五月⑤ トイレはどうすんの?
翌日、僕は昨日渡された紙切れに書かれた住所と携帯のナビを頼りに静の家に向かった。最寄り駅は学校がある成法西駅で、目的の家も学校からそう離れてはいなかった。
少し迷いながらも徒歩で十五分ほどのところに目的の家を発見する。
近代住宅が立ち並ぶ閑静な住宅街にあって、和の雰囲気を醸し出すモダンな和風住宅が目を引いた。その玄関口に静が待ってくれていた。昨日とはまた違う柄の、薄茶色の着物を着ていた。白衣は着ていない。僕が昨日貸してもらったのだから当然か。白衣は現在、我が家で洗濯後の外干し中である。
「丁度五分前にくるなんて、几帳面なのね」
「いや、それは偶然なんだ。待っててくれて助かったよ。ちょっと迷子気味だったから」
「表札をつけていないから、分からないかと思ってね」
表札があっても、苗字を教えてもらえてない身としてはあまり意味が無い気もするが、口には出さない。しかし、表札もつけないほど、家族ぐるみで苗字を嫌っているのだろうか。
家の中に案内される。僕の緊張を見て取ったのか、静が言う。
「私以外、誰もいないから楽にするといいわ」
「一人暮らし?」
「ええ」
大きな家だったので一人暮らしというのは予想外だ。
静の後を追って木製の廊下を進み、突き当たりで立ち止まる。左側の障子を開き、中に入っていく。
「入って」
静に促されるまま中に入る。学校の教室位の広さはあるだろうか。畳が敷き詰められた大きな和室。その独特な畳の香りは、あまり馴染みのない僕にはとても新鮮だった。
部屋に入るなり、静はいきなり話し始める。部屋の中で立ち話というのも新鮮だ。
「世間話をしても仕方がないので本題に入るわね。刃月、あなたにとって力とは何かしら?」
「力……?」
「そう、力。純粋な強さ。あなたは強くなりたいと思う?」
「そりゃあ、思ってはいるよ。もう……守られるだけの弱い自分は嫌だしね。守れる強さがほしいとはいつも思っている」
「私は守られたいわけじゃない。開放されたいの」
「その、なんだ……開放? というのが何を指してるのか分からないんだけど」
「私は昔、ある呪いをかけられたの。その呪いから開放されたい。それが私の望みよ。そのために、あなたは力になってくれるのかしら?」
「昨日言ってた、悪魔とか、そういうオカルトちっくな話? その解放というのが静にとって救いになるというのなら──僕に出来ることがあるのならなんでもするよ」
「そう。では改めて言うわ。悪魔を殺してくれないかしら。私のために」
その言葉は、どこまで真に受けていいものだろうか。昨日も帰ってからずっと考えたけれど、やはり自分の目で見たもの以外の存在を言葉だけで信じることは出来ない。迷う僕に、静は続ける。
「私はそのために、研究を続けてきた。人知を超えた存在に対抗しうる力を手に入れるために。そして私は作り上げることが出来た──つもりだった。でも、結局私は勝てなかった。力だけではどうにも出来ないと気付かされた。そして私は絶望した──」
「…………」
「今すぐ信じてとは言わないわ。でも、実際に会えば、信じてくれるのでしょう?」
「そりゃあ、まあ……」
「では、会う前に……まずあなたには、これから渡す力に慣れてもらいます。でなければ、確実に殺される。だからまずは力に慣れて、それから実際に会ってもらうわ」
単調な、感情のこもっていない声で殺されると言われ、ぞっとした。
悪魔に呪いか……もしかしたら相手はただの人間で、その強さが群を抜いているから悪魔的だと比喩をつかっているだけなのかもしれない。けれど多数の男を相手にまったく怯まなかった彼女が、絶望にいたるほどの相手だ。その表現はけっして大げさなわけではないのだろう。
「僕にその──なにかしらの力を貸してくれる、って事でいいのかな?」
「ええ」
静はうなずく。そして、おもむろに僕に近づいてくる。
「右手を出して」
言われるまま、右手を前にだす。静は僕の手首に、太さが一センチもないであろう白くて細い紐のようなものを巻きつけた。
静が手に持っていた段階では柔らかそうに見えたその白い物は、手に巻きつくとプラスチックのような──いや、鉄のように硬い感触に変わった。
中心には細い液晶画面のようなものが見える。そこには現在時刻が表示されていた。そのすぐ横に小さなボタンのようなものが三つ見える。それを静が右、左、真ん中の順に押すと──僕の視界が一瞬暗くなり、すぐに元に戻る。
昨日も同じような事を体験した気がする。
「そのまま動かないでいてね。家を壊されるのは困るから」
僕が動くだけで壊れる家とか、脆すぎて逆に怖くなるのだけど。
静はおもむろに部屋の隅に行き、銀色の長い棒状の物を手にして戻ってくる。
「ここに鉄パイプがあります」
静はそう言いながら、鉄パイプを僕に手渡す。なぜこんな物騒なものが……?
「それを曲げてみてくれないかしら」
「曲げる?」
僕は首をかしげる。さすがの僕もこんな頑丈そうな鉄の棒を曲げられるほどの力は無い。無理だというのを見てもらうために、とりあえず両端を持って力を入れてみる。
「ほら、僕には無理──」
そう言いかけて、絶句する。
簡単に曲がってしまった。鉄の棒だと静は言った。しかし、なんだこれは……。軟らかい。長細いクッションでも持っているかのような錯覚に陥る。
「これは……見た目が鉄っぽいだけの何かかい?」
僕の問いに、静は首を振りながらまた僕に近づいてくる。僕の右手のブレスレットに何か操作をしたかと思うと、鉄パイプが急に重くなったと感じた。そういえば──さっき手渡された時、重さをまったく感じなかった。
「今の状態で、その曲がった鉄パイプを元に戻せるかしら?」
今の状態というのが何を指しているのか分からないまま、とりあえず力を入れてみる。硬い。どう見ても鉄だ。元に戻せる気がしない。
「なにが……どうなってるんだ?」
「いったでしょう? 『力』を貸してあげると」
「だから、分からないって」
「右手のブレスレット。さっき私が押した順番を覚えていて?」
「ん、ああ、右、左、真ん中、だっけ?」
「ええ。その順に押してみて」
言われるまま、今度は自分で押してみる。さっきまで感じていた鉄パイプの重さが嘘のように無くなり、持っているのかさえ分からない錯覚に陥る。
「もう一度鉄パイプを戻してみてくれるかしら」
今度はたいして力を入れなくても、簡単に元に戻すことが出来た。
「理解してもらえたかしら?」
「……このブレスレットみたいなのが何かしているのか?」
「そうね。あなたは今、ブレスレットから放出されている透明な粒子で全身を覆われているの。パワードスーツとでも言うのかしら。人体の力を底上げする──補助するとでも言うか……飛行機や豪華客船を持ち上げることも容易いわ」
そんなのが容易いとか、補助するってレベルじゃないぞ。これは……使い方を間違ったら……というか、加減をしなかったら、人を殺しかねないんじゃないか。
「これって……どこかの国の兵器か何かか?」
「もちろん兵器としても使えるでしょうね。私は人間を相手にするような次元を想定して作ったわけではありませんから。やろうと思えば世界征服だって出来るでしょう」
「いくら力が強くても、核とか撃たれたらどうしようもないだろ」
「平気よ。爆発に耐えられる強度もあるし、スーツの中には酸素しか取り込まないから放射能も問題ない。酸素を圧縮して保存しているから、酸素が無い宇宙空間や海の中でも一年間は生きていける。肉体を維持するのに必要な成分も各粒子が保存しているから食事も要らないわ。人が作った兵器ごときでは、何もできない。誰も抵抗できないわ」
「原理はよく分からないけど、まあ、なんだ……そんな酸素の無い場所でも栄養はとれるとして、出す方……その、トイレはどうすんの?」
「…………」
静が固まった。考えていなかったらしい。
「……か、考えておくわ」
必死に平静を装う静の姿が可愛らしい。
しかしすごいな……。こんなものを一人で作ったというのか。人間相手なんて、眼中にも無い。悪魔を倒すため──
「と、とにかく、これがあれば誰にも負けることの無い存在になるわ。──あくまでも、人間相手の話ですけどね」
最後は少し自嘲的に聞こえた。
「これがあっても君は負けたっていうのか? その……悪魔とやらに」
「ええ」
もうひとつ気になっていた事を思い出し、聞いてみる。
「何度か君の口から出ていた呪いってのは、なんだ?」
「言わないと助けてはくれないのかしら?」
「いや、そういうつもりで聞いた訳じゃないんだけど……」
「では、ノーコメントでいいかしら」
んー……見た感じはいたって健康に見える。気になる点としては、表情にほとんど変化がないという所だろうか。感情の起伏が無いというか……そういうものを取られたとかそういった話だろうか。
いや……そのくらいのことで、こんなすごい物を作ってまで悪魔とかいう奴に喧嘩を売るだろうか。と、いろいろ考えたところで、答えなど出るはずもない。静も答えたくないようだし、この件は忘れるしかなさそうだ。
「わかったよ。それで、具体的な話として悪魔とやらに会うのはいつなんだ?」
「あなたが力を使いこなせるようになってからね。あなた次第で遅くも早くもなる」
「どういう事が出来れば使いこなしているって事になるんだ?」
「まずは力をコントロールというか、加減できるようになる必要があるわね。人殺しにはなりたくないでしょう?」
「そうだな……僕──というか、個人で持つには危険すぎる代物だし、取り扱いには細心の注意が必要そうだよな」
ん……まてよ。説明を聞く限り、これは核以上の兵器といっても過言ではない代物だ。そんな物を僕個人が持っているという事が公になるのはまずくないだろうか。自衛隊の設備にも常に目を光らせている近隣諸国もある中で、『日本人が』巨大な火力を持っているという事実は、国家間で新たな緊張を生み出しかねない。もし目撃者がいたりすれば、調べようとする人も現れるかも知れない。今はインターネットですぐに拡散してしまう世の中だ。そういう事態を防ぐには──
「匿名性……」
僕のつぶやきに、静が目を細める。
「どうかして?」
「いや、僕という個人を特定されないようにしないとまずいんじゃないかと思ったんだ。力が大きければ大きいほど、さ。今はネットですぐに情報が広まってしまうし……」
「ああ、そういうこと。では、マスクでも被る?」
「マスクか……そういうのも有りだろうけど、だからといって何のマスクを被る? 既存のものを被った場合、そのキャラのイメージを壊してしまわないか?」
「神経質ね。ファンがどう思おうと関係ないじゃない」
「いやまあ、そうだけど……」
僕は小さい時、ヒーロー物の映画を見て、憧れていた時期もあった。でも、僕自身が事件に巻き込まれた時、誰も僕と母を助けてはくれなかった。神様なんていない。ヒーローもいない。それを知った。いないのならば、僕自身がヒーローもどきになればいい。毎度毎度傷だらけで、決してスマートに助けることは出来ないけれど、困っている人を見つけたら、助けよう。
今の僕を形作っているのは、そういった過去の思いもある。声が聞こえるようになったのも、きっかけの一つに過ぎない。事件、思い、声──その三つが重なって、今の僕がある。そして今、四つ目の要素が目の前にある。
大きな力。それを活かす為に必要な物は──
「なあ、静」
「なにかしら」
「このスーツ? って言うのかな。これって、全身を覆っているんだよね? でも見た目が変わらないって事は、透明なんだよな?」
「ええ」
「透明じゃなくす事って出来る?」
静は首を傾げる。
「たとえば──特撮や洋画のヒーローみたいにさ。ちゃんとデザインされた戦闘服のようなものに出来ないかな?」
現実にはピンチを助けてくれる神様やヒーローなんていやしない。それならば、僕自身がこの力で、今度こそ本当の、正真正銘のヒーローになればいいじゃないか。