五月⑦ 決定稿
翌日から、バイトの終わる夜の十時過ぎに夜の学校に忍び込み、校舎とグラウンドを利用しての飛行練習が始まった。
まずは四階まである校舎の屋上にジャンプ。このくらいは普通の跳躍で辿り着ける。それだけでも充分すごい。さらに屋上から全力で上空に跳び、静が追加してくれた推進力なるものも利用してビルの二十階相当の高さまで辿り着く。そこから手足を繋ぐ目に見えない飛膜を使って、グラウンドの端で待っている静の元を目掛けてジャンプする。
予想通り、それはとても難しかった。日によって風の向きや強さも違う。ちゃんと着地できる日もあれば、とんでもない方向に流される日もある。そんな日々を一週間過ごした、次の土曜日の放課後。静からメールが届いた。スーツのデザインが届いた、と。
僕は朱ちゃん達と学校の食堂で昼食を済ませると、一目散に静の家に向かった。
「飛んでくればもっと早く来ることが出来たでしょうに」
僕を出迎えてくれた静が開口一番、無茶な事を言ってくる。こんな白昼堂々と力を使える訳がないじゃないかと文句を言うと、静はしれっと言う。
「ステルス迷彩機能はもう付けているのだから、いい実践テストになったでしょうに」
自分でリクエストをしておいて、その機能をすっかり忘れてしまっていた。
「さすがにまだここまでの長距離を飛んでちゃんと着地できる自信は無いよ。昼間だとそれなりに人通りもあるし、歩行者とぶつかったりしたら大変だ」
「校舎の上からもう二百回ほどは飛んだかしらね。残り三百回、がんばりなさい」
「……がんばるよ」
そんな会話をしながら僕達は一階のいつもの和室に向かい、テーブルを挟んで座る。
これよ、と静が差し出した大きな封筒を受け取る。
「てっきりメールで来るものだと思っていたけど、意外とアナログなんだな……」
「これも匿名性を守るためのものらしいわよ。ネットを通すというのは、全世界に向けて公開しているも同然ですしね。なにかしらの痕跡が残ってしまいますから」
「なるほどね」
僕は封筒を開き、厚紙に挟まれている紙を取り出す。
「あれ? 何か多くないか」
静が依頼したのは三点のはずだ。しかし、取り出した紙をテーブルに広げていくと、どうみても九枚はある。
「三人に三種類描いてもらったみたいね。全身を青で統一したものや、黒をベースに各部位にワンポイント的に青を使ったもの、他にも赤をちりばめたものなど。エッジという名前を視認できるようにロゴも作ってくれたみたいね」
三案に対してさらに二種類のバリエーション。動きを制限しそうなゴテゴテしたものは無く、機能性もバッチリ。ロゴも三案あり、ここに付ければこうなる、といった見本もある。もちろん背面も描かれている。
さて、どれがいいかと目を凝らして見比べていると、ふとロゴの一つが気になった。『気に入った』というのではなく、『気になった』だ。それは、カッターナイフで無理矢理文字を書いたような直線で構成された英語のエッジの文字。その文字の後ろには、同じくカッターで描いたような、細かな直線で描かれた歪な三日月。
「空にある月の門から刃が出てくるイメージ──という注釈が書いてあるわね」
静のその言葉を聞いた僕は、全身に鳥肌がたつのを感じた。
「静」
「はい?」
「僕の名前とか、教えてないよな?」
「ええ」
「だよな。そうだよな。うん、そうだと思ったよ。でもさ──だったら、なぜこうも僕の名前に含まれる漢字が全て使われているんだ? 偶然か?」
「そういう事が出来てしまう──そういう人なのよ。刃という単語と青のイメージカラー。ヒーローを作り出そうとする行動。その理由はなにか。依頼人である私の住む町はどこか。その近辺の住人に刃という漢字を含んだ名前の人物がいないか。そんな断片的な情報からひとつの答えを導き出せる──そんな化け物なのよ。だからあまり気が進まなかったのだけどね。いい気はしないでしょう? 見透かされているようで」
静は特になんの感情も表に出さず、僕に続ける。
「まあ──いずれ仕事をもらう立場になるのだから、近いうちにでも紹介するつもりだったけれど。私でもあなたの過去を知ることくらいは容易だったもの。めずらしい苗字ゆえに……ね」
「…………」
「私も言ったでしょう? 覚えてないかしら。相応しい名前すぎて驚いたと。月は私達の世界と、悪魔の住む隠世を繋ぐ門。私に協力するということは、空に浮かぶ月の門に刃を向けるということ。そういう世界を知っている人間からすれば、特定は容易いわ」
そういうことか。そういう事が出来てしまえる、そういう人がいるという事実に驚きを禁じ得ない。静の作ったこの力もたいがいな代物だけど。
僕の周囲がどんどん日常から切り離されていく錯覚に陥る。
「心配しなくても、実害は無いわよ。むしろ好意的に受け取ってもいいくらいよ。私達の意図を正確に把握して、見た時に子供が怖がらない、安全のために尖った部分が無いように、そういった部分もちゃんとデザインに反映してくれているわけだしね」
たしかにどのデザインも、黒を基調にした物でも怖さは感じない。鋭利な所もない。子供にも安心のデザイン。仕事としては確かにこれ以上ないほどに完璧だ。その完璧を求めるために、意図を探るために──その過程で僕という存在にたどり着いたということだろうか。
「仕事に関しては信頼できるといったでしょう。不満があるなら、後日直接文句をいいなさい」
「いや、文句とかは別に無いよ。情報って怖いなって改めて思っただけだ」
「そう。では、選んでくれるかしら。気に入らなければ、返品もできるけど」
「いや、十分だよ」
合計九つあるデザインはどれも素晴らしいものだ。その中でも、特に僕の目を惹きつけてやまないものがひとつある。お腹、二の腕、太ももや腰回りは黒色で、質感はライダースーツを連想させる。それ以外の部分に少し濃い青を基調とした甲冑のようなものを着ている感じだ。胴体には、中世の時代にあったサーコートと呼ばれる甲冑の上に着る外衣のようなものが足の付け根付近まである。その青いサーコートを二本のベルトで締めている。頭部も青く、目の部分は赤いレンズが角度の緩いVの字状に耳元まで伸びている。デザイン的にはどれも甲乙付けがたいものばかり。ヒーロー像を意識した九つの中でも、そのデザインだけは異質で、サーコート部分が遠目に見ると服を着ているようにも見える。甲冑を思わせるデザインと、服を着ているようなシルエットのアンバランスさが理屈抜きで純粋に僕好みなのだ。それを僕は指さしながら言った。
「こいつの胸のところに、このロゴを入れた奴で頼む」
英語でEdgeと書かれた文字の後ろに月が描かれているロゴだ。
「今回は決断が早いわね。一日だけ時間をもらえるかしら」
「そんなに急がなくてもいいよ」
「急いではいないわ。普通にやって一日かかるというだけ」
「そっか。今日でバイトは最後だから、明日は何時でも大丈夫だけど、どれくらいに来ればいい?」
「バイトを辞めるの?」
「うん。三百万円分の仕事を優先させないと、と思って。いつどんな仕事がくるかわからないからね」
「そう。では、明日のお昼一時でいいかしら。日曜だから学校も無いのよね?」
「そうだけど、本当にそんな早くでいいのか?」
「ええ」
本人がいいというのだから、きっと大丈夫なのだろう。
「じゃあ、明日また来るよ」
デザインを反映させてもらうため、僕は右手のブレスレットを外して静に手渡す。今日の飛行訓練はお休みだ。と思っていたら──
「代わりにこれを」
静が差し出したのは、見た目が同じブレスレット。
「予備に作っていた物ですが、そちらにも同じ機能を追加しておいたわ」
どうやら僕に休みは無いらしい。




