っ暗で、道すら見えない。変わりたいけれど、なりたい私が見つからないから、どう変わればいいのかさえわからない。
だから私は、今できることをしようと思う。
私が今できること――それは、彼の気持ちに応えること。
真っ暗で息苦しい世界から連れだしてくれた松原くんに、本当の私を見てくれる松原くんに、次は私が応える番だ。
電車が停まると同時に、私は素早く立ち上がる。
松原くんに左手を差しだし、
「行こっ、亮介くん」
「おっ、おう。そうだな……紅葉」
彼の熱が伝わる。胸を焦がすほどの熱さえも、温かい。私に安らぎを感じさせてくれる。
おんなじことを考えていたのにな、と、彼は小さく呟いた。聞こえたけれど、私は聴いていないふりをする。心の中では喜びながら。
胸がちくちく痛みだす。
この痛みの名前を、私は知っている。
この痛みと向き合って乗り越えることができたなら、過去を過去として思えるようになるのだろう。
まずは一歩を踏みだそう。
私――藍澤紅葉は、松原亮介くんのことが、好きだ。
こんにちは、白木一です。
名前です。
名前なんです。
今回はそれしかいいません。
脳内お花畑、恋愛脳の痛い気100%な私の書いた恋愛小説をどうぞよろしくお願いします。