アンの家族
ある日、ベアッテおばさんが俺の仕事場にアンを連れてきた。石工の徒弟のアマルドに俺の居場所を聞いたらしい。アマルドめ、彼女たちを案内してくれたのはいいんだが、とんでもないことを言いやがった。
「ムスタさん、奥さんと娘さんが見学に来ましたよ」
「アマルド、かんべんしてくれ。俺にはかみさんも子供もいないんだ」
「でも、ほら。あれ? 娘さん、どっちにも似てませんね」
「あいつらは、俺の家族じゃない。大きいほうは俺の下宿に住んでる妖怪だし、小さいほうは拾い物だ」
「ははあ、なるほど。ちょっと何という種類の妖怪でいらっしゃるのか聞いてきます」
慌ててアマルドを引き留めたら、酒をおごる羽目になっちまった。口は禍の元って本当だな。拾い物という言葉にも食いついてきたが、こっちは本当だから、怖くない。余分に酒をせびろうったって、そうはいかないぞ。ところで、何しに来たんだろ? そろそろ終わりにしようかと思ってたところだし、ちょっと早いが相手してやるか。
「やあ、ムスタ。張り切ってやってるみたいじゃないか。よしよし」
ベアッテおばさんは、ご機嫌だ。何がよしよしなんだかな。あんたが嵌めたんだろう。あんたの言葉に流されて、気付いてみたら堅気の生活だよ。文句はないけどな。
「いくら練習をしてもうまくいかないってアンが言うもんだからね、家で石ばっかり相手してても腐っちまうだろうし、あんたの仕事ぶりを見れば刺激になるかと思って連れてきたよ。何か手本を見せてやりなよ」
「おじちゃん、どの石を動かすの?」
アンの目は、期待で輝いている。なるほど、教える時にはアンが使うような小物ばかりを動かしている。大きな石を動かすところを見学させてやれば、練習ばっかりしてるより役に立つかもな。気休めみたいな気もするがまあいい。
「そうだな、ちょっと待ってな。おーい、アマルド」
俺は、ちょっとサービスしてやることにした。俺が運ぼうとしていた石は、割と小さいんだ。そりゃ、一人で持ち上げるなんて無理なくらいには大きくて重いんだが、人足が二人いれば上がらないことはない。その程度の石を持ち上げたって、見た目の凄さが足りないよな。
「なんです? ムスタさん」
「そっちの大きい石を先に上げてもいいか?」
俺は、人より少し大きい石を指差した。
「それ、ムスタさんが明日にしたいって言ってたやつですよ。もう夕方だ。くたびれて魔法がうまく使えなくなってきてるんじゃないですか?」
「そろそろ限界だけどね、他のを免除してもらえれば、それを先に上げられるぜ」
「親方に聞いてきます」
アマルドはいい奴だ。ああいう徒弟なら、眠ってる師匠を足蹴にしたりしないんだろうな。
アマルドの親方ロルフは、喜んで予定を変えてくれた。俺は、呪文を唱え始めた。人の身長より高さがある石だ。幅もでかいから、慎重にやらないといけない。石の周りを回ってバランスを確認しながら少しずつ持ち上げた。ちらっと様子をうかがうと、アンは、魅入られたように石を見つめている。ベアッテおばさんも、感心したような顔だ。こういう状況だと、仕事の疲れも吹き飛ぶね。普段なら集中力が切れてくるころ合いなんだが、今は大丈夫だ。
十五分くらいかかって適当な高さまで上げて、親方が待っている市壁のほうに移動させ始めたときに、ふと気が付いた。アンがまた飛びつくんじゃないか? 持ち上がった石からはあまり目を離したくないんだが、あんまり心配だから、一瞬だけ目をアンに向けて見た。身を乗り出してはいるが、走り出す様子はなかったし、ベアッテおばさんがアンの肩を押さえてくれていた。
安心した俺が親方の指示に従って石を市壁の修理箇所に下ろすと、アンが飛びついてきた。
「おじちゃん、すてきすてき。すごいわ」
かわいいもんだ。よしよしと頭をなでてやった。
でも、ベアッテおばさんは、こんなことを言うんだよ。ひどいだろ。
「ムスタ、あんた、本当に魔術師だったんだねえ。びっくりしたよ」
「おばさん、素直にほめてくれよ。人足がやったら、あれだけで丸一日かかるんだぜ。ターケットの防衛は、俺の双肩にかかっていると言っても過言じゃないんだ」
「過言だろ。ウッジみたいなこと言うんじゃないよ」
ウッジは、そんなことを言ってるのか。あきれた奴だな。
「ほかにも魔術師はいるんだしさ。その人たちは、あんたよりうまいんじゃないかい?」
おばさんは、さらに畳みかけてきた。これはちょっと気に障ったね。
「そんなことはないさ。俺だって、一人前の仕事はしてるんだ。仕事が遅いのは認めるけど、あの大きな石を安定して扱える奴なんざそうはいないんだぜ」
「あんたの前の仕事が役に立ってるってわけかい?」
俺は、ちょっと焦った。この話題はまずい。おばさん、それは内緒だよ。
ベアッテおばさんは、俺の動揺を見てにこっと笑い、アンにこう言った。
「いいかい、石を動かす練習ばかりしていて飽きてしまうかもしれないけれどね、上手になれば、みんなを守ることだってできるんだよ。ムスタの仕事を見たよね。ただ岩を持ち上げてあっちに下ろしただけに見えるけど、魔術師じゃなければできないことだし、あれがどれほど大切なことか、分かるだろ」
アンは、大きく頷きがら一生懸命に聞いている。目を大きく見開いておばさんの顔を見つめ、一言も聞き漏らすまいとしているようだ。
「ムスタ、かみさんか?」
後ろから太い声が聞こえた。ロルフ親方だ。
「親方、かんべんしてくださいよ。俺のかみさんじゃないよ。同じ下宿の住人で、ベアッテさんっていうんだ」
さっき、冗談を言うと金がかかる羽目になるということを知ったから、今度はまともに答えておいた。弟子でさえああなんだ。ロルフ親方にかかったら、一週間分の給金を巻き上げられちまいかねない。
「あんたかい、ムスタをこっちに紹介してくれたのは。ありがとよ。助かってるぜ」
「そりゃよかった。紹介のしがいがあったってもんだよ。いやね、ムスタが簡単な仕事しかしたがらないもんだからね、腕がもったいないし、弟子にもあんまりよくないと思ってね。役に立ってるんなら何よりだ。今日は、ムスタの弟子に師匠の仕事ぶりを見せてやろうと思ってて連れてきたのさ」
親方は、ちらりとアンを見て、わざわざ大声で俺をほめはじめた。
「人足二十人分くらいの仕事をこなしてくれるし、仕事ぶりは丁寧だし、申し分ないぜ。石を運んでもらったら、指示した場所に寸分たがわず置いてくれるし、向きも角度も完璧だ。安定性はこの現場一番だと思うぞ」
最初の何日間か俺の仕事に糞味噌にケチをつけていた親方とは思えないほめっぷりだ。俺の立場に気を使ってくれてるんだろうけど、あんまりほめすぎると嘘くさい。そもそも、この現場にいる魔術師は、俺一人じゃないか。ほら、おばさんが笑いをこらえてる。
親方は、しばらく俺のことをほめていたが、たぶん語彙が尽きちまったんだろうな、そのうち仕事に戻っていった。あそこまでわざとらしくほめられると、本人としては居心地が悪くてたまらない。親方がやめてくれてほっとしたよ。でも、アンにはそんなこと、分からなかったようだ。俺を見る目には尊敬の色が浮かんでいる。まだ子供なんだな。見るからに芝居臭かった親方の言葉を真に受けてら。
下宿に帰ろうと現場を出たとき、アンは、歩きながら体を震わせていた。俺の仕事にずいぶんと刺激を受けたようだ。いわば武者震いかな。これまでもよく練習していたけれど、それとは違う気合を感じる。こいつ、本当に魔術師になりたいんだな。俺はもうあきらめかけていたんだが、もう一頑張り教えてみようかな。
俺たちは、市壁の中を通って帰ることにした。仕事場から下宿まではそのほうが近いんだ。いざ神聖帝国が攻めてきたらこの中に逃げ込むことになるんだから、アンにも少しは馴染んでおいてもらいたいしな。ただ、市壁の中は割と身なりのいい連中が多くて、その点に関しては少しばかり問題のある俺たちには居心地が悪い。俺とベアッテおばさんは、身を縮めながら歩いた。ところが、俺たちよりぼろを着ているくせに、アンときたらまるっきり力が抜けてて、生まれたときからこのあたりに住んでいるような顔をしていた。そういえば、俺は、こいつが生まれた場所がどんなところか知らないんだ。ロネビューから来たって言ってたな。どんなところなんだろう?
そんなことを考えていると、ベアッテおばさんが俺に耳打ちした。
「アンは、こういうところに慣れてるみたいだねえ。さすがロネビュー生まれだよ」
おばさんも同じことを思ってたんだな。ところで、なんでさすがなんだ?
「ロネビューと言ったら、ラガンの中じゃ一番か二番に大きい町じゃないか。景気のいい町で、金持ちも多いって聞いたことがあるよ。だから、神聖帝国に狙われたのかねえ。案外アンも金持ちの娘さんだったのかもしれないねえ」
まあね、いろいろ想像はできるけど、本当のところはわからない。アンは話そうとしないし、こっちとしても聞きにくいから話題に出してない。
アンは、こそこそしている俺たちの前に出て、慣れた様子で歩いていた。でも、いくらこんな雰囲気の場所に慣れているといっても、知らない街なんだから道がわかるわけないだろ。案の定、間違った道に入っちまった。何やってんだろうね、まったく。
慌てて追いかけたら、アンは、曲がってすぐのところで立ち止まっていた。路地に入り込んでなくて助かったぜ。
「こら、勝手にうろちょろすると、道に迷うぞ」
アンの手を取って連れ戻そうとしたら、アンが動かなかった。何かを見てるんだ。視線を追ってみると、身なりの良い女性が、娘さんかな、女の子の手を引いて歩いていた。なんてことのない、普通の親子連れだ。そんなのを見てもつまらないから手を引っ張って行こうとしたら、振りほどかれた。
「お母さん」
アンは、そうつぶやくと、その母親のところに走って行った。あれがお母さん? たまたま都合よく同じ町に逃げてきたんだったら、それは幸運だ。でも、違う感じがするな。あの母親は、この町に馴染んでいる感じだ。最近来た人とは思えない。
アンに声をかけられた母親は、少し戸惑ったように相手をしていた。連れの女の子は、アンに笑いかけた。短い会話ののち、親子連れは去り、立ち尽くすアンが取り残された。
あの母親は、アンの母親に何かが似ていたんだろう。身なりか、顔か、歩き方か、それは分からないが、アンに母親じゃないかと希望を持たせるには十分だった。彼女は、もちろんアンの母親ではなかった。
俺は、動けなかった。希望を打ち砕かれたアンにかける言葉を、俺は持っていなかったんだ。
ベアッテおばさんが走りよると、アンは、突然大声で泣き始め、ベアッテおばさんにしがみついた。おばさんは、アンを包み込むように抱いてやった。そのうちアンが少し落ち着いたのか、おばさんが何か言って、二人でこちらに歩いてきた。
俺のところまで来るとアンが再び激しく泣き出した。おばさんが慰めようとしたが、いやいやをして受け付けない。俺が手を差し伸べるとしがみついてきた。抱き上げてやって、首にかじりつくアンの華奢な腕を意識しながら、家路についた。
市壁の外に出たころ、アンが静かになった。泣き疲れて寝たのかと思って顔を覗き込んだら、大きな目でじっと見返してきた。さっきまでの子供の目とは違う、吸い込まれてしまいそうな、深くてくらい目だった。俺が歩を止めると、アンは、また泣き始めた。静かに、声を上げずに泣いた。
そのうちに、アンは、しゃくりあげながら話し始めた。
「お母さんは、死んじゃったの。兵隊さんがうちにやってきて、殺したの。お母さんは、もういないの。お父さんは、男の人たちと剣を持って家の外に行ったの。お父さんは帰ってこなかったの。そのかわりに兵隊さんが来たの。妹もいないの。兵隊さんから逃げようとして、捕まったの。もう、みんないないの。誰もいないの」
話し終えたとき、アンは、泣くのをやめ、俺をまっすぐに見つめた。この目は、そんな光景を見てきたんだ。子供が見るべきではない、子供に見せるべきではない光景だ。その目は、見る間に光を失い、夜闇の色に変わった。俺は、アンがその闇の中に飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じた。俺は、その闇に対抗できそうな、俺に可能な唯一の言葉を言った。
「俺がいるよ」
アンの目の中の闇は、広がるのを止めた。
「お前は、俺の弟子だからな。弟子といえば」
「子も同然かい?」
わあっ、びっくりした。ベアッテおばさんが横から口をはさんできたんだ。慌てた俺を見るアンの目には、光が戻りつつあった。それを見て安心したら、ベアッテおばさんに俺の科白を横取りされたのが急に悔しくなってきた。
「同然じゃないぜ。子そのものだ」
言い返したつもりの俺の背中を、ベアッテおばさんは、笑いながら太い手でばんばんと叩いた。今度は、俺の目から涙が出た。
次の日、昼飯を食いに家に帰ったら、下宿の前でガキどもが大騒ぎをしていた。ガキ大将のヒルマーが俺を見つけて、走り寄ってきた。
「おっちゃん、アンがすごいよ。おっちゃんよりすげえ」
何言ってんだかな。どうでもいいやと思ってのろのろしていたら、ヒルマーは、俺の背中を押して急がせた。近づいてみると、こりゃどうだい、アンが魔法を使っているじゃないか。小石がころころと転がっている。思わず、おっ、と声を上げた俺に気付くと、アンは、嬉しそうに報告した。
「おじちゃん、あたし魔法を使えたの」
「うまかったぞ。思うように動かせたのか?」
「うん。ほら、もう一度やってみるよ」
アンは、呪文を唱え始めた。例のへたくそな詠唱だ。俺が教えた呪文に似てはいるけど、同じには聞こえない。でも、呪文なんか不正確でも、心のありようさえ正しければ魔法が発動するはずなんだ。親父の話によるとそうだし、俺の経験でもそうだ。それがどういう意味なんだかいまいち分からないけれど。
少しわくわくしながら見守っていたら、石がコロンと転がった。魔力のバランスが悪いんだな。それでも、魔術師への道の第一関門を突破した。周りでガキどもの歓声が上がった。
「転がったぞ」
「アン、すげえ」
「お前、今、息を吹きかけたろ」
「ばか、そんなことするもんか」
口々にそんなことを言っていたが、アンがさらに呪文を続けているのに気付くと、また石に注目した。
「また動くかな?」
「がんばれ、アン」
「さっきの、偶然じゃないの?」
「静かにしろっ。じゃますんなっ」
ヒルマーが一喝すると、うるさいガキどもは、みんな口を閉じた。さすがは大将だ。
アンが真剣な顔でしばらくがんばっていると、やがて、おずおずと迷うように石が転がった。
「動いた!」
「やったー」
周りでガキどもが歓声を上げた。ヒルマーは、我が事のように喜んで、こんなことを言った。
「アン、お前は、本当の魔術師だ。俺の一の子分にしてやる」
そんなこと、ありがたがる奴がいるかな? ほめてるんだか罰なんだかわからないぞ。アンは、きゃははと笑っていた。
そのあと何度かアンが魔法を使うところを見ていたら、午後の仕事の時間が迫ってきた。しまった、昼飯を食い損ねちまった。急げば何か食えないことはなかったけれど、それよりも、アンに言っておくことがあった。
「アン、これからは本気で修業させるぞ。今後、俺のことを師匠と呼ぶようにしろ」
言ってみるとなんだか恥ずかしい科白だな。我ながら照れちまうよ。でも、師弟関係ははっきりさせとかないとな。
「はい、師匠」
アンの返事は、とても素直だった。一人で照れていた俺は、救われた気がしたよ。晴れ晴れした気分で午後の仕事に向かった。腹は減ってたけどな。
で、あの後何があったんだ? 午後の仕事を終えて帰ってくると、アンは俺のことを「おっちゃん」と呼ぶようになっていた。帰ってきた俺を見つけたときの第一声からだ。
「あ、おっちゃん、お帰りなさーい」
「こらちょっとまて、俺のことを何て呼べって言ったっけ?」
「師匠?」
「だったら、お帰りの挨拶はどう言えばいいんだ?」
「おっちゃん、お帰りなさい」
昼のあの素直なアンはどこに行った?
「なぜそうなるんだ?」
「だって、スヴェンが、おっちゃんを師匠なんて呼んだらだめだっていうんだもん」
くそー、悪ガキの影響か。
「どうしてだ?」
「言っても怒んない?」
「何を言うかによる」
「じゃ、言わない」
「怒らないから言ってみろ」
「あのね、おっちゃんみたいな穀潰しを師匠なんて呼んだらいけないって言われたの」
近所の子供は、俺をそんな風に見ていたのか。あまりに的確で、ぐうの音も出ないや。
黙り込んだ俺に、アンが聞いた。
「おっちゃん、穀潰しなの?」
まったく答えにくい質問だね。でも、俺は、威厳を込めて答えた。
「いや、そんなことはない」
心の中で、「今は」って付け加えちまったけどな。
アンは、ふうんとか言いながら何か考えていたが、また質問をした。
「ねえ、穀潰しって何?」
「お前、それを知らずにスヴェンの言うこと聞いてたのか?」
あきれたもんだね。素直なのか馬鹿なのか、どっちなんだろう。
「きっと仕事をしてない人のことだと思ったの。だって、おっちゃん、仕事してなかったもん」
図星だ。こいつ、馬鹿じゃないな。でも、ここで引っ込んでたんじゃ師匠として示しがつかない。
「とにかく、おっちゃんはやめろ。師匠に対して失礼だろう」
「はい」
よしよし、アンは素直だ。
そのうちに、結局アンは、俺のことを元の通りにおじちゃんと呼ぶようになった。たまに師匠とかおっちゃんとか呼ぶことがあるが、それは、ふざけているときだ。アンの中では、師匠とおっちゃんが同じようなものになっちまったのかもしれない。小さい子の頭の中ってのは、どうなってんだろ? まあいいや、師匠と呼ばれるのも照れ臭かったんだ。でも、やっぱり、師匠と呼んでほしかったな。