別れ
アンが出発する日は、あっという間にやってきた。そりゃそうだよ、ハターヤ魔術師と話し合った日の二日後なんだから。その時すでに、神聖帝国は、市内からほぼ駆逐されていた。逃げ損ねたり、ターケットに居座ろうとして隠れている奴らくらいしか残っていない。武士や自警団員は、総出でそいつらを追い出している。市壁内に避難した連中が家に帰るまで、もう何日もない。その前にアンをターケットから離したかったから、急いだんだ。もちろん、アンが王軍に行くことを、誰にも言ってない。これが知れ渡ったら、根掘り葉掘り聞かれてしまうだろ。それは困るんだ。アンの友達には悪いけど、しょうがない。男爵邸では男爵と奥様が見送ってくださったが、他には何もなく、俺たちは、ひっそりと出発した。
俺たちは、市壁の門から外に出た。もうブランコを使う必要はない。あの老魔法使いのブランコは乗り心地が良かったが、やっぱり歩いて出られるほうがいい。王軍がよこした馬車は、市内に少し入ったところで待っている。ほとんどの道に土塁が残っているから、馬車では奥まで入ってこられなかったんだ。市壁外に出るというので武士の一小隊が護衛にあたってくれたが、もう敵兵がいない地域しか歩かないから、みんなくつろいでいた。つい先日までの緊張感が嘘のようだ。
アンは、首都に行って王宮を見られるというので大張り切りだった。だが、王軍に入るのがどういうことかわかっていないようだ。
「あたしね、領主様の館の花壇を見られなかったのが残念だったの。ヨエルおじちゃんが連れて行ってくれる約束だったのに、忙しくてだめなんだって。でも、王宮にも花壇があるわよね。きっと、王宮の花壇は、領主様の花壇に負けないくらいきれいだと思うの。王様って、領主様より偉いでしょ。えらい人ほど、花壇を大事にしてるはずだもん。だって、人の心を大事にする人は、花壇も大事にするでしょ。だからそう思うの。あら、でも、もう秋よね。秋の花を植えるのを忘れていないかしら。ねえ、サラおばちゃん、王宮の園丁さんは、秋にも花を咲かせてくれるかしら?」
相変わらずよくしゃべる。
「大丈夫よ、しっかりした園丁が花壇の面倒を見てるから。ちょっと、おばちゃんて何よ!」
「よかった。王宮の中には花が飾ってあるの? ほら、男爵様のところでは立派な壺にお花が挿してあったじゃない。ねえ、おばちゃん、あんなのもあるの?」
「あるわよ。もっと素晴らしいわよ。おばちゃんって言うの、止めない?」
「わあ、早く見たいなあ。王宮にはいつつくの? お昼ころ?」
「何言ってるの。そんなに近いわけないじゃない。四日後よ」
「えー? 馬車って遅いんだ。歩いたら?」
「歩いたら半月かかるわよ」
「えー? おばちゃん、ひどい」
「あたしのせいじゃないわよ。それから、おばちゃんていうの、止めなさい!」
能天気なアンと諦めの悪いサラが話しているの聞きながら二十分も歩いたころ、出迎えにきた王軍の使いが見えてきた。立派な二頭立ての馬車が二台ある。近くの戦場から調達してきたんだろう、どちらにも傷が目立つ。馬車の周りには、隙なく武装した何人もの武士が下馬して並んでいる。少し疲れが見えるが、明るい顔をしている。
俺たちが近づくと、ひときわ立派な武具を身に付けた武士が、一歩進み出た。
「ハターヤ魔術師、クーセラ魔術師、お待ちしておりました」
「アルヴォネン隊長、出迎えご苦労」
「こちらがアン殿ですか?」
アンは、ごく普通の服を着ていた。男爵家の奥様が、旅には軽装が一番と言って選んでくれた服だ。確かに動きやすそうなんだが、まるで、そこらの子供が見物に来たように見える。アンが小さい子供だと聞かされていなければ、追い払われたんじゃないだろうか。
そのアンは、奥様に昨日仕込みなおされたお辞儀をして見せた。スカートの裾が十分に広がらず、途中で落としてしまったのが残念だったが、なかなか優雅な挨拶だった。隊長と呼ばれた男は、にこっと笑った。
「おお、失礼しました。アン殿。首都までの護衛を承ったアルヴォネンと申します。道中よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
妙に落ち着いて答えたアンの気取った声は、人々の微笑を誘った。アンは、アルヴォネン隊長に促され、ハターヤ魔術師の後ろから馬車に乗った。こんな立派な馬車なのに、まったく物おじせずに乗り込んでいく。一体どんな家で育ったのか、俺は、いまだに知らない。もう知る機会もないだろう。
アンが馬車の窓から顔を出して、明るい声で言った。
「おじちゃん、あっちで待ってるから、早くお仕事を終わらせて来てね」
「ああ、分かった。いい子して待ってろよ」
アンには、ターケットに仕事があるから俺だけ後で行くと言ってある。でも、行くつもりはないんだ。俺には王軍魔術師団に入るような腕がないし、それに、アンの邪魔になってはいけないだろ。アンは、アンにふさわしい仲間とやっていくべきだ。こそ泥上がりの俺と一緒じゃ、将来色々と支障があるかもしれないじゃないか。だから、これでお別れだ。
馬車が走り出した。アンが窓から手を振ってくれた。ご機嫌な顔だ。俺も手を振り返した。だが、アンと同じように笑うのは難しい。
馬車は、すぐに道を曲がり、見えなくなった。
「がんばれよ、アン」
口に出していってみたら、胸が痛くなった。アンが俺のところにいたのは、たったの三か月だ。そのうち、俺のことなんか忘れてしまうだろう。できれば、ターケットでの出来事も忘れるほうがいいのかもしれない。エーダン通りの大破壊を、永遠に知らずにいられればいいのに。でも、そうはいかない。いずれは知ってしまうだろう。俺は、十分に面倒を見てくれるという王軍魔術師団を信頼していた。アンが健やかに育つように、うまくやってくれよ。
俺は、馬車が走って行った道を、しばらく見つめていた。雲が流れてきて日が陰り、冷たい風が俺をなでた。俺は、急に寒さを感じた。俺たちの戦いなど気にも留めずに、秋は、着実に深まっていた。
護衛を待たせすぎてもいけない。そろそろ帰ろうと後ろを向いたら、誰かにぶつかった。
「あいたっ、急に振り向かないでよっ」
「す、すみません。前をよく見てなくて……って、サラじゃないか。何やってんだ? 馬車は行っちまったぞ。乗り損ねたのか?」
「馬鹿言わないでよ、あんたじゃないんだからね。ハターヤ師の指示であんたを待ってあげてたのよ」
「へえ? 男爵邸なら、一人で帰れるぜ。護衛もいるし」
「何言ってんのよ。護衛ならもう返したわよ」
「あんたが俺の護衛をしてくれるのか?」
「違うわよ、はい、こっちの馬車に乗って」
サラの指し示す先には、二頭立ての馬車があった。なぜ、走って行ったはずの馬車があるんだ? わけが分からずぼうっと見ていたら、馬と目が合った。馬は、顔をこちらに向けて、挨拶のつもりか、ぶるるるっと鼻水を飛ばしてきた。袖で顔を拭う俺を見て、馬車の横にいた王軍の武士が笑った。
「そういや、さっき走っていたのは、一台だったかな」
「いいから、さっさと乗りなさい」
俺は、馬車に押し込まれながらも抗議した。
「なんで俺が乗らなきゃならないんだよ。俺には、ターケットに仕事があるんだ。やめろ」
「ハターヤ師の指示だってさっき言ったでしょ。男爵閣下にもご許可いただいたわ。あんたは、今から王軍に入るのよ」
これはたまげた。
「俺が王軍魔術師か?」
「違うわよ。あんたが王軍魔術師になれるわけないじゃない。王軍魔術師だけが王軍の魔術師じゃないのよ。あんたが行くのは、輜重隊。武器や食料を運ぶのが仕事よ。あんたがブランコの自重の八倍の物を運べると言ったら、輜重隊長がぜひほしいって言ってきかないのよ」
「そりゃありがたいことだけど、俺はターケットに残ることにしたんだ。下ろせ」
「うるさい。ありがたく一緒に来なさい」
「なんでそうなるんだよ」
「アンのことも心配でしょ。アンは、あんたによくなついてるわ。信頼してるのよ。そのあんたに嘘をつかれたなんて知ってごらん。傷つくわよ」
「嘘なんかついてない」
「後で行くなんて言っといて、実は行かないつもりでしょ。みえみえなのよ」
「そんなこと」
「ないっての?」
「うう。でも、俺も行くなんて話は聞いてない」
「つまり、行かないつもりなんでしょ。それのどこが嘘じゃないってのよ」
「う、嘘かな」
「でしょ。アンのためにも、黙って一緒に来るほうがいいわよ。あんたには、アンの親代わりをやってもらうんだからね。それから、こんな話をアンに聞かせずに済むように配慮してくれたハターヤ師に感謝しなさいよ」
「それなら、最初から言ってくれればいいじゃないか」
「あんたを説得するためだけに、出発を遅らせるわけにはいかないでしょ」
「でも……」
「えーい、四の五の言うな!」
馬車の中の騒ぎには構わず、御者が馬を走らせた。困り切った俺を乗せた馬車は、アンの馬車と同じ道筋をたどって走った。道なりに曲がって出発点が見えなくなったところに、手を振っている武士がいた。ヨエルとマッツとトミだ。気を利かせた御者が速度を落とした。
「がんばれよ」
「ターケットの面倒は俺たちが見るから安心して行け」
「パウルは治療師に捕まって来られなかった。あいつの無事を祈ってやれ」
それぞれが勝手なことを言っている。
「お前たち、俺がさらわれてるのに助けようともしないのか」
俺が責めると、三人がどっと笑った。
「俺たちも、人さらいの手先だったんだ。知らなかったのか。とっととあきらめて、王軍に行け」
そんなこと知るはずがあるか。
馬車が速度を戻し、三人はあっという間に見えなくなった。
「くそっ。ターケットも治安が悪くなったもんだ」
しかめっ面をする俺を横目で見ながら、サラが言った。
「まあ、そういう成行きなんだから、諦めなさい。ちゃんと仕事もあるんだからさ」
成行きか。その言葉を聞いて、俺は、この三か月のことを思い返した。アンを拾ったときから、ずっと成り行きのままにやってきてこうなったんだ。このまま成行きに流されていくのが、俺らしいのかもしれないな。
そう考えなおしたとき、ベアッテおばさんのセリフを思い出した。「アンにも、あんたと同じような仕事についてほしいのかい?」 そうさ。今はそう思う。みんなを守る仕事につくんだからな。これなら、彼女にも叱られずにすみそうだ。




